|
嵐山の渡月橋から保津川(大堰川)の右岸を約一キロメートル遡った所にある嵐山温泉から、さらに九十九折の石段を登ること約百メートル、嵐山の中腹にあるお寺が千光寺(せんこうじ)です。
千光寺は、安土桃山時代〜江戸初期の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)ゆかりの寺院で、通称の大悲閣(だいひかく)の名で知られます。十数年前に台風で本堂が倒壊して再建途中にあるために、現在もかなり荒れた雰囲気が漂う田舎の古い庵や山荘のような小さな寺院ですが、京都市内を一望できる「絶景」を売りにしていて、秋の観光シーズンには嵐山観光の穴場として訪れる人も多いです。
さて、京都市西京区嵐山中尾下町、嵐山の中腹にある千光寺(せんこうじ)は、正式には、嵐山大悲閣千光寺という黄檗宗の単立寺院(元々は天台宗)で、本尊は千手観音菩薩になります。通称の「大悲閣」というのは、観音菩薩を安置する観音堂を指します。
元々、千光寺という寺院は、創建年代は不明ですが、嵯峨中院(現在の清凉寺=嵯峨釈迦堂の付近)にあり、鎌倉時代には後嵯峨天皇の勅願寺にもなった由緒ある寺院でしたが、やがて衰退してしまったようです。その後、江戸時代初期の慶長十九年(1614)五月、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)が、晩年にこの地に隠棲し、保津川の開削工事に関係した人々の菩提を弔うために千光寺を現在地に移して、二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)和尚を中興開山に講じて建立したということです。
尚、「大悲閣」とは、仏の「大慈大悲(だいじだいひ 仏教の根本「慈悲」の精神から、一切の衆生に楽を与える「慈」と一切の衆生の苦を抜く「悲」)」という教えに基づいた、一般に観音堂を意味する名称ですが、千光寺境内に了以が建立した観音堂が有名になったためか、千光寺は、特にこの「大悲閣」の名で知られるようになりました。
さて、安土桃山・江戸初期の豪商で、京都の水運の父ともいうべき角倉了似(1554〜1614)についてです。
了似は、天文二十三年(1554)、嵐山の天龍寺付近で土倉(金融業、高利貸し・質屋)と医業を営んでいた吉田家に誕生し、名を光好といいました。
元々、角倉家(本姓吉田氏)は、近江佐々木氏の出身でしたが、角倉家の祖となった吉田徳春が、足利三代将軍義満と四代義持に仕え、近江から洛西嵯峨の角倉の地へ移り住んだと伝えられます。(尚、「角倉」の名前の起こりについては諸説あるようですが、京都市歴史資料館の「フィールドミュージアム京都」のサイトを参照すると、かつて、桓武天皇が勅営角倉を洛西のこの地に置いたという伝承があったようで、寛永六年の林羅山による撰文「河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘(了以の行状記)」には「洛の四隅に各々官倉あり,西に在るを角倉という」と記されていて、これがいつしか地名となり角倉了以の祖・徳春がこの地に住したことから、(さらにその後、吉田家歴代の当主が土倉(金融業、高利貸し・質屋)業を行ったことから、「倉(蔵)」にかけて)「角倉」を家名(屋号)としたと考えられます。渡月橋の下流南岸にある公立学校共済組合「花乃家(はなのいえ)」の前には、この伝承に基づいた「桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址」の石標があります)
その後、医術を本業として歴代将軍に侍医として仕え、また了以の祖父にあたる吉田宗忠(よしだそうちゅう)の頃から嵯峨大覚寺境内で土倉(金融業、高利貸し・質屋)業を行って富を蓄え、海外貿易にも進出していったようです。(江戸時代には、角倉家は、茶屋四郎次郎の「茶屋家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれるほど栄えますが、角倉家は江戸以前から京屈指の豪商だったといえます)吉田宗忠は、土倉は長男に、次男の吉田宗桂(よしだそうけい 了以の父)に医者を継がせますが、了以の父、宗桂も、医家は次男の吉田宗恂(よしだそうじゅん)に継がせ、長男の了似の方は、「角倉(すみのくら)」を正式に家名(屋号)にして土倉業を発展させることになります。また、子の素庵(そあん)は了以の良き協力者となりました。
了似は素庵と共に、豊臣秀吉の時代に海外貿易に加わって日本史上の民間貿易の創始者の一人となり、続いて徳川家康から朱印状を得て、朱印船(角倉船と呼ばれました)貿易を行い、慶長八年(1603)から数回に渡っては安南国(ベトナム)等の南方諸国との貿易等で成功しさらに莫大な富を得ました。その後、蓄えた巨万の富を元手に、商品流通のためには国内の河川網の整備が必要と考え、その開削事業にも乗り出し、手始めに慶長十一年(1606)に保津川(大堰川)の開削を行いました。
現在は「保津川下り」やトロッコ列車が行き来する観光名所として知られる保津川(ほづがわ)は、古くは、葛野川(かどのがわ)とも呼ばれました。(尚、河川法では、上流から淀川に合流する全流域を「桂川(かつらがわ)」で統一していますが、一般的には、流域によって、丹波高原から亀岡盆地までを大堰川(おおいがわ 大井川)、亀岡市盆地から保津峡や嵐山あたりまでを保津川(ほづがわ)、それ以下の淀川の合流点までを桂川(かつらがわ)と呼ぶことが多いです。)
保津川(葛野川)は、平安京が誕生する以前から、丹波と京を結ぶ物資輸送の大動脈としての役割を持っていました。そして、五、六世紀頃には、葛野(かどの)の地と呼ばれた流域の嵯峨・松尾一帯を支配していた渡来系氏族の秦氏が、先進土木技術を用いて渡月橋付近に「葛野大堰(かどのおおい)」という大きな堰(せき)を築いたことでも知られます。葛野大堰は、堰で川水を貯水して、別の水路を使って取水するためのもので、堰で川の水量を調整して洪水を防ぐ一方、水路に水を導いて周辺地域の農業用水を確保するというものでした。こうして秦氏は、周囲一帯を農業の可能な地域へと変えていきました。そして、この大堰堤が完成した際に、葛野川から大堰川(大井川)とも呼ばれるようになったと伝えられます。
保津川は、その後の平安京の造営の際も、丹波や京北地域からの木材輸送に活躍するなど、ほとんどの生活物資を外部からの供給輸送に頼っていた京都にとっては欠かすことのできない大動脈(現在の高速道路のようなもの)の一つでした。
さて、了以は、慶長九年(1604)に、備前と美作(共に岡山県)を流れる和気川(吉井川)を訪れ、この地で舟底の平らな高瀬舟が盛んに行き来する様子を観察しました。そしてこの時、効率よくスピーディに物資を運搬する方法は、日本全国の河川全てで舟が運行出来るようにすることだと思い立ったといわれています。
そして、まず手始めとして、幼少期より慣れ親しんだ保津川を開削して高瀬舟を保津川でも採用しようと考え、さらに現地で綿密な調査を行いました。かつて一度も舟が通ることの出来ない場所に、舟運の開通を計画するのは山城・丹波二国にとっても喜ばしい事であるとして、慶長十年(1605)幕府に提出した保津川開削建議が認められ、了以と素庵は、慶長十一年(1606)三月から保津川(大堰川)の開削を開始しました。
了以自らが陣頭指揮したこの開削工事は、やはり難事業となりました。
大悲閣(千光寺)の境内にある林羅山書の「吉田了以碑銘」等によると・・大石には縄を巻きつけて滑車(轆轤)でこれを引き、水中にある石は、櫓(浮樓)を組んで、先が尖った長さ三尺、周り三尺、柄の長さ二丈余りの鉄棒を縄につなぎ、数十人で曳き上げ落下させて石を砕き、水面に出ている石は火薬で爆破し、川幅が広すぎる所では石を積んで川幅を縮めて水深を深くし、滝がある所は上流から川底を掘り下げて削って平らにしたと記しています。しかし、この努力の結果、工事開始から僅か五ヵ月後の同年の八月にこれを完成させ、世間を大いに驚かせました。
こうして、これまで筏で木材輸送を行っていた保津川で、初めて舟(高瀬舟)によって物資運搬が行われることになりました。(尚、高瀬舟は、長さ約七間(十三.八メートル)、幅六尺六寸(約二メートル)で底が平らで船首が高く幅が広いことから、木材の他にも、米、塩、薪、鉄材、石、醤油、農作物、木材製品等を大量に積むことができたのでした)
もちろん、了以にとっては、この工事もビジネスであって慈善事業として行った訳ではないので、開削以後、通船料や倉庫料を徴収して莫大な利益を得ました。しかし、この保津川開削によって、丹波と京都の物資輸送はいよいよ盛んとなり、川の周囲には湊町が誕生して栄えました。その恩恵は江戸時代を通じてたいへん大きなものだったといえます。
さて、保津川開削の成功を知った徳川幕府は、同年(慶長十一年(1606))に、今度は駿河国(静岡県)富士川の開削を命じます。富士川は保津川よりも流れも速く、さらに難事業でしたが、了以は、翌十二年(1607)二月〜十月に富士川の見事に水路開発に成功します(当時、山間部に住む人々は、舟を見たことが無かったために、「魚でないのに水の上を走る」と大いに驚いたという話も伝わります。)
しかし、続いて翌十三年(1608)に幕府から命じられた、諏訪湖から遠州掛塚(静岡県)に至る天龍川の開削では、水の勢いが強過ぎて対処出来ず挫折しました。
その後、翌慶長十四年(1609)、今度は京都で了以に活躍の場が与えられます。
当時、豊臣秀頼が東山方広寺の大仏殿の再興を計画していましたが、諸国から集められ淀川を舟で運ばれてきた建設資材の巨石巨木等を、伏見から東山の方広寺まで陸路で輸送することは困難を極めました。これを知った了以は、鴨川を使った運搬を提案して認められます。
そして、慶長十五年(1610)に開始した「鴨川水道(運河)」の工事は翌年に完成しました。川底の高い箇所を崩して川底の高低を無くし、川の湾曲部分を修正したことで、全体に水量が増えて舟の行き来が自由となったのでした。こうして、了以の提案が大仏再建のための資材運搬の問題を解決し、慶長十六年(1611)秋に大仏殿は無事に再建されました。
さらに、了以は運搬に鴨川を使用した結果、氾濫の発生する度に修復する必要を感じ、鴨川に平行した新しい運河の開削を計画し、幕府の認可を得ます。これが高瀬川の開削です。
工事は、慶長十八年(1613)から段階的に行われ翌年に完成しました。高瀬川の完成によって、京都中心部と伏見が水路で結ばれることとなり、水路での大阪方面からの物資輸送が可能となりました。高瀬川開削は、江戸時代の京都の経済発展を支える基となった事業といえます。(ブログパート1には、史跡「高瀬川一之船入」を掲載しています)
次回に続きます・・
|