京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

山科区

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山科区一帯にあって、京都の洛東最大の集落史跡とされるのが、「中臣遺跡(なかとみいせき)」です。今回は、山科区勧修寺にある西金ヶ崎公園内(山科区勧修寺西金ケ崎)、勧修小学校内(勧修寺東栗栖野町)、勧修寺市営住宅敷地内(勧修寺東栗栖野町)の各中臣遺跡碑の写真を掲載し、西金ヶ崎公園内と史跡住宅の中臣遺跡を解説する石碑の文章を引用してみます。


さて、山科盆地は、中臣鎌足(藤原鎌足)で知られる中臣氏(後の藤原氏)の本拠地として古くから開発され、大津京や平安京の隣接地としても歴史的に大きな影響を与えた地域でした。
そのためか、山科区の山科盆地の南部と栗栖野丘陵を取り巻く一帯には、「中臣遺跡(なかとみいせき)」と呼ばれる縄文時代(後期旧石器時代 約二万年前)から平安時代を経て、室町時代に及ぶ大規模な集落遺跡があります。この遺跡群は、集落跡と古墳群から成る複合遺跡で、東は山科川、西を旧安祥寺川で囲まれ、両河川の合流点から北へ広がっています。

以下の地域に分布しています
東野(舞台町・森野町)
栗栖野(狐塚・中臣町・華ノ木町・打越町)
西野山(中臣町・中鳥井町)
勧修寺(東栗栖野町・西栗栖野町・西金ヶ崎・東金ヶ崎・椥辻番所ヶ口町)


発掘調査によって、住居跡は、山科川と旧安祥寺川に面した段丘面を中心に点在し、大きく二つの時期に分けられることが判りました・・・一つは弥生時代の終末期から古墳時代の前期にかけての遺跡で、もう一つは古墳時代からその終末期にかけての遺跡になります。
その内、古墳時代からその終末期にかけての集落遺跡には、中臣鎌足(藤原鎌足)が邸宅(陶原館)を構えていたという「山科の陶原」があった可能性もあり、そうであれば、「中臣遺跡」は古代史上たいへん貴重な遺跡となることになります。


また、この地の古墳群(中臣群集墳)は、栗栖野丘陵にある小円墳の群集墳で、いずれも六世紀末〜七世紀前半に造られたものと推定されています。この地の古墳群は、「中臣十三塚」と呼ばれてきたように、かつては多くの古墳があったようです。
昭和四十三年(1968)に高校生によって初めて集落跡が発見され、1972年から土地区画整理に伴う道路工事や宅地開発に先立って発掘調査が続けられました。現在は、近年の宅地造成によって古墳群の大部分が失われ、現在まで墳丘を残しているのは、ブログに採り上げた折上稲荷神社境内にある折上神社古墳(通称「稲荷塚」)と、「宮道朝臣列子墓」の碑がある「宮道古墳」だけということです。


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