京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

東山区

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京都市東山区今熊野総山町、東大路通から今熊野椥ノ森交差点を東へ約一キロ山に向かって緩やかな坂を登ると、新幹線東山トンネルのある山沿いに一つの寺院があります・・これが真宗大谷派寺院・延仁寺(えんにんじ)で、真宗大谷派(東本願寺)では、浄土真宗宗祖・親鸞上人(見真大師)の遺体を荼毘(火葬)に付した場所としています。
この延仁寺の墓地内の最上部には、豊かな緑に囲まれて「見真大師御荼毘所」の石標があり上人像が建てられています。京都の親鸞上人の史跡は数多いですが、今回は市街地から少し遠い史跡としてこの荼毘所を採り上げてみました。


さて、鎌倉時代の弘長二年(1262)十一月二十八日(太陽暦換算1263年1月16日 浄土真宗諸派により、生没年日時を新暦に換算、若しくは旧暦の日付をそのまま新暦の日付としているので注意)親鸞上人は九十歳で入滅しました。入滅の地は、押小路(おしこうじ)南・万里小路(までのこうじ)東にある善法院(善法坊)とされます。この善法院(善法坊)の位置については諸説があり、現在の本願寺派角坊別院(京都市右京区山ノ内御殿堂町)のある地とも、中京区御池通柳馬場上る虎石町付近ともいわれています・・

浄土真宗本願寺派(西本願寺)は、江戸時代末期の安政四年(1857)の宗祖聖人六百回大遠忌法要にあたって、西の万里小路に当たる山ノ内の地を往生地と考証して善法院を再興しました(角坊別院)
また、真宗大谷派(東本願寺)は、かつて「親鸞ヶ原」と呼ばれ、江戸時代に建立された法泉寺の跡地に当たる、京都市立柳池(りゅうち)中学校付近を往生地として、柳池中学校内に「見真大師遷化之旧跡」の石標を建立しています。日本初の小学校として明治二年(1896)に創立した上京二十七番組小学校(現・柳池中学校)は、法泉寺とその墓地に建てられたものでした。また、上人ゆかりの光円寺(下京区西洞院松原右入る藪下町 花園御殿旧地)や大泉寺(下京区西洞院万寿寺上る月見町)が入滅地という説もあるようです。


さて、上人の遺体は、翌二十九日、本願寺第三世・覚如上人の「御伝鈔」よると「洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺」において荼毘にされたと伝えられますが、この場所についても諸説があります。浄土真宗本願寺派(西本願寺)は、鳥辺山南辺に「延仁寺」があったとして、清水寺の南、現在の大谷本廟(西大谷)北東にある「御荼毘所」で荼毘に付されたとしています。一方、真宗大谷派(東本願寺)は、今回採り上げた延仁寺(京都市東山区今熊野総山町)にて荼毘に付されたとしています。

その後、遺骨は鳥辺野北辺の「大谷」に簡素な石塔を建てて納められましたが、文永九年(1272)に上人の末娘の覚信尼や門弟達が、大谷の西に廟堂を建てて遺骨を移し御影像を安置しました・・これが大谷廟堂(おおたにびょうどう 大谷影堂)で、その後、本願寺へと発展します。(廟堂は、江戸初期の本願寺分立によって、清水寺の南に位置する本願寺派(西本願寺)の大谷本廟(西大谷)と、円山公園の南に位置する大谷派(東本願寺)の大谷祖廟(東大谷)に分立)

真宗大谷派(東本願寺)が、親鸞上人の遺体を荼毘(火葬)に付した場所とする今回の延仁寺は、戦乱等によってその後荒廃して廃寺となったようですが、幕末の慶応元年(1865)に「西光寺」の名前で再興され、明治十六年(1883)に延仁寺と改め、、同年、東本願寺第二十一代・厳如上人の命によって、親鸞上人を荼毘に付した由緒有る寺院として「荼毘所」が設けられました。
深い森に囲まれて石標や上人像が静かに佇んでいます。

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