京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

右京区

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京都市右京区嵯峨大覚寺門前登り町、真言宗大覚寺派大本山・大覚寺の門前の右手(路線・観光バスの停留所の向かい側)にある寺院が、大覚寺の塔頭・別格本山の覚勝院(かくしょういん)です。
大覚寺を訪れる際は、大体その門前を通ることになるので、名前はともかく、大覚寺の傍にある寺院として知る人も多いと思われます。


覚勝院自体については、話題が乏しいので、大覚寺関連で少し書いてみます。
平安時代初期の嵯峨天皇の離宮・嵯峨院に始まる「旧嵯峨御所」大覚寺は、京都を代表する歴史ある寺院の一つとして知られ、また、傍の大沢池は、この嵯峨院の遺構で、現存する日本最古の庭園の一つになります。
嵯峨院と真言宗との関わりは、大同四年(809)に唐から帰朝した弘法大師空海が、嵯峨天皇に招かれて交誼を結び、その後、弘仁二年(811)に、嵯峨院内に持仏堂として五覚院を造営して、自身で刻んだ五大明王を安置したことに始まります・・そして、この五覚院が大覚寺の前身と伝えられます。また、弘仁九年(818)春に全国的に疫病が蔓延した際は、嵯峨天皇は紺紙金泥による般若心経一巻を写経し、空海は五覚院で五大明王に天下太平を祈願したと伝えられます。

その後、嵯峨上皇とその異母弟・淳和上皇が崩御した後、貞観十八年(876)に、嵯峨天皇皇女で淳和天皇の妃になる正子内親王が、嵯峨院を寺院に改め、淳和天皇の第二皇子・恒貞親王(恒寂入道親王)を迎えて開山としました。この正子内親王と恒貞親王(恒寂入道親王)については、前回、この母子の陵墓という伝承がある円山・入道塚という二つの陵墓参考地を採り上げた際にも触れましたが、二人の人生に大きな影響を与えたのは、承和九年(842)の承和の変です。


平安時代の初期の天皇家、いわゆる桓武朝では、親から子へという直系相続ではなく、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立が行われたことが知られています。そして、この皇位迭立は、嵯峨・淳和天皇の時代には、兄弟間で相手の子供に皇位を譲るという複雑なものになりました。
嵯峨天皇は、即位後一旦、甥の高岳親王(兄平城天皇の子)を皇太子としますが、親王が「平城太上天皇の変(薬子の変)」に連座して廃位にされたため、代わって自身の異母弟・大伴親王(淳和天皇)を立太子します。即位した淳和天皇は、今度は甥にあたる嵯峨の子・正良親王(仁明天皇)を立太子し、即位した仁明天皇は、今度は従兄弟にあたる淳和の子・恒貞親王を立太子します。
このように、嵯峨と淳和の兄弟帝は、子の代まで交代に皇位を譲り合ったのでした。しかし、この皇位の譲り合いという相続形態は、制度として確立したものではなく、あくまで、当時上皇として絶大な権力を握っていた嵯峨帝の意思によって行われたものだったため、嵯峨帝の死によって脆くも崩れます。

承和七年(840)五月八日に淳和上皇が崩御し、続いて承和九年(842)に、嵯峨上皇が重病に陥ると、皇太子・恒貞親王に仕える伴健岑(ばんのこわみね)、橘逸勢(たちばなのおとせ)らは、有力貴族の後ろ盾のない恒貞親王の立場を危惧して、親王を東国へ移すことを画策します。しかし、この計画は露見し、七月十五日嵯峨帝が崩御するや、十七日に陰謀関係者は直ちに逮捕されました。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人として流刑に処し、二十三日、恒貞親王も皇太子も廃太子となりました。こうして、承和の変の結果、仁明天皇の皇子、道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となり、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進しました。

一般に、承和の変は、「藤原氏による最初の他氏排斥事件」と定義されますが、事件当時、中納言の藤原良房には自分の一存で事を起こせる程の政治権力が無かったことから、事件の背後には、淳和・恒貞親王系(淳和天皇の母は、藤原百川の娘・藤原旅子)の皇統を追い落とし、嵯峨・仁明系の皇統を守ろうとする仁明天皇とその母、皇太后橘嘉智子(檀林皇后)がいたことはまず確実で、実際、「日本三代実録」は、この事件に衝撃を受けた正子内親王が、母親の橘嘉智子(檀林皇后)を激しく憎み恨んだと記しています。


さて、実の母(橘嘉智子 檀林皇后)と実の兄弟(仁明天皇 正子と双子とも)が、我が子(恒貞親王)の皇太子の地位を剥奪したことを知って衝撃を受けた正子内親王は、同年十二月に出家し、その後厚く仏教に帰依し、受戒して人々の救済に力を尽くしたといわれます。また、事件当時十七歳だった恒貞親王も嘉祥二年(八四九)、二十四歳で出家します。そして、貞観十八年(876)二月二十五日、正子(法名は良祚)は、六十六歳の時に、既に老朽化していた嵯峨院を寺院に改め、五十一歳の我が子恒貞親王(恒寂入道親王)を迎えて開山としました。こうして、恒貞親王(恒寂入道親王)は、嵯峨天皇と弘法大師空海の法灯を継承して寺院としての大覚寺を創建し、その基礎を築きました。

その後、二代寛空を経て、その弟子三代定昭の時からは、定昭が創建した奈良興福寺一条院の兼帯となり、四代定好、五代真範、六代頼信・・と二十代良信まで兼帯が続きます。そして、文永五年(1268)に後嵯峨天皇が第二十一代、さらに亀山天皇が第二十二代門跡となりました。そして、「大覚寺中興の祖」と呼ばれる後宇多天皇が、諸堂を整備して再興しました。しかし、建武三年(延元元年 1336)八月二十八日に再建間もない大覚寺は全焼します(長くなりましたので、大覚寺と南朝との関係等は、またの機会としたいと思います。)



さて、覚勝院は、正平年間(1346〜70)の建立と伝えられることから、建武三年(延元元年 1336)の大覚寺全焼後に建てられたことになります。覚勝院HPによると、元々、摂政、関白の子息が出家して法皇の法流を継承する嵯峨御所の院家、住坊として建立され、天皇自らが神仏習合の祈願を行った塔頭寺院ということです。

現在の覚勝院の本堂(聖天堂)は、江戸時代の正徳元年(1711)、六代将軍徳川家宣の寄進によるもので、本堂には、本尊・十一面観世音菩薩の他に、歓喜天、聖天を祀ることから、嵯峨聖天とも呼ばれています。その他、地蔵菩薩(嵯峨釈迦堂内地蔵院の本尊)、乳観音(ちちかんのん 周山密厳院の本尊)、毘沙門天、不動明王、夕霧太夫の像が祀られているということです。
また、平成十九年(2007)に新しく納骨堂として寶勝心院を建立して納骨供養を受付し、仏前結婚式等も行っています。

また、歴代住職が公卿出身ということから皇室との関係も深く、明治天皇の生母・中山慶子が懐妊し、明治天皇が誕生した際には、お腹帯を加持して献上したという縁から、現在も本堂で安産祈願を行い、この際、覚勝院のおはら帯として知られる安産及び母子の健康を祈願したお腹帯が授与されます。
行事としては、毎年の十一月二十二、二十三日に行われる大根供養会が有名です。本堂に祀られている聖天に、酒とお団子と大根を供え、そのお下がりを頂戴して炊き上げ、参拝者に振舞われます。
また、毎月の月末の日曜日には、息災護摩供奉修が行われます。

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