京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

山科区

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岩屋寺その1

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前回に採り上げた大石神社のすぐ南、なだらかな坂道の上に位置するのが、山科区の数少ない観光寺院の一つ、岩屋寺(いわやじ)です。
岩屋寺は、別名「大石寺(おおいしでら)」とも呼ばれる尼寺で、近畿三十六不動尊の第二十四番霊場、三十六尼寺めぐりの一寺でもあります。境内に忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか・よしお)の住居跡があることで知られます。
(山科区には毘沙門堂、勧修寺、随心院といった四季の花々を楽しめる京都を代表する有名観光寺院がありますが、岩屋寺は観光地としての知名度ではまだ地域限定かもしれません。しかし赤穂義士関連としては全国でも必見クラスの史跡の一つでしょう。)

山門を入った本堂周辺はそれ程広くは感じませんが、境内の総面積は、約七万九千二百平方メートルあり、その大部分は山門前の敷地や竹林等が占めているようです。
この広場の中にあるのが、大石良雄が討ち入りまでの一年余りの間、住居としていた屋敷跡で、大石良雄遺髪塚、大石良雄山科閑居址等の数多くの石碑が点在しています。また、この周囲には、桜や梅、椛も多く、長閑な里の風情を楽しめる空間となっています。そして、山裾の高台に位置しているために、山科の夜景を楽しむことも出来るということです。(以下、岩屋寺の案内表示その他で記載されている通り、本名の「大石良雄」に統一して書いてみます)



さて、京都市山科区西野山桜ノ馬場町にある岩屋寺は、正式には「神遊山金地院岩屋寺」という曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺です。
元々は、平安時代に創建され、比叡山三千坊の一つに数えられる天台宗寺院だったということですが、火災により古記録を喪失したために、寺院の詳しい歴史は不明のようです。また、かつては、隣接する山科神社(やましなじんじゃ)の神宮寺だったと伝えられています。

その後、赤穂義士・大石良雄がこの地に隠棲したことで、大石の住居に隣接する岩屋寺は、赤穂義士ゆかりの寺院として知られるようになっていきます。
(大石と山科との関わりは、大石神社を採り上げた際に書きましたが、一応、一部再掲載しておきます。)


元禄十四年(1701)三月十四日、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内の松の廊下で、 高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に対し刃傷におよんだことから、将軍・徳川綱吉の命により内匠頭は即日切腹、浅野家は断絶、領地没収となりました。この時、赤穂藩の城代家老・大石内蔵助良雄は、浅野家家中の意見をまとめて四月十九日に無血開城し、残務処理の後、五月十二日に赤穂を去って六月二十八日に山科の里に住居を構えました。

この山科の地には、大石良雄より先に赤穂を去っていた親類の浅野家家臣・進藤源四郎俊式(しんどうげんしろうとしもと)が移り住んでいて、その世話でこの地を選んだと思われます。(当時、山科は近衛家の領地で、進藤源四郎の親類・進藤刑部大輔長之(しんどうぎょうぶたいふながゆき)が近衛家の家司として山科の地を管理していたことから、源四郎を通じてその援助を受けたと考えられています。)


こうして、大石良雄は、討入り前の一年有余、山科に住居を構えて、山科や京都で、しばしば同志達と会合を開いて、浅野家再興の方法を模索し、その後は吉良上野介討ち入りの準備を進めました・・・大石は、当初は討ち入りを強行しようとする江戸の急進派同志を抑えて、亡内匠頭の弟・浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)を立てて播州赤穂藩浅野家の再興を謀りますが、翌元禄十五年(1702)七月に、幕府が浅野長広に安芸広島藩浅野本家への預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは絶たれました。
こうして、大石は最終方針を本所吉良邸討入りに決定し、江戸の同志達と計画を進めます。大石は五月に妻子を離縁し、八月には山科を引き上げて京都四条寺町に移り、十月には江戸へと出発しました。


さて、元禄十五年(1702)十二月十四日(討ち入り決行は十五日の午前四時頃)大石内蔵助良雄以下、元赤穂藩の浪士四十七士は吉良邸へ突入しました。表門から大石良雄を大将として、片岡源五右衛門ら二十四名、裏門からは長男・大石主税を大将として、堀部安兵衛ら二十三名が襲撃し、約二時間の激闘の末、午前六時頃に吉良上野介義央の首を得て本懐を遂げました。その後、四十七士は高輪泉岳寺の主君長矩の墓前に、その首を捧げ仇討ち達成の報告をしたのでした。
討ち入り後の赤穂義士四十六士(足軽の寺坂吉右衛門を除く)は、細川、松平、毛利、水野の四大名家に預けられ、 翌、十六年(1703)二月四日、幕府の命により、全員が切腹しました。時に大石良雄は四十五歳、義士達の遺骸は、主君・浅野内匠頭と同じ泉岳寺に葬られました。


吉良上野介義央の首を得て本懐を遂げた後、大石は、この山科の邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進したと伝えられます。その後、岩屋寺は、一時は荒廃して、その後、大石の旧宅も取壊されたようですが、幕末の嘉永年間(1848〜54)に、当時の住職・堅譲尼(けんじょうに)が、京都町奉行・浅野長祚(あさのながとし)等の寄付を受けて再興しました。



次回に続きます・・・尚、今回は山門内の諸堂の写真を掲載しました、次回は大石良雄山科閑居址等、山門の外の様子を掲載します。


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