京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

伏見区

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今回は、京都市伏見区竹田浄菩提院町にある鳥羽天皇安楽寿院陵(とばてんのう あんらくじゅいんのみささぎ)です。

前に安楽寿院を採り上げた際に書きましたが、平安時代の後期、鳥羽離宮の東殿(及び安楽寿院)には、白河法皇の例(白河法皇は、自身の葬堂・墓所として鳥羽離宮の泉殿に三重塔を建立し、崩御の後は火葬にされ、塔に付属する御堂・成菩提院(じょうぼだいいん)に遺骨が埋葬されました)に倣った鳥羽上皇が、自身の葬堂・墓所とするために建立した三重塔の本御塔(ほんみとう)がありました。
この三重塔は、保延五年(1139)二月に建立され、保元元年(1156)七月二日に、鳥羽上皇が安楽寿院で崩御すると、遺言に従ってこの本御塔に埋葬されました。現在、安楽寿院に伝えられている本尊・阿弥陀如来像は、元々はこの本御塔の本尊だったと推定されています。

しかし、この本御塔は、鎌倉時代の永仁四年(1296)八月に焼失しました。そして、慶長元年(1596)の慶長伏見地震と呼ばれる山城伏見の大地震で安楽寿院が被害を受けた後、慶長十七年(1612)に仮堂が建てられ、ようやく幕末の元治元年(1864)に建てられたのが、現在ある方形の法華堂になります。現在の鳥羽天皇安楽寿院陵は、本来の三重塔では有りませんが、落ち着いた方形堂も周囲の環境にマッチしていて良い雰囲気のある陵墓だと感じます。
(また、見え難いですが、法華堂の右にある梅の木(松の右辺り)は、鳥羽天皇の時代、僧侶や役人達が碁に熱中して政務に影響したために、碁を禁止して碁盤を埋め、その上に梅の木を植えて戒めとしたものと伝えられ「碁盤の梅」と呼ばれています。現在の梅は、その子孫ということです。)





さて、平安時代後期の第七十四代・鳥羽天皇は、第七十三代・堀河天皇の第一皇子として康和五年(1103)一月に誕生し、名を宗仁(むねひと)といいました。母は贈皇太后・藤原苡子で、鳥羽帝は、崇徳・近衛の二代に渡って院政を敷いたことで知られます。

この鳥羽天皇は、自分が賀茂神の不思議な力によって誕生したのだと信じていたようです。
晩年の康治元年(1142)五月のある夜、藤原頼長ら貴族たちとの語らいの際に、その不思議な誕生秘話を自ら語っています(藤原頼長の日記「台記」や「古事談」)・・


当時、白河上皇は、子の堀河天皇に皇子が誕生しないので嘆いていました。自身の皇統を維持しなければという危機感があったようで、ライバルとなるのは、不仲な関係の二十歳下の異母弟・輔仁親王(すけひとしんのう 後三条天皇の第三皇子)の存在でした。

前に何度か書きましたが、白河帝の父・後三条帝は、藤原氏摂関体制の復活を抑えるために、白河帝の後はその異母弟達(藤原茂子との間に生まれ藤原北家の血を引く白河天皇よりも、源基子との間に生まれた藤原氏と外戚関係に無い、村上源氏の血を引く実仁親王と輔仁親王)を順次即位させようと考えていて、延久五年(1074)の崩御の際にも、後三条上皇は、二十一歳の白河天皇に、その幼い異母弟達の将来を託しました・・後三条上皇は、当時三歳の東宮(皇太子)実仁親王(さねひとしんのう 第二皇子)が即位した後は、当時まだ一歳の第三皇子・輔仁親王を東宮とするようにと遺言しました。
父帝の命に背くことは出来ないので、白河天皇はもちろんこれを承諾しました。そして、その後成長した輔仁親王も、自分もいずれ東宮となって、やがて即位するものと信じていました。


しかし、応徳ニ年(1085)に東宮・実仁親王が十五歳で病死した後も、白河天皇は、輔仁親王を皇太子に立てませんでした。そして、白河帝は、翌応徳三年(1086)十一月に父帝の遺命を無視して、自身の子で八歳の善仁親王(たるひとしんのう 堀河天皇)を皇太子として、即日自身は譲位を宣言して上皇となり、堀河天皇を即位させました。
(尚、後三条帝の母で、白河帝の祖母に当たる国母・陽明門院(ようめいもんいん 禎子内親王(ていしないしんのう 三条天皇の皇女)は、父帝の遺命に背いて堀河帝即位を強行した白河帝に激怒して、一時、この祖母と孫の関係が悪化したと伝えられます。)
立太子されなかった輔仁親王が兄帝を恨んだことはいうまでもありません。

ただ、即位したとはいえ、堀河天皇はまだ八歳、尚且つ病弱で、十三歳の輔仁親王は皇太子となる望みを捨ててはいませんでした。しかし、白河上皇は、異母弟に皇統が移ることを恐れていました。
そこで、一日も早く堀河帝に皇子(白河上皇にとっては孫)が誕生することを望み、寛治五年(1091)十月に、上皇の同母妹・篤子内親王(とくし(あつこ)ないしんのう 後三条天皇の第四皇女で賀茂斎院)を堀河天皇に入内させます・・

篤子内親王は、堀河天皇より十九歳も年上の実の叔母で、後三条帝の崩御によって賀茂斎院を退下していました。篤子内親王は、当時としては高齢の三十二歳にもなって十三歳の甥に入内することを恥ずかしがって気が進まなかったようです。「今鏡」は、篤子内親王が選ばれた理由として、堀川天皇が幼い頃から篤子内親王を身近に見て素晴らしいと思い、いつか后にしたいと思い定めていたからではないかとしていますが、実際は、当時天皇の周辺や摂関家に適当な子女が無かったために白河上皇によって選ばれたと考えられます。


しかし、篤子内親王入内から数年経っても皇子が生まれ無かったため、白河法皇(嘉保三年(1096)法皇)は、何度も皇子誕生祈願を行いますが効果はありませんでした。
数十年後に、鳥羽上皇が藤原頼長らに語った話によると(台記)、当時、堀河天皇が病気がちで、皇后の篤子内親王が高齢なため、世間はいずれ白河法皇の異母弟・輔仁親王が天皇になるのではと噂していたといいます。焦った白河法皇は、自身が還俗し重祚することまで考えたということです。


そこで、白河法皇は、大納言藤原実季の娘・藤原苡子(ふじわらのいし 鳥羽天皇の即位で皇太后を追贈)を入内させようと考えました。苡子の父・藤原実季は、若くして亡くなった白河上皇の母・藤原茂子(ふじわらのもし しげこ 白河天皇即位により皇太后を追贈)の実兄で、上皇の外伯父という関係でした。この法皇と近い関係にある実季の娘の入内には、法皇の意向が強く働いていました。
こうして、苡子は承徳二年(1098)十月に二十二歳で堀川天皇に入内、十二月に女御となりました。苡子は入内間もなく男子を流産してしまいますが、康和五年(1103)に再び懐妊し、ついに待望の皇子(鳥羽天皇)が誕生することになります



さて、鳥羽上皇は、康治元年(1142)五月、貴族達を前にして、自身の不思議な誕生秘話を語ります・・・

当時、懐妊した苡子の母・藤原睦子(ふじわらのむつこ 藤原実季の妻)は、賀茂社に籠もって娘の男子誕生を祈っていましたが、ある時、夢の中で賀茂の大明神が絹衣の袖に現れて、「男子を産むであろう。その間木(鴨居の上に渡した横木)を取ってみよ」とのお告げを受けます。驚いた睦子が間木を手に取ってみると、龍の姿をした造り物でした。そこで、睦子は、この龍を鳥羽院(鳥羽離宮)に祀り、また、大明神が宿った絹衣を御正体(御神体)として、自邸のあった四条坊門に賀茂社の別宮を造って祀りました。

また、苡子が懐妊した際、一人の謎の女が現れて、御所の女房に「この御懐妊は皇子です。たいへんお目出度いことと存じます。右のお尻に痣があるでしょう。」と言うので、驚いた女房が東宮大夫・藤原公実(藤原苡子の同母兄)に告げました。公実も驚いてその女に会おうとしますが、忽然と女は消えていて、神のお告げだったとしか思われませんでした。そして、その後間もなく誕生した皇子(後の鳥羽天皇)の右の尻には確かに痣があったのです・・

この不思議な自身の誕生話を語り終えると、鳥羽上皇は「今も朕の尻にはその痣があるのだが、このように不思議な事がたいへん多いので、朕は人間の力では無い不思議な力によって誕生したのだろう」と語ったということです。



さて、こうして、白河法皇や堀河天皇にとっては待望の、堀河帝の第一皇子・宗仁親王(後の鳥羽天皇)が誕生しました。時に康和五年(1103)正月十五日のことでした。
「中右記」は法皇が、「皇子之事、多年之思、只在此一事」「今既相叶、誠是勝事之由、有御気色」と長年の念願かなってホッとした様子を記し、さらに「上皇御感之餘已及落涙」と感動のあまり涙を流して喜んだとことを伝えています。しかし、皇子を産んだ藤原苡子は難産のために二十五日に二十八歳で亡くなり、白河法皇や堀河天皇はその死を大いに悲嘆しました。(尚、苡子の遺骸は鳥辺野で火葬の後、遺骨は木幡山陵(現・宇治陵)に埋葬されました)

誕生したばかりで母苡子を失った宗仁親王(鳥羽天皇)は、祖父・白河法皇の下で養育されました。生後七ヶ月あまりの同年八月十七日に立太子され、父堀河天皇の崩御によって、嘉承二年(1107)七月に五歳で即位しました。実際の政治は、もちろん白河法皇が行いました。


これで皇位継承は安泰かに見えましたが、朝廷内では、いまだ白河法皇の異母弟・輔仁親王への期待も高かったようです。輔仁親王は、才知豊かで漢詩文や詩歌に優れ、特に漢詩文では醍醐天皇の皇子・兼明親王と並び称されるほどの腕前だったといわれ、特に源氏一族の貴族達の尊敬を得ていたのです。

当時公卿の半分は源氏(村上源氏・宇多源氏等)が占めるなど、源氏が宮中で大きな勢力を持っていましたが、村上源氏の一部は、後三条帝の遺言を守らなかった白河法皇の行いを非難していたようです・・前述したように、白河帝は、村上源氏の血を引く輔仁親王を即位させようとした後三条帝の遺言に違反して、自身の息子の善仁親王(堀河天皇)に譲位し、さらに堀河天皇が崩御すると、五歳の宗仁親王(鳥羽天皇)を即位させましたが、優秀な輔仁親王がまたもや皇位から遠ざけられたことは、村上源氏の一部にとっては許しがたいことに思われました。

さて、永久元年(1113)十月に「落書事件」が起こります。この事件は、輔仁親王の護持僧だった醍醐寺の仁寛らが、親王を皇位に就けるために鳥羽天皇を暗殺しようとしたとされる事件で、輔仁親王が千手丸という童子に暗殺を命じたという内容の匿名の落書が白河法皇の御所に投げ込まれたことから発覚し、親王を支持する村上源氏が背後にいると考えられました。
仁寛は、村上源氏の一族で左大臣・源俊房の子として誕生し、後に輔仁親王の護持僧となりました。仁寛は、輔仁親王を皇位に就けためには、まず鳥羽天皇を暗殺する必要があると考え、実行役の童子・千手丸と計画を練りますが、落書によって事前に発覚し、千手丸の自供により仁寛は捕らえられて尋問を受けて犯行を自白しました。

処罰されたのは、流罪となった仁寛と千手丸だけということもあり、輔仁親王失脚を狙った白河法皇の仕掛けた罠のような印象もある謎の多い事件ですが、ともかく、仁寛の父で、村上源氏の長だった左大臣・源俊房(尚、この俊房は、後朱雀天皇皇女の娟子内親王と駆け落ち騒動を起こし、内親王の弟・尊仁親王(後三条天皇)を激怒させたことのある人物・・ブログの「後冷泉天皇火葬塚」を参照ください)と、その子師時・師重らは失脚して御所への出仕停止を命じられ、輔仁親王も自ら二年間の閉門生活を送ることになりました。こうして、輔仁親王は完全に皇位継承の望みを絶たれ、失意のうちに元永二年(1119)に四十六歳で死去しました。そして、皇位継承にとって危険な存在だった輔仁親王を失脚させた白河法皇は、ついに絶対的な地位を確立したのでした。


次回はようやく成長した鳥羽天皇についてです・・

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