京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、京都市北区紫野下御輿町にある「後冷泉天皇火葬塚」を採り上げます。

この火葬塚は、北大路通と千本通という京都市内のメインストリートが交差する「千本北大路」の北東角にあるため、塚の前をいつも車が行き来していて、何となく落ち着かない雰囲気を感じます。
しかし、南東に船岡山、東に大徳寺、南には桜の隠れた名所の上品蓮台寺があるので、ついでに訪れるには便利な場所です。また、以前に採り上げた近衛天皇火葬塚(北区紫野花ノ坊町)は千本北大路交差点を挟んで南西に百五十メートル程離れています。


後冷泉天皇の時代は、関白・藤原頼通の全盛期として知られています。
また弟の後三条天皇が親政を行った個性的な天皇だったために、後冷泉帝はどちらかといえば、影が薄い存在に感じます。そこで、父の後朱雀帝から後三条帝の登場に至る歴史について簡単に書いてみます。

さて、第七十代・後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう 1025〜68)は、万寿ニ年(1025)八月、第六十九代・後朱雀天皇の第一皇子として生まれ、名を親仁(ちかひと)といいました。母は関白・藤原道長の六女・藤原嬉子(ふじわらのきし よしこ)で、異母弟に第七十一代・後三条天皇があります。

後冷泉天皇の父、後朱雀天皇は、長元九年(1036)四月に、兄の後一条天皇の崩御によって即位しました。後朱雀帝の即位によって、関白・藤原頼通や同母弟の右大臣・教通は、父道長の後宮政策を継承し、自らの権力基盤を安定させようとします。ただ、道長が六人の娘に恵まれ、長女・彰子を一条天皇、次女・妍子を三条天皇、四女・威子を後一条天皇の皇后として擁立し、外孫・後一条天皇と後朱雀天皇を即位させるなど「一家立三后」という前代未聞の成功を収めたのに対して、頼通達は不運にも子女に恵まれなかったといえます。



さて、藤原頼通は、後宮政策の第一弾として、後朱雀天皇即位の翌長元十年(1037)一月、養女・嫄子を入内させて、三月中宮に冊立しました。嫄子は、幼少期に父・敦康親王(一条天皇皇子)を失った後、母が頼通の正室・隆姫女王(たかひめじょうおう 村上天皇第七皇子・具平親王の娘)だった関係で頼通の養女となっていました。嫄子は後朱雀天皇の寵愛を受けて、祐子内親王、禖子内親王の皇女二人を産みますが、長暦三年(1039)八月に亡くなりました。

また、頼通は皇太子・親仁親王(後の後冷泉天皇)に対しては、長暦元年(1037)十二月に、章子内親王を東宮妃として送り込んでいました。章子(後一条天皇第一皇女、母は道長四女・中宮威子)は、幼少期に両親と死別した後、父方の祖母(母方の叔母)上東門院彰子(一条天皇皇后 道長長女)や叔父頼通の後見を受けて育った関係から、頼通が実娘の代理として入内させたものでした。しかし、章子は子を産むことはありませんでした。

一方、頼通の弟・教通は、長久三年(1042)十月に長女・生子(しょうし・なりこ)を後朱雀天皇に入内させ、次女・真子を尚侍としますが、真子は病気がちで、期待された生子も子に恵まれませんでした。結局、後朱雀帝は、寛徳元年(1044)病に倒れ、翌二年(1045)正月、親仁親王(後冷泉天皇)に譲位して、十八日に崩御してしまいました。「栄華物語」は、生子の立后に失敗した教通が嘆いて、立后前に崩御した後朱雀帝を恨めしく思ったと記しています。





後朱雀天皇への後宮政策に失敗した頼通らにとって、後冷泉天皇のそれでは失敗は許されないことでした。頼通には期待の実娘・寛子が、また、教通にも三女・歓子が残されていただけでした。
もし、後冷泉帝に皇子が生まれなかった場合は、天皇の異母弟で皇太子の尊仁親王(後の後三条天皇)が即位することになりますが、尊仁親王の母は禎子内親王で、藤原氏と外戚関係にはありませんでした。頼通らにとって、外戚関係に無い天皇が即位することは、自身や次世代の権力基盤の安定という点から大変都合の悪いことでした。

前回、「後朱雀天皇火葬塚」を採り上げた際、晩年の後朱雀天帝が、尊仁親王を次期皇太子にしたいと提案するのに対し、頼通が態度を保留したことを書きましたが、さらに「江談抄」は、頼通は、皇太子となった尊仁親王に対して嫌がらせを行ったと記します・・頼通は、親王に代々の東宮(皇太子)が皇位継承のしるしとして受け継ぐことになっていた宝剣「壺切の太刀」を二十三年間も渡さず、天皇に即位してからようやく進上したということです。
この話の真偽は不明で、かつて藤原道長が三条天皇の子・敦明親王に対して「壺切の太刀」を渡さなかったという話と重なるために、道長の逸話が混同されたものという説もあります。
ただ、道長の圧力によって敦明親王が皇太子を辞退して、敦良親王(後朱雀天皇)が立太子されたのと違って、今回は、尊仁親王が皇太子を辞退しても、立太子させる皇子がいなかった訳で、全ては後冷泉天皇に皇子が産まれるかどうかにかかっていました。

後冷泉帝は、その治世に数度の御所の焼失があり、宇治の平等院に行幸した等の話がある他は、優しい人柄だった程度の話題しか無いのですが、「古事談」にある逸話が出ています。
それによると、ある時、天皇は御所の庭に現れた正体不明の鳥を見事に射殺した家来に恩賞として馬を与えました。この話を家臣から聞いた藤原頼通は、「それは感心なことをなされました。ただし、馬を与えるまでも無いことで、絹の類いでも与えるべきです」と、単なる正体不明の鳥を怪物扱いして恩賞をはりこんだ天皇を揶揄しました。これを伝え聞いた後冷泉帝は機嫌を悪くしましたが、結局、頼通の言うとおりに絹を与えたということです・・老練な頼通の方が一枚上という感じがするエピソードです。
(「古事談」は鎌倉初期に成立した逸話集で、信憑性には問題がありますが、人物理解の参考になる話が多く、他に同様の記録が無いことからよく引用されます)




一方、皇太子・尊仁親王は、頼通の圧力に耐えながら不遇な時代を過ごしていました。
兄帝に皇子が生まれると、直ぐに皇太子を剥奪されるものと世間は噂し、親王に親しく接すること者はほとんど有りませんでした。ただ、権大納言・藤原能信(ふじわらのよしのぶ)のみは、東宮大夫として尊仁親王を支え、娘を入内させようとする公家が無い中で、養女・藤原茂子(中納言藤原公成の娘)を入内させました。

「今鏡」は、尊仁親王の不安な日々を象徴する一事件について記しています・・
ある時、二条東洞院にあった東宮(皇太子)御所を検非違使率いる兵が囲むという事件があり、親王は自分を捕らえに来たのかと不安に駆られました。結局、これは東宮御所の付近に潜んでいた犯人を捕らえるためでしたが、不安の余り親王は一時、皇太子辞退についても考えたようです。また、「古事談」は、頼通の側近の宇治大納言・源隆国(みなもとのたかゆき)が、頼通の威を背景に親王に対し、たいへん無礼な振る舞をしていたとも記しています。(即位後に後三条天皇は、隆国の子供達への復讐を考えますが、彼らの才能を知って私怨を捨てて重用します)

同じ「古事談」には、尊仁親王が北斗妙見に祈り、「帝位について祈っているのではないが、思わないでいようとしても、自分が即位したことなどの思いが交差する時があって、陛下(後冷泉天皇)に不忠なことなので、この事を恐れながら拝み奉っているのだ」と密かに語ったという話が出ています。長い不遇の身にあった親王は、時には兄の死と自身の即位を願うこともあったのかもしれません。



さて、永承二年(1047)十月、教通が、後冷泉天皇に三女・歓子(かんし)を入内させ、翌三年(1048)七月に歓子は女御となり、翌四年(1049)に待望の皇子を産むも死産に終わりました。(治暦四年(1068)に皇后に冊立)また、頼通の異母弟・権大納言・藤原頼宗(ふじわらのよりむね)も三女・昭子(しょうし・あきこ)の入内を計画します。これに対抗するため、頼通もようやく成長した長女・寛子(かんし ひろこ)を、永承五年(1050)十二月に入内させ、さらに翌永承六年(1051)二月に皇后に冊立します。しかし、結局、寛子も子供を産むことはありませんでした。

後冷泉天皇に皇子が誕生しないことに焦ったのか、頼通は、姉の上東門院彰子の勧めもあって、永承六年(1051)章子内親王(後冷泉天皇中宮)の妹・馨子(けいし かおるこ)内親王を東宮妃として尊仁親王に入内させますが、馨子が産んだ子女は夭折し、一方、藤原能信の養女・茂子の方は、天喜元年(1053)に皇子・貞仁親王(後の白河天皇)を産むなど一男四女に恵まれました。こうして、結局、頼通と尊仁親王の関係修復には至りませんでした。

「古事談」は、この時期の逸話を伝えます・・天喜五年(1057)、参議・源俊房(みなもとのとしふさ)が、尊仁親王の実妹で、前の賀茂社斎院・娟子(けんし)内親王と密通駆け落ち騒ぎを起こしました。後冷泉天皇は、俊房が頼通の養子だったために頼通に遠慮して、俊房の罪を問わず事件をうやむやにして処理しました。これを知った尊仁親王は、実の妹のことなので激怒し、「私の妹というだけではないものを(帝にとっても妹は妹(異母妹)ではありませんか)」と、弱腰の兄帝を批判したということです。




さて、康平四年(1061)七十歳になった頼通は、太政大臣の宣下を受けて栄光を極めた後、治暦三年(1067)に関白を辞し、後任の関白に同母弟・教通が任じられました。
この年の十二月、後冷泉帝は病気に倒れ、十二日にはその病気快復を延喜二十二社に祈願しますが、翌治暦四年(1068)一月二十八日に悪化します。三月には頼通も病気となり、四月十四日にも大神宮以下十三社に天皇の快復を祈りますが、十六日、教通へ関白宣下が行われた後、十九日、後冷泉天皇は、高陽院(かやのいん)で四十四歳で崩御しました。
遺骸は五月五日に船岡山の西北原で火葬にされ、遺骨は一条天皇御願で、長徳四年(998)に創建した仁和寺塔頭・円教寺に納められました。


こうして、頼通の期待も空しく後冷泉帝は皇子の無いまま崩御し、皇太子・尊仁親王(後三条天皇)が即位します。
親王を支えた藤原能信は、残念ながら康平八年(1065)に帝の即位を見ることなく亡くなりましたが、後に、後三条天皇の子・白河法皇は、「故東宮大夫殿(藤原能信)がおられなかったら、今日の自分の立場も無かった」と、父帝を支えた能信に感謝し、能信について語る際は「大夫殿」と敬称をつけたという話も伝わります(「今鏡」「愚管抄」)


後三条天皇が即位し、諸官を任命する除目の際、執筆担当の藤原俊家(ふじわらのとしいえ)が、つい先帝(後冷泉天皇)の前にいると錯覚していると、天皇が任官について口を出したので、新帝(後三条)だと気づくという話があります。後冷泉帝など歴代天皇は、ただ聞いているだけで任官に口を出すことなどなかったので、俊家は極めて珍しいことだと、後三条帝の積極性に驚きます。(以下全て「古事談」より)

また、後冷泉天皇の晩年頃、人妻を強奪した公家がいました。当時は公家の密通は内々に処理して公的に罰せられなかったのですが、尊仁親王(後三条天皇)が即位すると罪に問われるかもしれないとその公家は恐れて、女を帰したということです・・これも後三条天皇が、積極果敢な親政を行ったことから創作された逸話かもしれません。

頼通も、やがて後三条天皇の力量を認めるようになったようです。
晩年出家して宇治に隠居していた頼通は、自領の荘園が天皇に遠慮なく没収されたにもかかわらず、天皇崩御の知らせを聞いた時、食事を止めて箸を置き、「天皇は末代の賢主でおられた。このように早く亡くなられるとは、我が国の不幸である」と嘆息したといいます。一門を圧迫した後三条帝の才能を素直に認める度量のあった頼通も、やはり歴史上の大物の一人だったのでしょう。

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