京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

伏見稲荷・深草・伏見桃山・鳥羽他

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長建寺

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京都市の南の玄関口ともいわれるのが京阪電鉄の中書島(ちゅうしょじま)駅です。

中書島というのは現在の伏見区東柳町・西柳町に当たる地域ですが、元々は宇治川で隔てられた中島だったようです。また、豊臣秀吉が伏見城を築いた文禄年間(1592〜96)に、この地には配下の大名で「賤ヶ岳の七本槍」の一人としても知られる脇坂安治(官位は中務大輔=なかつかさたいふ)の邸宅がありました。「中務(なかつかさ)」を中国風に書くと「中書」となることから脇坂安治は「中書(ちゅうしょ)さん」と敬称されていたということで、これが中書島という地名のおこりと伝わります。
(尚、脇坂家は淡路洲本、伊予大洲、信濃飯田を経て播州龍野の城主として明治維新まで続きますが、中書島には脇坂侯下屋敷が元禄七年(1694)まで存在したと伝えられているそうです。)
中書島は、伏見城の廃城により一時衰退しましたが、元禄年間に伏見奉行の建部内匠頭政宇(たてべたくみのかみまさのき)が開拓し発展していきます。

建部政宇はこの地に長建寺を創建、また長建寺の門から北の宝来橋〜今福橋にかけて遊女を集めて遊廓としました。こうして中書島一帯は大阪と京都の中継地・伏見の一大歓楽地となり旅客で大いに賑わったということです。(特に建部政宇が伏見奉行として在任したの正徳四年(1714)までの15年間の伏見は日本屈指の大都会だったそうです。)





さて長建寺です・・伏見区東柳町にある長建寺は、山号を東光山、正式名を辨財天長建寺 (べんざいてんちょうけんじ)という真言宗醍醐派に属する寺院です。元禄十二年(1699)、伏見奉行の建部政宇が中書島を開発した際に、深草大亀谷にあった即成就院(即成院 正暦三年(992)に恵心僧都が伏見に建てた光明院に始まり、寛治元年(1087)に藤原頼通の子の橘俊綱が即成院と改めた寺院です・・・その後移転して現在は泉涌寺の塔頭として知られます。)から、塔頭の一つ多聞院を分離してこの地に移し八臂弁財天(鎌倉時代後期作)を本尊とし祀ったことに始まります。尚、長建寺という寺名は、建部氏の長寿を願って名付けられたと伝えられます。

長建寺の本尊弁才天は、音楽をもって衆生を救う神=芸能神として、また福徳・知恵・財宝をもたらす七福神の一つとして、芸の道を目指す周辺の廓の遊女達からも厚く信仰され、元々この地が島だったことから、「島の弁天さん」と親しまれました。また淀川を行き来する廻船の守護神としても信仰を集めたということです。華やかな歓楽地だった中書島も第二次大戦後に周囲の遊郭も取り壊されて、現在は長建寺の朱塗りの壁等に当時の華やかさをわずかに残すのみとなっています。





赤い土塀と唐門の華やかな長建寺ですが、境内はそれ程広くなく質素な雰囲気です。
唐門横を入った場所にある飛龍大権現と摩利支天尊を祀るお堂の横には、鐘楼があり、鐘楼の下部分では和歌のおみくじが販売されています。おみくじの元祖は、平安時代の比叡山延暦寺の天台座主・良源大僧正(元三大師 慈恵大師)と伝えられ、長建寺のおみくじは、元三大師の元本そのままを使って和歌に編集した伝統的な珍しい的なものです。また、古銭型のお守り「宝貝守り」も江戸時代より伝わる由緒あるお守りということです。
その他、境内には、伏見の名水の一つ閼伽水(あかすい)があり、弁財天に供えられたり庭の桜などの木々を潤しています。また名水の流れる手洗石は、元の即成院から移されたものです。また不動明王堂、伏見奉行の建部内匠頭政宇が奉納した弁天型灯篭等があります。

尚、長建寺で毎年7月第4日曜夜に行われる「弁天祭」は、以前は淀川に御輿や篝船(かがりぶね)を並べる舟渡御(ふなとぎょ)が盛大に行われていたということですが、淀川の流れが変わったことなどにより、昭和二十六年(1951)を最後に途絶えているそうです。現在は弁天祭と2月節分祭には、修験者により紫燈(さいとう)大護摩修行が行われています。また桜の季節には、境内の桜が唐門とマッチして華やかな雰囲気になるようです。

長建寺は、以前は通常公開されていた寺宝も現在は公開されていないようです。全体として特に見所が多いお寺ではありませんが江戸時代の伏見の繁栄を今に伝えているシンボル的な存在です。

寺田屋

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伏見区南浜町にある旅館・寺田屋は、坂本龍馬と「寺田屋騒動」で知られ、「維新は寺田屋の一室から生まれたり」とも呼ばれる史跡です。いつも修学旅行の学生や幕末ファンを中心に多くの観光客が訪れています。また宿泊も可能です。(素泊り料金6500円)



さて、江戸時代の京都伏見は、大阪と京都の間を淀川〜宇治川でつなぐ物資輸送の大動脈の中継地として栄えました。今も伏見区西部の街中を宇治川派流(疎水と宇治川を結ぶ)が東西に横断して流れ、伏見城の外堀として掘削された濠川や東高瀬川(有名な高瀬川の流末、新高瀬川とも)が南北に流れています。寺田屋のある南浜町という町名も、淀川三十石船の船着場や荷揚場のひとつ南浜にちなんでいます。

寺田屋も南浜の船宿の一つで、前の船着場は寺田屋浜と呼ばれていました。
船宿の営業時間は1日20時間で、朝6時から朝廷に荷を運ぶ「今井船」ら3艘を仕立て、昼に3艘、夜に4〜5艘の「三十石船」を仕立てたようです。2時間ごとに30人程の客の食事や休息、入浴などの世話をするために大変忙しかったようですが、その分、船賃(慶応時代には約300文)の2割が収入となっていて、財政的には豊かな宿が多かったということです。寺田屋は、桃山時代の慶長二年(1597)百姓出身の伊助という人物が伏見京橋(現在の伏見区南浜)に移って船宿を開き、出身地の寺田村の名前から寺田屋と名付けたと伝えられます。その後江戸時代を通じて船着場として伏見京橋界隈は大いに栄え、六代目当主伊助の時代になっていた幕末の寺田屋は、薩摩藩の定宿に指定され、坂本龍馬や他の西国藩志士達も京都へ向かう際に常宿として大いに利用していたようです。この六代目伊助の女房が、お登勢(とせ)で、「寺田屋お登勢」は龍馬等多くの志士を助けたことで良く知られ、龍馬も「この人学問ある女で人物也」と高く評価しているそうです。

他の船宿と違って、寺田屋の名前が現在まで知られるのは、幕末の有名な事件の舞台となったからですが、まずは文久二年(1862)の「寺田屋事件(寺田屋騒動)」です。
当時、薩摩蕃内には、薩摩藩主島津忠義の父・久光を中心とする公武合体派(朝廷の権威と幕府を結びつけることによって幕政改革を行おうとする)と、勤皇倒幕を主張する急進派がありました。文久二年(1862)四月、島津久光は、公武合体を推進し、これにより急進派の動きを押さえようと藩兵千人を率いて上洛しました。これを知った尊王攘夷の急進派の有馬新七ら三十五名は、この機会に諸藩の尊王派と結んで関白九条尚忠、京都所司代の酒井忠義を襲撃殺害する倒幕蜂起を企てます。四月二十三日の夜明けを合図に挙兵を決行しようと、薩摩藩の船宿・寺田屋に集結した有馬らに対し、直前にこれを知った久光は、同じ尊皇派だった奈良原喜八郎ら八名を派遣し説得を命じました。奈良原等は有馬に藩邸に同行することを求めますが説得は失敗し、遂に乱闘となり、有馬ら七名が斬られ、他二名が重傷を負い翌日切腹しました。現在、寺田屋の庭の広場には、維新後の明治二十七年(1894)に、寺田屋で亡くなった殉難烈士の偉勲を残そうと建てられた「薩摩九烈士碑」があります。(有栖川宮熾仁親王の筆による篆額が掲げられています。)(写真)



さて、もうひとつの事件は、歴史的には寺田屋騒動ほど重要ではありませんがより有名かもしれません・・慶応二年(1866)、正月二十一日に、坂本龍馬が伏見奉行所の捕方に襲われて難を逃れた事件です。この時、女将のお登勢とその養女お龍(おりょう・後の龍馬の妻)の機転で龍馬は難を逃れました。二十一日の深夜12時頃、伏見奉行所の捕方は寺田屋の周囲を固めた上で女将のお登勢を呼び出します。この時、龍馬は二階「梅の間」で長府藩士・三吉慎蔵と酒を酌み交わして語らっていましたが、裏手の風呂で入浴中のお龍は只ならぬ気配に気付いて、裸同然の姿で裏階段から二階にかけのぼり龍馬に急を告げます。急を聞いた龍馬は懐中からピストルを取り出し、三吉は槍を構えます。そこに殺到した捕方らはピストルと槍に一瞬驚きながらも攻撃してきます。そして龍馬のピストルが発射して捕方が怯んだ隙に、龍馬と三吉は裏階段を駆け下りると屋根を伝わって飛び降り、裏にある人家の中を通り抜け近くの材木置き場へ隠れました。この間、お龍は裏口から伏見の薩摩屋敷へ急を知らせるために走ります。龍馬は乱闘の際に左手の一指指の動脈を切られ多量の出血があり、三吉も龍馬を材木小屋に隠すと薩摩藩邸に救援を要請しました。こうして報せを受けた薩摩藩の救援により、龍馬は蕃邸に匿われ危機を脱出することができたのでした。




現在の寺田屋の建物は、鳥羽伏見の戦いの際に類焼した後、明治初年に再建されたもので、元は少し東の現在中庭のある部分に建っていたということです。再建改修により事件当時の姿とは違っていますが、一応、二階奥の「梅の間」には龍馬が襲われた際の刀傷や、龍馬が撃ったピストルの弾痕が残されています。(写真)
梅の間に掛けられた龍馬の画像の掛け軸は、寺田屋お登勢が嫌がる龍馬に勧めて町の画家に画かせた絵像といわれ、計らずも最後の姿になったもので京都円山公園の銅像のモデルとなったものということです。また、梅の間の横にある階段はお龍が裸で駆け登って龍馬に急を告げた階段。1階の入り口横の部屋は、寺田屋騒動の際に斬り合いが始まった部屋、その奥の中庭に面するのが女将お登勢の部屋です。(写真)
またお龍が入っていたという風呂桶等も残されています。また入り口から表庭には、「史跡寺田屋の石標(薩藩九烈士殉難の趾、坂本龍馬先生遭難の趾)」、「薩摩九烈士の碑」、「坂本龍馬銅像」、寺田屋の女将を祀る「お登勢明神」等があります。


京都には多くの幕末の史跡がありますが、そのほとんどは池田屋跡や近江屋跡など、ただ石標が残るのみのものがほとんどです。そういう点で、今も歴史を感じさせる寺田屋は貴重な存在といえるでしょう。

藤森神社その2

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前回の続きです。


さて、藤森神社は5月5日に行われる藤森祭(深草祭)が有名です。
藤森祭(深草祭)は、貞観二年(860)、清和天皇の時代に勅命による奉幣の神事「貞観の祭」を起源として、武者行列や駆馬神事が行われています。この祭は端午の節句に家々に武者人形を飾る菖蒲の節句の発祥の祭といわれ、「菖蒲」は「尚武」に通じ、さらに「尚武」は「勝負」に通じるので、藤森神社は勝運を呼ぶ神として信仰を集めているわけです。
有名な駈馬神事は、元々は天応元年(781)の5月5日、早良親王が陸奥の反乱に対して征討将軍に任じられ、藤森神社で出陣式を行い戦勝祈願した際の様子を象ったもので、室町や江戸時代の記録も残る伝統神事として京都市の無形民俗財に指定されています。
さらに、駈馬神事から神社は馬の神としても信仰され、馬主、騎手、競馬ファンにも人気があり前回に紹介した「馬の博物館」には歴代の競争馬の写真もあります。また東殿に、日本最初の学者で日本書紀の編者である舎人親王を祀ることから、学問の神様として信仰されています。



最後になりましたが、藤森神社は「紫陽花の宮」とも呼ばれ、京都ではアジサイの名所としても知られるために、今の季節は多くの方が集まります。
境内には2ヶ所の紫陽花苑があり、毎年6月から開園されます。全体で1,500坪の苑内には3500株のアジサイが植えられていて7月上旬にかけて楽しめます。ただ、市街地の中にある神社のために、風情という点では三千院や三室戸寺には及びません。(写真)



藤森神社は、本殿に勝運の神・素盞鳴命や日本武尊〜学問の神・舎人親王まで十二柱もの神々を祀る稀な神社です。神宮皇后の軍旗の伝説からはじまり、菖蒲(=尚武・勝負)の節句の発祥の地として武神を祀っているので、あらゆる勝負に勝ちたい人はお参りしても良いかもしれません。

藤森神社その1

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伏見区深草鳥居崎町にある藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、「勝運と馬の社」「菖蒲の節句発祥の地」として知られ、伏見区では伏見稲荷大社、城南宮、御香宮と並ぶ有名な神社です。
素盞鳴命や日本武尊等十二柱を祀り、洛南深草の産土神として地域の人に親しまれています。



藤森神社は平安京以前からの古社で、平安遷都以前の京都の全ての寺社と同じく創建年代等には諸説あるようですが、社伝によれば、3世紀(神功皇后3年 203年)神功皇后が新羅(いわゆる三韓征伐)から凱旋した後に、この山城国深草の里の藤森に纛旗(大きな軍旗 軍艦旗)を立て、兵具を納めて塚を作って祭祀を行ったのがはじまりということで、境内の本殿横にはこの伝説ゆかりの「旗塚」があります。
(尚、藤森神社の西方にある城南宮にも、神功皇后が新羅を攻略する折りの旗を御神体として奉納したのがはじまりという同様の創建伝説があり、両社は歴史的な関係深いようです。両社には秦氏ゆかりの真幡寸神社という神社が関係しているようです・・・以下に書いてみます。)

藤森神社の創建に関してより信憑性があると思われるのは、平安遷都以前からこの地を治めていた紀氏が深草山(稲荷山南)に雷神を祀ったことがはじまりという説です。
その後、紀氏の勢力は衰えて代わって渡来系の秦氏の勢力が大きくなりました。秦氏は一族の繁栄を祈って、現在の藤森神社のある辺りに真幡寸神社(まはたきじんじゃ 式内社 現在の城南宮の元)という社を建てました。真幡寸神社の「幡」は「秦」につながり、また藤森神社の「旗塚」の「旗」も「秦」につながることから、秦氏が創建した真幡寸神社の名残が「旗塚」であるという説があるようです。
やがて奈良時代初期に、秦氏が稲荷山に稲荷神を勧請した際に(伏見稲荷大社の創建)、紀氏ゆかりの神社(藤森神社の前身)の社地を削って社殿を山麓の現在の藤森神社の場所に移し、以前からそこに祀られていた真幡寸神社はさらに西へ遷座した(現在の城南宮の場所)と伝えられます。(尚、面白いことに伏見稲荷大社の周辺地域の氏神は今でも藤森神社ということです。伏見稲荷大社の氏子地区は東寺の北方方面)




現在の藤森神社は、本殿中央(中座)に、素盞鳴命・別雷命・日本武尊・応神天皇・仁徳天皇・神功皇后・武内宿禰の7柱を祀り、本殿東殿(東座)に舎人親王・天武天皇の2柱、また本殿西殿(西座)に、早良親王・伊豫親王・井上内親王の3柱を祀っています。本来は現在本殿に祀られる7柱のみを祀っていましたが、室町時代後期に他の2つの神社が合体して現在の藤森神社となりました。(以下に書いてみます。)
さて、当初の地から現在の地に遷座後、平安時代の延暦十三年(794)に桓武天皇から弓兵政所の称号が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われたということです。また桓武天皇は平安遷都の際に、王城鎮護のために平安京の四方に方除けの大将軍社を祀りましたが、その南の社は現在藤森神社の境内末社の大将軍社とも伝わります。(写真)

少し話題が外れますが・・ブログではこれまで幾つかの大将軍神社を採り上げてきました。実は大将軍神社は現在、京都市内に5つあるようです。北方=北区西賀茂の大将軍神社・北区紫野の今宮神社境内の大将軍神社、西方=上京区一乗通の大将軍八神社、東方=東山区東山三条の大将軍神社、南方=伏見区藤の森神社境内の大将軍神社。4つのはずが5つあるだけでなく、かっては八坂神社の境内にも大将軍神社があったようです。また、江戸時代の百科事典「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」によると、「東は岡崎(左京区)、西は紙屋川(上京区)、北は紫野大徳寺の門前、南は現在所在不明)」と記されているようです。





本殿東殿は、元は藤尾社と呼ばれ、奈良時代の天平宝字三年(759)、深草の里藤尾の地(現・伏見稲荷の社地)に舎人親王(追贈・崇道尽敬皇帝 一般的に「とねりしんのう」ですが、この神社では「いえひとしんのう」と呼びます。)を祀る神社として創建されたと伝えられます。その後、室町時代の永享十年(1438)、後花園天皇の勅により、将軍足利義教が山頂の稲荷社の祠を山麓の藤尾の地に移し(伏見稲荷大社は中世には上・中・下三社と山麓に広がっていたようで、その一部ということかもしれません)藤尾の地に祀られていた藤尾社は、藤森に遷座して東殿に祀られたと伝わります。尚、舎人親王は、日本書紀の撰者として知られますが、死後文武両道の神として皇室や藤原一門の崇敬厚く、貞観二年(860)に、清和天皇の時代に奉幣の神事が行われました・・これが藤森祭(深草祭)のはじまりということです。

一方、西殿は元は塚本社と呼ばれ、延暦十九年(800)に桓武天皇の弟・早良親王を祀る神社として塚本(現・京都市東山区本町)の地に創建されたと伝わります。天応元年(781)の桓武天皇の即位により早良親王は皇太子に任じられ、同年に起こった陸奥の反乱に対しては征討将軍として藤森神社に戦勝祈願し、これを伝え聞いた反乱軍は畏怖し戦わずして平定されたといわれます。しかしその後、早良親王は長岡京遷都に際して起こった藤原種継暗殺事件に連座して、延暦四年(785)、淡路に配流される途中無実を主張し絶食死したと伝えられます。それ以降、桓武天皇の親族の死、病気蔓延、大飢饉、さらに富士山の大噴火等が発生します。これら早良親王の怨霊が起した災いを鎮める為に、桓武天皇は延暦十九年(800)、親王に崇道天皇と天皇位を追号し、諸国の国分寺に読経を命じます。以降、早良新王を祀る御霊神社が各地に造られますが、塚本の地にも御霊社が建てられたようです。その後、天長三年(826)に、伊豫(伊予)親王(桓武天皇の皇子で、兄帝・平城天皇の時代に陰謀によって幽閉され絶食死)、井上内親王(光仁天皇の皇后で、同じく陰謀罪で幽閉され変死)の怨霊神二柱を合祀し、官幣の儀式が行われたと伝わります。その後、天喜三年(1055)に火災に遭い焼失、後再建され延応元年(1239)深草の小天王の地(深草西出町)へ移りますが、さらに応仁の乱で焼失したため文明二年(1470)に、三柱は藤森に遷され西殿に祀られたということです。
こうして合祀を繰り返して室町時代末期に社名も藤森神社となったということです。





現在の本殿は、正徳二年(1712)、中御門天皇より宮中内侍所(賢所)の建物を賜ったもので、切妻造桧皮葺の豪華な建物で、現存する内侍所としては現存最古のものといわれます。また拝殿も割拝殿として知られる大きな建物です。また本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は磐長姫命を祀ります。(写真)これらは共に室町時代の永享十年(1438)、将軍足利義教が平安初期に造営された祠を再建したものと伝えられ、国の重要文化財に指定されています。また八幡宮と大将軍社と並んで七社宮、天満宮、祖霊社があります。

本殿の東側には旗塚があります。(写真)
現在は石垣で囲まれた壇上に櫟(いちい)の木の切り株が安置されていますが、昔は「いちの木さん」と呼ばれて木の株をさわると腰痛が治るといわれ、新撰組の近藤勇も度々訪れていたという話も伝わります。
また、旗塚の横には伏見の名水の一つに数えられている「不二の水(ふたつとない良い水の意味)」があり、近隣の多くの方が水を汲んでいます。(写真)この水を飲んだら他の水は飲めないという方もいるそうです・・。

その他境内には、藤森稲荷社、蒙古塚(以前は7つあり、七つ塚と呼ばれました。蒙古の将兵と兵器を収めた場所という伝説があります。)、かへし石(別名は力石、祭礼の際に力自慢を競った大石)等面白い史跡があります。また平成三年(1991)、参集殿と共に完成した宝物館では、神社ゆかりの重文・紫絲威大鎧(むらさきいとおどしおおよろい)他鎧や刀等百点余りや藤森祭礼絵巻等が展示され、馬にちなんだものを展示する「馬の博物館」も併設されています。(写真)




かなり長くなりましたので、次回はアジサイの写真を中心に続けます。

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