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映画館祇園会館の西約百メートル、祇園のネオン街の真ん中(京都市東山区新橋南通東大路西入ル祇園町北側)にある小さな神社が、観亀稲荷神社(かんかめいなりじんじゃ)です。
すぐ北西の元吉町(新橋花見小路西入ル元吉町)にある辰巳大明神が、芸妓さんの守り神、祇園白川・新橋のシンボル的な神社として京都観光ガイド等に採り上げられるのに対し、こちらの神社は一般的にはほとんど知られていないでしょう。(祇園新橋を除くと、鴨川と四条通・東大路通に囲まれた祇園町北側一帯は、普通のネオン街と化していて、京都らしさはまったくといって無いので仕方ありません。)
しかし、観亀稲荷神社は、江戸時代の膳所藩ゆかりの歴史ある神社で、火伏せ(防火)の神として祇園の歓楽街を火災から守っているようです。(以下、神社にある由緒書を大部分引用します)
さて、観亀稲荷神社の祭神は、加具都智命(かぐつちのみこと)宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)です。元々、祇園町のこの地域は、江戸時代初期、京都御所警衛を担った近江国膳所藩第二代藩主・本多俊次(ほんだとしつぐ 1595〜1668)が、万治二年(1659)十月に幕府より賜った膳所藩京屋敷跡になります。
この当時の屋敷の区域は、東は今の東大路、西は花見小路、北は新橋町通、南は富永町通りに囲まれた約四千三百五十坪だったということで、現在の観亀稲荷神社をほぼ中心とした祇園町北側周辺一帯ということになります。
また、その約五十年後の宝永六年(1709)に、当時の膳所藩主、本多康慶(ほんだやすよし 1647〜1718)は、郡山、淀、 亀山(今の亀岡)藩と共に、将軍から京都御所の火の番(火元管理)のため京詰を命令され、この四藩が臨月交代で幕末まで御所の警備をしました。
さて、観亀稲荷社は、この康慶の子・康命(やすのぶ 1672〜1720)が、御所の火の番である膳所藩が火を発しては恐れ多いから、火伏せの神・遠州秋葉山の秋葉権現を藩邸に勧請するようにという父康慶の遺言によって、享保三年(1718)に、膳所藩内の茶臼山(ちゃうすやま)に秋葉権現を勧請し、更にその分霊を当地に移祀したものということです。
また、神社の創建当時は、この付近は竹薮で覆われていたため、これを伐り開くと、亀が出て歓んだということから、観亀、歓亀または歓喜神社と称し、その後、(恐らく稲荷神を合祀したために)観亀稲荷社と称するようになりました。そして、現在も飲食街の真ん中という場所がら火伏せ(防火)の神として崇敬者が多いということです。
また、現在の社地は、元々の膳所藩京屋敷の中庭に当たるとされます。
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