京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、右京区嵯峨天龍寺角倉町にある安倍晴明の墓所と、東に接する角倉稲荷神社の写真を掲載します。(尚、平安時代の陰陽師として知られる安倍晴明については、昨今のブームで非常に有名なので、このブログではごく簡単に書きたいと思います。)

さて、歴史上の多くの伝説化された人物と同様、資料上から伺える安倍晴明の実像はかなり地味なものといえます・・安倍晴明(921?〜1005)は、出自に関しても諸説あるようですが、通説では、大膳大夫安倍益材(あべのますき)の子として摂津国阿倍野(大阪市阿倍野区阿倍野)に生まれたといわれます。また、生年は、没年から推定して、延喜二十一年(921)と考えられています。
資料上に登場するのは、四十歳以降になってからで、天文得業生(陰陽寮に所属し天文道を学ぶ学生職)として不遇な年月を過した後、ようやく康保四年(967)、四十七歳で陰陽師となっています。数年後には天文博士にも任じられ、その後は、村上帝から一条帝に至る歴代天皇や藤原道長等の上級貴族に仕えて、従四位下まで昇進し、寛弘二年(1005)九月に八十五歳で亡くなったと伝えられます。


晴明が後世に伝説化した理由としては、古代中国の陰陽五行説等を起源とする陰陽道が、平安時代を通して、吉兆の判断や天体の観測、暦の作成を司る日本独自の陰陽道として、まず宮中で発展し、その後民間に浸透していく過程で、その大成者として晴明の名が広く喧伝され、その後、明治時代まで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖として奉られていったことが考えられます。
また、晴明が当時としては大変長命で、長命が稀な当時においては、それ自体が一つの才能、能力と考えられ珍重されたことも、その後の伝説化の原因の一つという説もあります。当時の人々は、高齢な晴明を、吉兆を予言、災異を除去する霊力に、益々磨きがかかったものと考え、歴代天皇や藤原氏にとって必要不可欠な人材となっていったのかもしれません。


さて、安倍晴明の墓(塚)と伝えられる場所は、全国に数多くあるようですが、その多くは、後世、民間の陰陽師達が、自分達の祖として晴明を祭祀した場所と考えられます。

京都市内では、かつて、晴明が鴨川の氾濫を鎮めるために五条橋(現松原橋)付近に建立した法城寺という寺院があり、その境内に晴明の塚があったという伝承があります。その後、法城寺は衰退し、江戸時代に晴明の塚と共に三条橋の東に移転し心光寺と改めたとも伝えられますが、この移転されたという晴明塚は、現在は存在しません。また、江戸時代には、かつて法城寺があった松原橋傍(宮川町付近)に、塚を祀る晴明社が建造され、晴明と阿弥陀如来を祀る清円寺という寺院もあったようですが、明治の廃仏毀釈で廃絶しています。また、東山区の伏見大路の浄土宗寺院・遣迎院の裏手に晴明の塚があったとされますが、これも明治の廃仏毀釈等で失われました。

そして、多くの晴明塚の中で、最も確証が高いとされるのが、今回の嵯峨天龍寺角倉町にある晴明墓所です。
この墓所は、晴明神社の飛び地境内になり、前にブログに掲載した長慶天皇陵の直ぐ南に接していて、墓所の東側は角倉稲荷神社の境内になります。(角倉稲荷神社の来歴等は不明です)

この晴明墓所は、相国寺第四十二世・瑞渓周鳳(ずいほうしゅうけい)の日記「臥雲日件録」に記載され、室町前期の「応永釣命絵図」にも描かれていることから、少なくとも室町時代には、この地に塚として祀られていたと考えられていて、資料上確認出来る最も古い伝承墓(塚)といえます。
元々は天龍寺塔頭・寿寧院境内(現在は天龍寺山内に移転)にありましたが、荒廃していたため、晴明神社がこの墓所を買収して昭和四十七年(1972)に、墓域を整備して新しい墓を建立しました。また、その後、晴明没後九百七十年(1975)の記念碑も建てられています。

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