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現在、京都市東山区本町にある東福寺の塔頭・退耕庵(たいこうあん)が「京の冬の旅」の特別公開を行っています。(2009年1月10日〜3月18日)
退耕庵は、通常は事前申し込みや特別拝観を除いて非公開ですが、小野小町ゆかりの「小町の寺」として「小町百才の像」や「玉章(たまずさ)地蔵尊」が安置されていることでも知られ、戦国〜安土桃山時代の禅僧で大名の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)や、幕末の長州藩との関わりから歴史ファンにも知られた塔頭です。(庭園や建物の写真撮影は禁止のため、山門付近の写真を掲載します。)
さて、退耕庵は、臨済宗東福寺派大本山・東福寺の塔頭寺院で、本尊として千手観音菩薩を祀ります。
室町時代初期の貞和ニ年(1346)、東福寺第四十三世住持・性海霊見(しょうかいれいけん 1315〜96)和尚によって創建されました。性海霊見和尚は、中国に渡って十年間修行し、帰国後は足利義満・義持の帰依を得て、天龍寺や南禅寺、東福寺の住持を歴任した高僧でした。
その後、退耕庵は応仁の乱で被災し荒廃しますが、慶長四年(1599)当庵十一世住持・安国寺恵瓊によって再興されました。
安国寺恵瓊は、毛利氏の外交僧時代に織田信長の横死や豊臣秀吉の台頭を予測した慧眼の持ち主として戦国ファンにはお馴染みの人物ですが、一応極簡単に略歴を書いてみます。
安国寺恵瓊は、安芸国(広島県)の守護大名武田氏の出身で、幼少期の天文十年(1541)に毛利氏が武田氏を滅ぼした際、戦乱を逃れて安芸の安国寺に入って出家しました。その後、京都東福寺の竺雲恵心(じくうんえしん)和尚の弟子となり、永禄十二年(1569)頃、安芸国安国寺の住職となっています。また、この頃から毛利氏の外交交渉にも携わって豊後大友氏との講和条約をまとめる等で活躍します。特に、天正十年(1582)六月、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が備中高松城で毛利氏と対陣中に本能寺の変が起こった際、恵瓊は秀吉の才能と将来の台頭を予測して秀吉との和睦を取りまとめ、秀吉の信任を得ることになったことはよく知られます。
その後、秀吉の四国・九州征伐の後、恵瓊は僧侶でありながら伊予六万石の大名となり、また東福寺や南禅寺の住持も務めています。その後、秀吉の側近として石田三成との親交も深めた恵瓊は、関が原の戦いを前にして毛利家当主・毛利輝元を西軍の総大将に担ぎ出すことに成功します。
現在の退耕庵の客殿(京都府指定文化財)は、恵瓊が退耕庵を再建した際に建てられたものですが、関ヶ原の戦いを前に、恵瓊が秀吉恩顧の大名の石田三成や宇喜田秀家、或いは小早川秀秋らも交えて打倒徳川家康の謀議を行ったと伝わる四畳半の茶室「作夢軒(さくむけん)」が残されています。
「作夢軒」は、用心のための人が隠れることの出来る「忍び天井」や護衛の武士が控えていたとされる「伏侍(ふぜざむらい)の間」を備えた茶室で、関が原前夜の緊張した政治状況が偲ばれるものです。(尚、関が原の戦いの敗戦後、京都で捕らえられた恵瓊は、三成や小西行長と共に六条河原で斬首され、三条河原に首を晒されました・・建仁寺の方丈裏庭にその首塚があります)
また、幕末の慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いの際に、東福寺が長州藩士の屯所になったため、退耕庵には長州藩士戦死者の内四十八名が葬られ、その菩提所となっています。(ブログPart1で、この「鳥羽伏見戦防長殉難者之墓」を採り上げています。下に記事を少し引用し、トラックバックさせておきます・・)
慶応三年(1867)十月の将軍・徳川慶喜の大政奉還後も、薩摩の大久保利通や公家・岩倉具視らはあくまで武力による倒幕を計り、十二月の王政復古の大号令を発令、幕府の事実上の廃絶が決定されます。その後も薩摩藩の挑発行動が続いたことから、大阪城にいた徳川慶喜はついに幕府の強硬派の意見に従って薩摩を討つため上洛を決意し、明治元年(1868)正月元日、幕府軍は鳥羽街道と伏見街道に分けて大阪から京都に進軍を開始します。三日に下鳥羽付近で幕府軍と竹田・城南宮周辺に布陣した官軍が遭遇し戦闘が開始、続けて伏見でも戦端が開かれました。
この時、長州藩は東福寺を本陣として南の伏見街道を約二一〇〇で防御し、三日から五日にかけて続いた激戦の結果、幕府軍は退却しました。この戦闘で戦死、病死者した石川厚狭介(あさのすけ)以下長州藩士四十八名の遺体は、本陣のあった東福寺の山上に葬られました。
退耕庵の書院の北側は、昭和八年(1933)に新造された本殿で「戊辰勤皇殿」とも呼ばれ、この鳥羽伏見の戦いで戦死した長州藩士四十八人の位牌が安置されています。
また、仏殿正面には本尊・千手観音菩薩像や開山・性海霊見像が祀られ、洛陽四十八番地蔵霊場図や絹本着色・性海霊見像(複製)、創建当時の東福寺仏殿に安置されていたという盧舎那仏の蓮弁が展示されています。また、平安時代の歌人・小野小町が世の無常を悟っ作ったという「小町伝説」ゆかりの「小町百才の像」も安置されています。
また、書院(昭和初期に建造された本堂(戊辰勤皇殿)に対し、旧本堂といわれます)を南北に挟んで広い庭園があります・・南庭は美しい杉苔に覆われた枯山水庭園で、北庭は広い池泉観賞式庭園となっています。
南庭の枯山水庭園は、「真隠庭(しんにんてい)」と名付けられています。
室町時代初期に開山・性海霊見(しょうかいれいけん)和尚によって作庭されたものと伝えられ、和尚修行の地、中国の雄大な大地や山々を模したもので、全体を杉苔が覆い、奥に緩やかな山上の起伏を造っています。また、中央やや右手には樹齢三百年を越える霧島つつじ(毎年四月には真紅の花を咲かせるということです。)や二本の百日紅が植えられアクセントとなっています。
一方、北庭は、書院と新本殿(戊辰勤皇殿)の間には数個の石と白砂が敷き詰められ、新本殿(戊辰勤皇殿)の東にかけての中庭部分には、中国西湖を模した広い池が広がっていて、夏には睡蓮が美しく咲くということです。また書院には小さな坪庭もあります。
最後に、山門を潜った右側には地蔵堂があり、中央には高さ約三メートルの土製の地蔵菩薩像が安置されています。これが小野小町ゆかりの「玉章(たまずさ)地蔵」、またの名を「文張り(ふみはり)地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像で、「洛陽四十二番霊場」となっています。
「玉章(たまずさ)」とは手紙(艶書=ラブレター)の意味で、この地蔵菩薩像は、胎内に小野小町に寄せられた多数の艶書を収めていると伝えられることから「玉章地蔵」「文張り(ふみはり)地蔵」の名があります。伝説では多くの男心を苦しめた小町が、己の罪業を償うためこの地蔵菩薩像を作ったとされ、良縁を結び悪縁を絶つといわれ信仰を集めています。この地蔵菩薩像は、元々、京都市東山区渋谷越え(しぶたにこえ)にあった小野寺に祀られていたもので、小野寺が廃寺となったため、明治八年(1875)にこの地に移されたものということです。他に脇壇には、薬師瑠璃光如来像と十一面観音像を安置しています。また、地蔵堂の前には「小野小町百歳井」があり、傍の石標は元禄時代のものです。
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