京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

左京区

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今回は、左京区上高野東山町にある御蔭神社(みかげじんじゃ)を採り上げました。
この神社は深い森の中にあって、真っ赤な玉垣が周囲の緑に映えて印象的で好きな神社の一つです。「御蔭祭」の時は見物人が集まって明るい雰囲気になる御蔭神社ですが、普段は深い森に囲まれて、人の気配はほとんどありません。(以下、神社の由緒書に拠って書いてみます。)


御蔭神社は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)の境外摂社で、祭神は、もちろん本宮と同じく玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、その父神の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)です。
そして、この神社は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神の荒御魂(あらみたま 御生したばかりの神霊)を祈祀する特別な摂社とされています。
御蔭神社のある御生山(みあれやま)は、比叡山の南山麓の八瀬にあって「東山三十六峰」の第二番目の山になります。(三十六峰の第一番は比叡山)「御生(みあれ)」というのは神の誕生や降臨の意味で、御生山の神社の社地は、太古に賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)の大神が降臨した神聖な場所と伝えられています。


神社の紀元は不明ですが、この地は、古代から山背北部豪族の祭祀の中心地だったと考えられていて、付近には今も数々の遺跡が存在しています。さらに、天武天皇六年(677)に山背國司が造営したと伝えられる賀茂神宮は、当神社ではないかという説があるということです。また、御生山は、太陽のただ射す所の意から「御蔭山(みかげやま)」とも呼ばれていました・・平安時代の右大臣・藤原実資の日記「小右記」の寛仁二年(1018)十一月二十五日の条にも、「鴨皇大御神、天降り給ふ。小野里、大原、御蔭山なり。」と記されていて、古くから御蔭山と呼ばれていたこの聖地に因んで、御蔭神社という社名になったようです。
また、現在の社殿は、元禄六年(1693)、本宮(賀茂御祖神社=下鴨神社)の式年遷宮の際に造替されたものですが、それ以前までは現在の本殿の北東の麓、高野川沿いに鎮座していて、地震や洪水に遭って社殿が埋没したため現在の地に動座したということです。


御蔭神社は、「京都の三大祭」の一つとして知られる賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭「葵祭(賀茂祭)」でも重要な役割を持っていています。「葵祭(賀茂祭)」に先だって、五月十二日に、御影神社から神霊を本宮の賀茂御祖神社(下鴨神社)へ迎える神事が行われているのです・・これが「御蔭祭(みかげまつり)」で、かつては「御生神事(みあれしんじ)」と呼ばれていました。

「御蔭祭(御生神事)」の起源は、第二代・綏靖天皇(すいぜてんのう)の時代(紀元前581)まで遡るという所伝もあるように非常に古く、平安遷都以前からこの地に住んでいた鴨氏族の信仰形態を伝える祭祀、氏祖神祭として「葵祭の源流」、「鴨社創祀の神事」といわれます。
その後、葵祭(欽明天皇の時代(540〜572)に凶作で飢餓疫病が蔓延したために「鴨の神」の祭礼を行ったことを起源とされます)と一体化して、平安時代には葵祭の神事の一つとなっていったようで、朝廷からは、阿礼料や幣が奉献されていました。

鎌倉時代の公卿、勘解由小路兼仲の日記「勘仲記」の弘安七年(1286)四月十二日の条に「午の日の神事、御荒という。社司や氏人が斎(いみ)たすきをかけて神歌を唱へながら供奉す。」とある等、古代の御生神事に関する多くの記述が残っています。特に、神馬の御神前で行われる三台塩(三代詠)を中心とする神事芸能は、日本最古の祭儀式を伝え、その行粧もまた最古の神事列といわれ、葵祭と並ぶ優雅な行粧として名高く、室町時代に入ると数々の史料に登場するということです。

その後、応仁の乱で一時中断し、江戸時代に復興しますが、明治時代になると、明治政府は全国の神社を管理するため、地域の氏神祭を国家祭事の葵祭と分離するという国家政策を採ります。これにより「御生神事」は、社地のある御蔭山(御生山)の名前を取って「御蔭祭」と改称され、国家祭祀としての葵祭とは別扱いを受けることになったということです。


下鴨神社のホームページによると、旧祭式時代の御生神事は、旧暦四月の午の日に行われ、早朝より禮殿(らいでん)における解除(げじょう)の樹下神事(じゅげしんじ)から始まり、その後、本宮を進発するときの歓盃(かんぱい)の儀、神領内行粧を整える檜垣(ひがき)が行われました。
そして、御蔭山の山麓の禁足地へ行粧が到着すると、高野川に面した船繋ぎ岩(磐座(いわくら))で御生神事が行われました。御蔭山の麓を風俗歌を奏しながら巡る神おろしの神事があり、その後、神領内総社神前での路次祭(ろじさい)を行い、糺の森に達してからは。芝挿神事(しばさしのしんじ)、切芝神事(きりしばのしんじ)、御生ひきと称しする御綱を正官がひく神事等本宮の儀の全てを総称して「御生神事」と呼ばれてきたようです。

その後、この古代の鴨氏の思想信仰を基とする祭祀と氏祖神祭は、氏子の祭へと変貌し、明治時代の上知令後は、神領内の各総社が独立したため諸神事が略される等、大きな変革がもたらされました。
しかし、古代から森林を祭祀場とする切芝神事は、御生された御神霊を神馬の背に移御し、御神前で御祭神のご来歴、風俗歌三代詠(さんだいえ)を奏上するのと、忌子(童形)御杖を奉持、先導する本宮の儀は、今は葵祭にさきがけて五月十二日の「御蔭祭」で行われています。 


御蔭祭の当日は、神馬に錦蓋を飾って神鈴を付け、鉾や太刀、弓、槍等の神宝を捧げ持って社殿には阿礼(あれ)を掛けます。また、本宮の下鴨神社では、「樹下神事(じゅげしんじ)」を行い、行列を整えて進発前の「歓盃の儀」を終えた後、多くの供奉者が葵桂をかざしながら本宮を進発し(前述したように、この賀茂御祖神社(下鴨神社)と御蔭神社を往復する巡行は、日本最古の神幸列と伝えられます。かつては氏子による巡行があったようですが、現在は交通の不便さから神官が自動車で御影神社に来て境内で神事が行われます)行粧が御蔭神社に到着すると、社前において、午の刻(正午頃)に、神霊が神馬に移御するという御蔭山之儀を行い、神霊を神霊櫃(しんれいびつ)という小箱に中に移し山道を下ります。

その後、自動車で下鴨地域まで移動し、北大路の下鴨中通から本社下鴨神社までの約一キロを巡行し、途中で境外摂社「赤の宮神社(ブログに登場しています)」に立ち寄って路次祭を行います。その後、下鴨神社の参道を進んで、神前で切芝神事(きりしばのしんじ)等を行い(午後四時頃のこの本社で行われる切芝遷立の儀の時には「東游(あづまあそび)」という舞が行われます)、その後、神霊を本宮に遷御する本宮の儀が行われ、五月十五日の葵祭本祭を待つこととなります。


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