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新日吉神宮の続きです・・
さて、東山七条から東へ、妙法院と智積院の間を通って京都女子大から豊国廟参道へと続くなだらかな坂道=通称「女坂」を約三百メートル進むと、新日吉神宮が見えてきます。
参道は少し右に曲がっていて、新日吉神宮の山門横には、山口稲荷大明神を祀る山口稲荷神社(やまぐちいなりじんじゃ)があります。
新日吉神宮の境内は、参道や山門前の雰囲気からは感じ難いのですが、面積の割りに開放的な印象で、観光名所の多い東山七条にあるにもかかわらず、普段は参拝者がほとんどいない神社です。
新日吉神宮の社殿は、応仁の乱の兵火で焼失した後も、度々増改築が行われたということですが、現在の本殿は天保六年(1835)に改造されたもので、大型の流造です。
また境内北側には末社の天満宮(飛梅天満宮)、南側には末社・豊国神社(樹下社)、秋葉社、愛宕社があります。また、中央の石段の両脇には、日吉山王の使者とされるに御神猿の像が金網で覆われて鎮座しています。
本殿の左にある飛梅天満宮は、永暦元年(1160)後白河上皇の創祀と伝わる天満宮で、祭神はもちろん菅原道真公(天満大自在天神)と、道実公遺愛の飛梅の霊を祀っています。
飛梅の霊は、道実が大宰府に下向する際、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」と詠んで別れを惜しんだという旧宅の梅が、一夜にして配所に花を咲かせたという故事によるものです。
また、本殿の右にある豊国神社は、別名「樹下社(このもとのやしろ)」と呼ばれ、豊臣秀吉公(国泰院殿前関白大相国)の霊を祀ります。
前述したように、元和元年(1615)に豊国廟と豊国社が徳川幕府によって破却され、その後間もなくその旧地前方に新日吉社が移転造営されて以降は、頽廃した豊国廟の管理は、妙法院と新日吉社が行うことになりました。それ以来、豊臣秀吉公の神霊は、内々に新日吉社の神供所で行われてきましたが、天明五年(1785)に更に境内に社殿を造営して神霊を奉遷して樹下社(このもとのやしろ)と称したということです。また、天明七年(1787)正月十八日には、この樹下社に「社頭の祝」として豊国神(秀吉)が新日吉社境内に祀られたことを寿ぎ祝う御法楽和歌(ごほうらくわか)三十七首が献納されたということです。
樹下社とは、日吉山王「上七社」の一つで、かつては十禅師社とも呼ばれ、主祭神・大山咋命(おおやまくいのみこと)の妻神(鴨玉依姫命 かものたまよりひめのみこと)の別名とされます。
しかし、ここにある樹下社(このもとのやしろ)は、徳川幕府を憚って上七社の名をもって祭神・秀吉公の姓「木下」にかけたもので、このような苦心の中で、秀吉公の神霊は幕府の目を盗んで密かに祀られ続けられたということです。そして、公を祀っている樹下社の祠は小さくても、江戸時代を通じて絶えることなく神霊を祀り続けたというその意義はたいへん大きい・・と新日吉神宮の由緒書は記しています。
さすがの徳川幕府も、江戸への対抗心があり秀吉の遺徳の残る京都では、その痕跡を完全に抹殺することは難しかったといえるかもしれません。
また、樹下社の右側には、迦具土神(かぐつちのかみ)を祀る秋葉社、愛宕大神(あたごおおかみ)を祀る愛宕社があります。共に後白河上皇が法住寺御所(法住寺殿)と御所内の社寺の火除けのために祀ったと伝えられます。
さらに、本殿の裏には、御神木のスダジイがあります。
スダジイはイタジイ、ナガジイとも言われるブナ科の常緑高木で、一般的に「椎(シイ)の木」と言われてる場合が多いということです。この大木は、幹周四メートル、江戸時代以前からこの地にあったとされ、樹齢は五百から八百年と推定されていて、平成十六年(2004)に京都市の保存樹に指定されています。個人的に京都にある好きな大樹の一つです。(最後の写真三枚は緑が美しい夏場の撮影)
その他、新日吉神宮は、寛政十年(1798)に妙法院から境内の樹下社に寄進された長谷川等伯筆と伝わる豊臣秀吉の肖像画を初め、後水尾天皇宸筆による「新日吉権現」の神号、寛永十年(1633)に妙法院宮が奉献したと伝わる銘「山城守藤原国清」の神剣、享保十五年(1730)に霊元法皇が寄進したと伝わる小五月会古図等の多くの天皇ゆかりの遺物、宸筆を所蔵しています。さらに、江戸後期の歌人・国学者の小沢蘆庵をはじめとする多くの文学者の稿本など近世文学の資料を蘆庵文庫の名で宮司家が保存しているということです。
また、五月の第二日曜日に行われる新日吉祭は、新日吉小五月会(こさきのまつり)として平安時代から伝わる古行事として知られます。
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