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前回の続きです・・
前述したように、南朝の同時代資料、弘和元年(1381)十二月に時の南朝の天皇に奏覧されたと記される「新葉和歌集」と、同天皇の母の私家集「嘉喜門院集」に登場する「内の御方(今上天皇)」の正体が誰かというのが問題を解く鍵になります。「新葉和歌集」の奥書には「斯集南朝慶寿院法皇御在位之時・・」と記されていて、この慶寿院という人物が弘和元年(1381)当時の南朝の天皇だったことは確実です。
まず、八代は、当時の風評を記した「花営三代記」や「園大暦」等の北朝の資料は信憑性の面で問題があるとして退け、在位短期説の全論者が、これら北朝の資料類を裏づけとしていると批判します。また、両帝不和説については、例えば、勅撰和歌集に東宮(皇太子)の歌が掲載されていない点については、勅撰集に東宮の歌が掲載されないことは過去に珍しいことではなく、「耕雲千首」の奥書や「宗良親王千首」にも両帝の和歌が掲載されているので証明にはならないとし、文中二年(1373)には河内金剛寺から兄弟協力して吉野に逃れている歴史的事実もあり、楠木正儀が北朝へ投降したのも必ずしも両帝が不和だったことが原因とは考えられないとします。また、長慶と後亀山は同一人物で、二つの諱があったという「一帝両諱説」については、両帝の諱(名)を、寛成(ゆたなり、ひろなり)熙成(よしなり、ひろなり)等と読みを混同して同一人物と考えたことが一因と論じます。さらに、非即位説の証拠とされる「新葉和歌集」の序文と歌詞に「三世」と記されている問題については、三世は三代とは別で、代数でなく血統(祖父、父、子)を記しているのであり、長慶も後亀山も共に三世なので、長慶が即位しなかったことの証拠にはならないとしました。
八代は各説を論じながら、新資料の「耕雲千首」の奥書や、南朝史観では資料的な価値が低いとされていた北朝の「本朝皇胤紹運録」も用いて天皇在位説を展開します・・
さて、新葉和歌集の奥書には「斯集南朝慶寿院法皇御在位之時」とあり、またこの和歌集の奥書の応永三十年(1423)の条に、和歌の作者として、当時生存する五名の名前を記しています。
しかし、もし慶寿院が後亀山であれば、応永三十一年(1424)に崩御した後亀山は当時在世中なので、まず第一位にその名前を記すはずなのに、その名が記されていないことは不自然であり、これこそ、慶寿院が後亀山では無いという証拠であると論じます。そして、新葉和歌集は、弘和三年(1381)に時の天皇=慶寿院に奏覧されているので、当時の天皇が弘和三年まで在位していたことがわかり、その天皇が後亀山では無いのだから、長慶ということになるとします。
また、応永十四年(1407)の河内「観心寺文章」中で、相国寺十三世・海門承朝(承朝王)が、「長慶院御遺命」で、観心寺座主を決定したとあることから、海門承朝の父が長慶院であることが判り、新葉和歌集と照らし合わすと、長慶院が慶寿院と同一人物であることが判明すると論じます。
さらに、「天授三年七月十三日・・」で始まる「嘉喜門院集」の古写本の一つの袖書で、「内の御かた」の傍注に「長慶院法皇」と記されていることが見つかり、これも天授三年(1377)当時の天皇が長慶であるという裏付けになり、また、応永五年(1398)頃に成立した歴代天皇を列挙した「人王百代具名記」が、九十八代として「長慶寿院法皇」と記していることからも、長慶こそ慶寿院法皇で、その在位が確認できるとします。
また、後亀山上皇崩御の二年後、応永三十三年(1426)に、後小松上皇の命によって編纂された皇系譜「本朝皇胤紹運録」は、南朝の皇系譜としては最古の一つですが、北朝側から見た皇統のため、南朝の後村上・長慶・後亀山を公式に認めず歴代外として退けています。このため南朝史観からは資料的な価値が低いと無視されてきました。しかし、室町幕府が南朝歴代をどう見ていたのかがわかるものになっています。
この中で、後村上天皇は、「義良親王 偽主號南朝、於南方偽朝称君主、號後村上天皇」、長慶天皇は、「寛成親王 於南方自立 號長慶院」、後亀山天皇は、「熈成王 自吉野降後、蒙太上天皇尊号、號後亀山院」と記していて、後村上は南方の偽王朝の偽君主とされ、後亀山は親王としてではなく「熈成王」として即位に関して記さず、吉野で降伏したことを記します。そして、長慶は南方で自立していたと記します・・南朝を低く評価する北朝の記述ゆえに、北朝が長慶を南方で自立した天皇だったと認めているとも受け取れます。また、河内金剛寺所蔵のこの皇統譜の印信秘抄奥書に「大覚寺仙洞御兄依長慶院殿」と記され、大覚寺院(後亀山)の兄が長慶院(長慶)であるとする文章を八代は確認しています。
さらに、大正五年(1916)に発見された新資料が決定打となりました・・和歌の研究者・武田祐吉が歌人としても有名な佐々木信綱の蔵書中から、奥書のある「耕雲千首」の古写本を発見したのでした。
南朝の廷臣・花山院長親(耕雲)の和歌集「耕雲千首」は、「続群書類従」にも収められ研究家には広く知られていましたが、これまでの「続群書類従」本には奥書が無かったのです。
この元中六年(1389)正月に、花山院長親が十数年前を回想して記した「耕雲千首」の奥書に、「天授二暦仙洞(長慶院殿)並當今(大覚寺殿)今以此題令詠御」とあり、これを天授二年(1376)に宗良親王が記した「宗良親王千首」の「天授二年の夏の末つ方 内(天皇)春宮(皇太子)二御かた千首御歌・・」という文章と照合してみると、同じ和歌会を、二つの異なった時期に記していることがわかります。そして、ここから、元中六年(1389)当時の仙洞(長慶院殿)は、天授二年(1376)当時には天皇だったことがわかり、元中六年(1389)の當今=大覚寺殿(御亀山)は、天授二年(1376)には春宮だったことが判明したのでした。
こうして、これら諸資料から、明らかに長慶帝が後村上帝を継承して、弘和元年(1381)以降も在位していたことが判り、「新葉和歌集」の序文の「三世」とは、後醍醐、後村上、長慶を指すことが確認されました。
この新資料を駆使した八代の研究成果は長慶天皇在位論を決定的にし、宮内省での調査を経て、大正十五年(1926)十月二十一日、皇統加列の詔書発令によって長慶天皇はようやく正式に第九十八代の天皇として認定されたのでした。しかし、その陵墓問題は昭和に持ち越されました。(以下、「事典陵墓参考地(吉川弘文館)」参照)
さて、昭和十年(1935)から十九年(1944)にかけて、当時未だ確認できていない多数の皇族陵墓の考証、調査審議のために、当時の宮内省内に臨時陵墓調査委員会が設けられましたが、その最大の案件が長慶天皇陵でした。明治二十二年(1889)に最後に残っていた崇峻天皇陵等が治定されたことで、歴代全ての天皇陵が決定していましたが、そこに、新たに長慶天皇が追加公認された訳で、その御陵の治定は危急的な課題となりました。
前回に記したように、譲位後は南朝への協力を求めるために諸国を廻ったという長慶帝伝説は、全国各地に、多くの御陵候補地を生み出しました。その最も早い時期の候補地としては、青森県中津軽郡相馬村と和歌山県伊都郡河根村があり、長慶天皇の在位が公的に認定される以前の明治二十一年(1888)に長慶天皇を被葬者に想定して御陵墓伝説地に定められていました。
昭和十年(1935)の臨時陵墓調査委員会の諮問資料によると、この二箇所以外に七十数箇所の長慶天皇陵の候補地として上申されたものの中には、「考証上納得できるものが一つも無く、御陵考証上の手掛かりさえ発見することが至難と感ずる状態」で、最終的に全国から寄せられた御陵候補の上申箇所は、百数十箇所にも達しました。
こうした中、調査委員会は、現在の長慶天皇陵のある京都右京区嵯峨天龍寺角倉町に注目し、昭和十五年(1940)十二月、調査の結果として、この嵯峨天龍寺角倉の慶寿院址を長慶天皇の陵所とするのが最も妥当という見解を宮内省に答申し、同十六年(1941)九月に、宮内省はこの慶寿院址を保存すべき陵墓参考地とすることを決裁します。(「長慶天皇御即位の研究」で天皇の在位を証明した八代も、同書で、この慶寿院址の可能性が高いと記しています。八代の意見も後押しとなったのでしょう)
調査委員会は、有力な資料や候補地が無いことから、長慶帝側近者の事跡を研究し、そこから天皇陵の所在地を割り出そうとしたようです。そして、長慶天皇の皇子や近親者の多くが、少なくとも晩年には入洛して京都で亡くなっていることから、長慶帝も晩年は京都で崩御した可能性が高いと考えました。
そして、帝の皇子で、禅僧として相国寺や南禅寺の住持を務めた海門承朝(承朝王)和尚が、嘉吉三年(1443)に天龍寺塔頭・慶寿院で亡くなっていることに着目し、長慶上皇が「慶寿院」と呼ばれたのも、この慶寿院が帝の晩年の在所となり、その菩提所となったことから、同院の名を以って慶寿院と奉られるようになったと推定しました。しかし、慶寿院が長慶上皇の在所だったという証拠は何も無いために、当時から現在まで異論があります。(異論の代表的なものとして、以下のコメント欄で、村田正志の「長慶天皇と慶寿院」論を要約し掲載します)
こうして、調査委員会は、「この地が長慶天皇の陵所に擬する説があり、また、同所に長慶天皇の皇子・承朝親王の墓があることは疑うべからざる所であることから、慶寿院址の主要部分を一応陵墓参考地として保存するのが適当」という理由で、同十七年(1942)に下嵯峨陵墓参考地と名付け保存を決定しました。そして、その後の調査でも長慶天皇の埋葬地が結局判明しなかったため、「長慶天皇が住んだと考えられる最も由緒深い地という関係」で、下嵯峨陵墓参考地が御陵に定められたのでした。
但し、「由緒深い地」が御陵に決定されるまでには、遺骸の無い=埋葬地では無い「擬陵」の問題が多いに論議されたようです。
そして、景行天皇皇后・播磨稲日大郎姫命日岡陵(兵庫県加古川市)、崇峻天皇倉梯岡上陵(倉梯岡陵 奈良県桜井市)、安徳天皇阿弥陀寺陵(山口県下関市)、桓武天皇柏原陵(京都市伏見区)、二条天皇香隆寺陵(京都市北区)、仲恭天皇九条陵(京都市伏見区)、光明天皇大光明寺陵(京都市伏見区)といった、明らかに埋葬地では無い「擬陵」にもかかわらず御陵とされた例が持ち出され、制度上「擬陵」が容認されるかどうかという慎重な検討の結果、昭和十九年(1944)二月十一日に、この地を長慶天皇嵯峨東陵と決定し、同時に同域内に皇子の海門承朝(承朝王)の墓も定められました。
また、それに伴って、翌十二日に、青森県中津軽郡相馬村と和歌山県伊都郡河根村を陵墓参考地から解除するという通達が青森・和歌山両県知事に通牒されました。
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例えば、村田正志は、長慶上皇の崩御後、比較的早い段階から「長慶院」、「慶寿院」という二つの称号が資料上存在していることに着目し、応永十四年(1407)の河内「観心寺文章」中で、海門承朝(承朝王)が、「長慶院御遺命」と記していることから、慶寿院はこの時点では創建されず、「蕉富岡本新葉集」の奥書から、応永三十二年になって初めて資料上「慶寿院法皇」という名称が見出されることから、応永元年(1394)に崩御した長慶上皇の菩提所として、海門承朝が慶寿院を創建したのは応永年間後半とします。そして、「長慶院」とは、元々の天皇の住所に基づく称号で、長慶上皇の死後に、室町幕府を憚って「長慶院」の称号から、菩提所となった「慶寿院」の院号を用いるようになったと考えました。(長慶帝のことを「長慶院」と記しているのは、南朝関係者であることにも着目)つまり、嵯峨の慶寿院は、長慶帝の在世中に建てられていた寺ではなく(住居や終焉の地ではなく)、帝の崩御後に海門承朝が父帝の菩提所として創建した寺院であり、実際の帝の在所、終焉の地は別にあるとします。
2009/7/3(金) 午後 10:12 [ hiropi1700 ]
また、後醍醐天皇が、生前に延喜天暦の聖代」の醍醐天皇を理想として自らの号を定め、後村上天皇も同じく「延喜天暦の聖代」から村上天皇に因んで号が採られ、後亀山天皇も、大覚寺統の血統から亀山天皇に因んで諡号が定められたのに対し、長慶天皇のみは、なぜかこれらの例に当てはまらない点に着目します。元々「長慶」とは、中国の長楽府西院の禅院、長慶に由来すると考えられ、日本でも、これに因んで長慶寺、長慶院といった禅宗寺院が建てられました。そして、長慶上皇も、長慶院という禅宗寺院に居住したことから長慶天皇と称せられたと考えます。南朝の拠点の畿内南部(南北合一時も後亀山帝と共に入京した形跡が無いことからもその可能性が高い)で、南朝と最も関係深い禅宗・法燈派寺院の可能性が高いとし、和泉国大雄寺などの当時の大寺院内の一塔頭に、当時、長慶院という寺院があり、長慶帝はこの院で晩年を過し、或いは崩御したのではないかと推測しました。
2009/7/3(金) 午後 10:15 [ hiropi1700 ]
いい内容でした。ありがとう。なぜ、長慶陵に隣接して晴明さんのお墓があるのか不思議ですね?
2010/6/8(火) 午前 6:41 [ ゆたか ]
長慶天皇の謎めいた生涯や御陵については、ネット上でもあまり触れられていないので、今回は、かなり書き込んでみました。
また、御陵の傍の晴明の墓は、日本各地にある晴明の墓の中でも、一番信憑性の高いものとされていますが、室町時代頃以降に史書に初めて登場するために、それ以前のことは不明のようです。墓を祀った寺院があったと思われますが、色々調べても面白いのかもしれませんね。歴史の面白さはパズルを解く面白さに似ていますね。
2010/6/13(日) 午後 2:17 [ hiropi1700 ]