京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

東山区

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新熊野神社その1

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京都市東山区今熊野椥ノ森町にある新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、遠くからでも目立つ御神木の「大樟」の存在によって、京都市街地にある中規模の神社としては良く知られている神社の一つです。熊野神社(左京区聖護院山王町)、熊野若王子神社(左京区若王子町)と共に京都熊野三山の一つで、「京都十六社めぐり」の神社でもあります。

新熊野神社が、これまでブログPart1に一度も登場しなかったのは、他の観光地を巡って最後にこの神社に来ると、いつも夕方で写真が撮れないことが多かったからでした・・・北の東山七条(三十三間堂や智積院、国立博物館等のある)と南の泉湧寺や東福寺の中間に位置している新熊野神社は、アクセスは良いのに、どうも後回しなってしまう存在かもしれません・・しかし、もちろん、巨大な御神木の「大樟」は必見です。(近年、新熊野神社のHPと境内表示板が新しくなったので参照させていただきます)



新熊野神社の祭神は、「熊野大権現社」「熊野十二社権現」ともいわれる、和歌山県の熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)に祀られている十二神です。

境内中央の本社に、熊野那智大社の主祭神・熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)=伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀ります。また、本社の左にある上社(うえのやしろ 結びの社・速玉の社)には、左に熊野本宮大社の主祭神・熊野家津美御子大神(くまのけつみこのおおかみ)=素盞嗚尊(すさのをのみこと)、右に熊野速玉大社の主祭神・速玉之男大神(はやたまのをのおおかみ)=伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祀ります。(尚、以前の境内掲示板には、この速玉の社・結びの社の祭神は、現世の清浄無厄を守るハヤタマノオノミコト(速玉之男命)=伊邪那伎命の別称、現世からの罪穢れを祓い清めるヨモツコトサカノイノミコト(黄泉津事解之男命)=伊邪那美命の別称と記していました。)
本社の脇にあって少し見つけにくい若宮社には、祖先神を代表する皇祖天照大神(あまてらすおおみかみ)と天地創造の神世第一代の神である国之常立神(くにのとこたちのかみが)祀られていて、本社と若宮社、結び社、速玉社の四社を「上四社」と称しています。


また、上社(うえのやしろ 結びの社・速玉の社)の右側には、中社(なかのやしろ 中四社)があり、祭神として忍穂耳命(おしほみみのみこと)、瓊々杵命(ににぎのみこと 「天孫降臨神話」の天孫に相当する神)、彦穂々出見命(ひこほほでみのみこと 「海幸彦・山幸彦神話」の山幸彦に相当する神)、鵜茅草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)で、天照大神から神武天皇に至る四代の神々を祀ります。

一方、本社の右側にある下社(しものやしろ 下四社)には、生活の源泉と産業を守護する四つの自然神・・火の神・軻遇突智命(かぐつちのみこと)、土の神・埴山姫命(はにやまひめのみこと)、水の神・彌都波能売命(みづはめのみこと)、食物(五穀養蚕)の神・稚産霊命(わくむすびのみこと)が祀られています。また、鳥居横には、新熊野神社のシンボルとなっているも熊野大神が降臨した巨大な大樟社(後述します)があります。
尚、これら祭神への参拝方法ですが、まず、中央の本社に参拝し、本社の左にまわって結の社・速玉社と中四社に参拝し、本社の裏側の道(写真)を抜けて若宮社、下四社、そして最後に大樟社に参るのが正しい参拝順序とされています(最初に、目立つ大樟社に参る方も多いようです)


さて、新熊野神社の創建は、平安時代末期の永暦元年(1160)十月十六日、後白河上皇が仙洞御所(院御所)とした法住寺(法住寺殿)山内に、御所鎮守社として、紀州国(和歌山)熊野権現本宮から熊野三山の神々を勧請したのが始まりとされます。
平安朝末期には、京の都人の間で熊野信仰が盛んとなりますが、特に後白河上皇は、歴代上皇の中で最多の三十四回の熊野御幸を行ったことで知られ、新熊野社は都人がより楽に熊野神に参詣できるように熊野の新宮・別宮として創建されたものでした。そして、上皇の命を受けてその造営を担当したのは平清盛でした。清盛は、熊野の土砂や材木を用いて社域を整え社殿を作り、那智の浜の青白の小石を敷いて霊地熊野の様子を再現したということです。

尚、「新熊野」を「いまくまの」と読むのは、前に採り上げた新日吉社が比叡山麓の坂本の日吉大社に対して「いまひえい=今比叡」と呼ばれたのと同じく、古くからの紀州熊野に対して、京の都の新宮「新しい熊野」「今の熊野」であるという都人の認識に由来しています。以来、新熊野社は、高倉天皇の中宮徳子(建礼門院)が安産祈願をするなど皇室の崇敬を受け、広大な社域と荘厳な社殿を持ち京の熊野信仰の中心地として栄えました。


その後、新熊野社は室町幕府の保護も受け、三代将軍足利義満が初めて猿楽を見たのは、当社で行われた能だったとも伝えられます。

文中三年(1374 応安七年)頃、能楽大成者として知られる世阿弥(ぜあみ)がまだ藤若丸と称していた十二歳の時、父の観世清次と共に、大和の猿楽結崎座を率いて新熊野社で勧進興行を行いましたが、これは世に「今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見物していた将軍義満が、その芸に感激して二人を同朋衆に加え、父子をそれぞれ観阿弥、世阿弥と名乗らせたといわれます。
そして、世阿弥はこの義満の援助の下、父の志を継いで、能楽の芸術性を高めるため研究努力して、今日の能楽に大成させることになります。
この関係から、新熊野神社の境内こそ、世阿弥と将軍義満との機縁の地、能楽大成のきっかけとなった場所だったとして、神社の境内には、「能楽大成、機縁の地」を記念する石碑や掲示板が設けられています。しかし、その後の新熊野社は、応仁の乱以降の戦火に度々見舞われて荒廃し、廃絶同様の状態となってしまいました。


ようやく、江戸時代の初期、後水尾天皇の中宮・東福門院が社殿を再興し、霊元天皇の寛文十三年(1663)に聖護院宮道寛親王(後水尾上皇皇子)が現在の本殿を造営しました。
本殿は、桁行三間、梁行一間、屋根は入母屋造・妻入で、正面に向拝一間を付け、内部は、奥行三間の内、手前正面一間の外陣とその奥二間の内陣に分かれています。構造形式や平面構成共に、熊野本宮証誠殿(しょうじょうでん)と同じで、全国的にも京都においても他に類例が少なく、更に熊野本宮証誠殿よりも古いことからも熊野造の古制をよく伝える貴重な遺構として京都市指定の重要文化財に指定されています。また、本殿の周囲には、前述したように、小さな上社(うえのやしろ 結びの社・速玉の社)、中社(なかのやしろ 中四社)、若宮社、下四社があります。
尚、境内北側の森は、立ち入り禁止の神域となっているため、境内自体は東大路通沿いから感じられるより、意外と狭いといった印象です。



次回に続きます・・

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