|
京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町、商店やビルの立ち並ぶ三条通から一筋北(京阪三条から約三百メートル東)にあるのが、要法寺(ようほうじ ようぼうじ)です。
要法寺は、京都のメインストリートでもある東大路通や三条通から僅か一筋離れている所に位置していますが、これらの大通からまったく遮断されているので、交通量の多い三条京阪付近の市街地にこのような大寺院(境内は一万三千五百平方メートル)があるということはあまり知られていません。通りを一筋入ってみれば、思わぬところに・・という史跡密度の高い京都らしい風景といるかもしれません。
さて、要法寺は、山号を多宝富士山というる日蓮本宗の本山で、本尊は十界曼荼羅です。
この寺院は、元々、鎌倉時代末期〜室町に創建された上行院(じょうぎょういん)と住本寺(じゅうほんじ)という二つの寺院が、室町時代末期に合併して誕生しました。
尚、日蓮本宗では、宗祖日蓮(にちれん)、二祖日興(にっこう)、三祖日目(にちもく)、そして、要法寺の開基となった日尊(にっそん・にちぞん)を第四代としています。
要法寺の開基である日尊上人は、奥州出身の元天台僧で、奥州に布教に来た日目(日蓮の高弟日興の弟子)上人に出会って法華宗に帰依し、さらに日目と共に身延山に伸登って日蓮上人の高弟、日興上人に師事しました。しかし、正安元年(1299)秋、日興上人の重要な講義中に、舞い落ちる梨の葉に一瞬気を取られて集中力を欠いたことを激しく咎められ、師より破門されることになりました。日尊上人は一念発起して、諸国を修行行脚し、延慶元年(1308)に、京都の山城に法華堂(後の要法寺の起源でもあります)を開きました。
その後、日尊は、日興から破門を解かれ、正慶二年(元弘三年 1333)には、師の日目(にちもく)上人に従って京に向かいますが、その途中で日目が入寂(死去)したことから、その意志を継いで入洛し、翌年(1334)後醍醐天皇に天奏を行いました。そして、その功によって六角油小路に寺地を寄進され、延元元年(建武三年 1336)に六角油小路に、法華堂(後の上行院)を開きました。
やがて、上行院は弟子の日印(にちいん)上人に継承され、興国六年(1346)に、日尊上人は八十一歳で入寂します。一方、日尊の別の弟子、日大(にちだい)上人は、 正平十七年(1362)に、二条堀川(冷泉西洞院)に後の住本寺となる法華堂を創建しています。その後、比叡山衆徒による天文五年(1536)の天文法華の乱(天文法乱)によって、他の法華宗二十一本山と共に、上行院と住本寺も焼失し、堺へ避難しました。
天文十七年(1548)に帰洛が許可されて寺を再建することになりますが、この際、住本寺の日辰上人が、上行院と住本寺を合併することとなり、天文十九年(1550)、新たに五条坊門(綾小路)堀川に要法寺を建立しました。
その後、天正十一年(1583)に、豊臣秀吉の命により、京極二条(寺町二条)に移転し、さらに、宝永五年(1708)の大火で焼失して、東山三条の現在の地に移転、再建されました。宝暦九年(1759)の大火で再び焼失し再建されています。
その後、要法寺は、明治九年(1876)に、日蓮宗興門派(明治三十三年(1899)に宗名を本門宗(日蓮本門宗)と改称)に属し、昭和十六年(1941)に日蓮宗、顕本法華宗と三派合同して日蓮宗を結成した後、昭和二十五年(1950)に要法寺(末寺五十ヶ寺共に)は、日蓮宗から独立して日蓮本宗を称して現在に至ります。
現在の主な建物は宝暦の大火後の再建で、大きな本堂(間口(桁行)5間、奥行(梁間)5間)瓦葺)は、安永三年(1774)に建造されたもので、他に、本堂の西に釈迦堂、東南に鐘楼、東に庫裏・本坊等がありますが、いずれの建物も規模の大きなものです。他に伏見城の遺構とも伝わる表門、西門があり、境内塔頭は九寺を数えます。
また、要法寺といえば、慶長年間(1596〜1615)に、要法寺十五世・日性上人(1554〜1614)を中心に「沙石集」等数種の銅活字版の書物を刊行したことでも知られ、それらは「要法寺版」といわれて、近世初期の版本として文化史的にたいへん貴重なものとされます。
|