京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

伏見区

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今回は、かなり以前にPart1で採り上げた白河天皇の陵墓について写真を増やして再掲載します。 尚、白河天皇の崩御の様子は、以前に「白河天皇火葬塚」を採り上げた際に、また、白河天皇の父・後三条天皇や、子の堀河天皇について書いた際にも白河天皇は登場しているので、今回は簡単に生涯を概説して、その陵墓について書いてみます。


白河天皇は、延久四年(1073)に二十歳で即位し、翌延久五年(1074)に父の後三条天皇(病気により退位し上皇となっていました)が崩御すると親政を行いました。そして、応徳三年(1086)に上皇となって、大治四年(1129)に七十七歳で崩御するまで、堀河・鳥羽・崇徳三代に渡って院政を敷きます。約五十六年間に渡って政治の実権を握った天皇(上皇)は極めて稀な存在といえます。

白河天皇は、即位時点から非常に幸運に恵まれていました・・・父・後三条天皇が藤原氏勢力の抑制政策を採ったため、その恩恵を受けた白河天皇は藤原氏に気兼ねなく延久四年(1073)に二十歳で即位することが出来ました。そして、最大の幸運は、白河天皇の後はその異母弟達(白河天皇よりも藤原氏と関係の薄い実仁親王、輔仁親王)を即位させようと考えていた後三条上皇が、翌延久五年(1074)に崩御したことでした(在位は約五年の短さでした)やり手の父帝が長生きしていれば、おそらく白河天皇は中継ぎの天皇で終わり、歴史で大きな役割を果たせなかった可能性が高いように思います。

しかし、後三条上皇が崩御し、さらに応徳ニ年(1085)に異母弟の皇太弟・実仁親王が十五歳で病死するという幸運に恵まれると、翌応徳三年(1086)に白河天皇は父の遺命に背いて、もう一人の異母弟・輔仁親王を退けて、自身の子(堀河天皇)を即位させて上皇となり、自身の皇統を守りました。その後、嘉保三年(1096)に出家して法皇となっています。
また、成長した子の堀河天皇は、白河院政に批判的な関白・藤原師通の補佐を受けて法皇の政治上のライバルになる可能性がありましたが、嘉承二年(1107)に二十九歳で崩御します。代わって五歳で即位した孫の鳥羽天皇はもちろん法皇の完全な傀儡で、以後、大治四年(1129)の白河法皇の崩御まで法皇の専制政治が続くことになります。

「今鏡」は、白河帝は、父の後三条に似て性格は繊細にして気丈と記しています。ただ倹約を旨とした後三条に対して、豪華な寺院や堂塔(鳥羽離宮や法勝寺他)の建造を行うなど贅沢な派手好きだったことで知られます。また「今鏡」は、身辺を常にチェックして必要なもの以外は整理整頓して片付けていたとも記しています。(長期に渡って政治を行ったためエピソードも多く、「古事談」等にも数々の逸話が出てきます。)
その他、寵愛した中宮・藤原賢子(ふじわらのけんし)の死後に多くの女性関係があったことから、信憑性は不明ですが、白河法皇が養女の藤原璋子(待賢門院 後に鳥羽天皇中宮)と密通し崇徳天皇が誕生したという「古事談」の有名な逸話や、平清盛も白河法皇の御落胤であるという説が生まれました。



さて、京都市伏見区竹田浄菩提院町にある白河天皇成菩提院陵(しらかわてんのう じょうぼだいいんのみささぎ)についてです。

天永二年(1111)、白河法皇は、自身の葬堂・墓所として鳥羽離宮の泉殿内に三重塔を建立しました。泉殿は、その後に鳥羽上皇によって建立された東殿(及び安楽寿院)の直ぐ西方に位置していて、東殿建造以前は、鳥羽離宮の最も東に位置する御所でした。
しかし、大治四年(1129)七月に白河法皇が崩御した時点では、三重塔に付属する遺骨を納める御堂・成菩提院(じょうぼだいいん 泉殿御堂成菩提院)がまだ完成していなかったので、火葬にされた後、一旦、遺骨は香隆寺(北区平野付近にあったと推定される寺院 ブログの二条天皇香隆寺陵などを参照下さい)に納められました。そして、天承元年(1131)七月に、成菩提院が完成すると、白河法皇の遺言に従って、鳥羽上皇は直ちに塔内に遺骨を改葬させました。

現在の白河天皇成菩提院陵(伏見区竹田浄菩提院町)は、この跡地を推定して造られています。
残念ながら、当初あった三重塔を失って方丘墳墓しか残っていませんが、この三十三メートルの正方形の墳墓は、発掘調査によって元々は一辺五十六メートルの正方形で、周囲に幅約八.五メートルの堀が巡らされていたことが判明しているということです。そして、この方形区域の中央に成菩提院の三重塔が建立されて、その床下に遺骨が納められていたと考えられています。
この陵墓の側面や背後は道路やガレージに接しているために、簡単に周囲の様子を確認することが出来ます。

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