京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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祇園の八坂神社の東、観光名所としても知られる円山公園内の緩やかな坂を登っていくと、やがて公園東端の丘上に一つの寺院が見えてきます・・これが安養寺(あんようじ 京都市東山区八坂鳥居前東入ル円山町)です。

安養寺は、法然・親鸞両上人の念仏発祥の地、「吉水草庵」旧跡として知られる寺院です。
また、円山公園の「円山」という名前は、安養寺の山号「慈円山(じえんざん)」の「慈」を外して命名されたものです。この由来からもわかるように、安養寺は、かつては円山公園の東北一帯を境内とする大きな寺院でもありました。(主に安養寺境内の由緒書等を引用します)


さて、安養寺は、正式には、慈円山大乗院安養寺という時宗寺院です。
元々は、平安時代初期の延暦年間(782〜806)に、桓武天皇の平安遷都の際、都の鎮護のために、伝教大師最澄が創建した天台宗寺院と伝えられます。その後は、天台門跡として知られる青蓮院に属し、平安時代末期になって、法然上人の浄土宗布教の中心地「吉水草庵」「吉水禅坊」として日本仏教史にその名を留めます・・


さて、法然上人は、十三歳で比叡山に登って十五歳で出家受戒し、東塔西谷の皇円阿闍梨のもとで三年間学びました。その後、西塔黒谷の叡空上人の門下となり一心に勉強を重ね、またその間、南都仏教をも学びましたが、二十数年間たっても、真の魂の救済方法を得ることは出来ませんでした。
承安四年(1174)、四十三歳となった上人は、ある時、唐の善導大師の「観無量寿経疏」中から、「 一心専念弥陀名号、行住往座臥不問時節久近、念々不捨者是名正定之業、順彼仏願故(常に南無阿弥陀仏と名号を称え離れないのが仏道修行する者の勤めである。これこそ弥陀の本願に叶う道である)」という文を発見しました。そして、従来の南都諸宗、真言、天台の難解な経典や厳しい修行の道を捨て、「南無阿弥陀仏」の念仏をひたすら信じ唱える専修念仏立教開宗の信念を得ました。こうして、法然上人は、叡山を下り、最初に西山の広谷(粟生光明寺)に住んだ後、この東山吉水に移りました。
そして、承元元年(1207)、七十五歳の時、弟子の住蓮、安楽坊の騒動が後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、専修念仏弾圧によって讃岐国に流罪になるまでの三十数年間、吉水の草庵で布教伝道を行いました。


法然上人のもとには、やがて貴貧を問わず救済を求める多くの人々が集まります・・
公家では関白九条兼実、武家では熊谷直実(熊谷蓮生房)、僧侶では、その後の浄土宗の発展に努めた多くの高僧・・浄土宗第二代・聖光房弁長上人(鎮西上人)、浄土宗総本山知恩院の基礎を築いた勢観房源智上人、「白川上人」こと法蓮房信空上人、西山浄土宗の祖・善恵房証空上人等々、中には、盗賊出身の阿波の介、耳四郎こと天野四郎、遊女・白拍子も集まり、草庵は次第に発展して、中・西・東と三坊に拡張され吉水の禅坊として知られるようになりました。
また、建仁元年(1201)、当時二十九歳の親鸞上人も、比叡山から六角堂の観世音菩薩に百日参詣し、その霊告を受けて法然上人の門下となりましたが、時に法然上人六十九歳でした。



ここで、吉水草庵(吉水禅坊)の位置についてです・・
法然の時代には、現在の円山公園を中心に、北は知恩院三門前から南は雙林寺(双林寺)におよぶ山麓一帯は、「真葛ケ原」と呼ばれ、真葛や薄、茅、萩等が一面に広がる原野でした。吉水は、この真葛ケ原の東北の隅に位置していて、その北方には、比叡山東塔の住坊、青蓮坊の里坊にはじまる天台門跡青蓮院があり、当時は三条白川坊と呼ばれていました。
現在は、青蓮院の南には、浄土宗総本山・知恩院の広大な境内がありますが、法然上人入滅後にその御廟(知恩院勢至堂付近)に創建された知恩院は、もちろん当時はまだ存在せず、現在の知恩院境内付近には、青蓮院に属する天台系の塔頭寺院等(安養寺の前身も含まれると思われます)があったようです。

時代は飛びますが、浄土宗ホームページによると、室町時代の応永年間(1394〜1427)頃の古地図には、当時、現在の知恩院御影堂(本堂)付近一帯にあった白毫寺(びゃくごうじ)に隣接して、安養寺が画かれているということです。(尚、知恩院は、室町時代後期まで、現在の知恩院勢至堂(知恩院境内の東端)を中心とした小寺院に過ぎませんでした。)
この白毫寺という寺院は、聖徳太子自作の阿弥陀像を祀ることから太子堂と呼ばれていた寺院で、江戸の慶長年間(1596〜1615)に知恩院が大きく拡充されると、寺域を奪われて移転縮小しました(現・河原町五条西入る本塩竈町)
安養寺も、知恩院の発展によって寺域が縮小しますが、室町時代の古地図では、安養寺の寺域には、大懺法院、吉水東新坊、吉水中坊、吉水西坊といった建物が記載されていて、このことからも、吉水草庵(吉水禅坊)が安養寺であることが明らかであるいうことです。


さて、承元元年(1207)の専修念仏弾圧によって讃岐国に流罪となった法然上人は、建暦元年(1211)にようやく帰京できましたが、吉水の草庵は荒廃してしまっていたため、現在の知恩院勢至堂の地「大谷禅房」を住居とします。そして、翌建暦二年(1212)正月に、八十歳で入寂しました。(大谷禅房の傍に法然上人の墓所が設けられ、やがてこの墓所を中心に現在の知恩院へと発展していきます。)

一方、吉水一帯は、法然上人が流罪となり、念仏布教停止となった後は、関白九条兼実の弟、青蓮院第三世門主の慈鎮(じちん 慈円=じえん)和尚が管理するところとなり、慈鎮(慈円)和尚は吉水の堂宇を整備して安養寺の中興と呼ばれます。
「愚管抄」の著者としても知られる慈鎮(慈円)は、天台座主を四度務めた旧仏教界の重鎮ですが、その一方で、新興宗教である浄土宗の祖法然や、その後の浄土真宗の祖親鸞にも寛大な所があり、延暦寺の抑圧から庇護する姿勢を見せました。

この青蓮院門跡の慈鎮が、南の吉水の地に一時移ったのは、後鳥羽上皇が、三条白川坊(青蓮院)の地に、最勝四天王院という寺院の建立を計画したために、寺域を明け渡す必要があったためでもありました。後鳥羽が最勝四天王院を建立した目的は、鎌倉幕府の将軍実朝の調伏のためといわれ、承元元年(1207)竣工しますが、その後、倒幕計画の進展した承久二年(1220)に棄却されました。
元久二年(1205)頃から、慈鎮は、三条白川坊(青蓮院)の吉水への移転を準備したようで、同年、三条白川坊の大懺法院を、吉水に移転再建し、建永元年(1206)には、吉水に熾盛光堂を造営しています。そして、吉水禅坊を「慈円山大乗院安養寺」と号しましたが、これが現在の安養寺の寺名の始まりになります。

その後、安養寺は、次第に衰退しますが、室町時代の至徳年間(1384〜87)に、国阿(こくあ)上人が、東山方面に布教した際、当時の住職の懇請によって再興し、以後時宗寺院となりました。(尚、国阿上人は、安養寺の他にも、正法寺、雙林寺といったこの地域の寺院を創建再興したことで知られます)また、文化史的には、室町時代中期の連歌師、柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)の東山千句興行が安養寺で行われています。

その後、江戸時代に、安養寺は幕府の庇護を受けて最盛期を迎えます。
当時は、慈円山を「円山(まるやま)」と称し、境内には、也阿弥、眼阿弥、重阿弥(赤穂浪士が討ち入りを決定した円山会議を開いたということで知られます)、左阿弥、連阿弥、正阿弥という寺坊六ヶ寺と本坊を構えた堂々たる山寺だったようです。
 これら六阿弥は各々美しい庭園を持ち、眺望に富む楼閣を構えていたことから、次第に、遊山客に席を供して湯茶の接待をする行楽地として栄えることになりました。境内では様々な催しものが行われ、春秋の花見時には多数の文人庶民が訪れ、酒を飲んで花を鑑賞して楽しんだことが当時の絵図にも画かれています。
また、江戸時代末期になると、安養寺境内の六坊にかがり火が焚かれ、多くの人々がこの「祇園の夜桜」見物に訪れたと伝えられ、この頃から、既に円山(現・円山公園)の花見は全国的に知られるようになっていました。


さて、その後、安養寺は、明治維新の廃仏毀釈で境内地を失って六坊が廃寺となり、明治九年(1876)には円山公園の造成のためにさらに寺地を没収されました。
一時は重阿弥と連阿弥を合わせて、斬新な洋風旅館として「也阿弥ホテル」が建てられますが、明治三十二年(1899)三月の大火で全焼するなどして、次第に他の本坊も衰退消失し、六坊の内では、左阿弥のみが高級料亭として存続することになりました。そして、現在、安養寺は本尊・阿弥陀如来像を祀る本坊、弁天堂(吉水弁財天堂)、大聖歓喜天を祀る雨宝堂を残すのみとなっています。



さて、安養寺正面の石段を登ると、「真葛原吉水庵室」と書かれた石碑が建つ山門があり、さらに石段を登った所に、本尊阿弥陀如来像を祀る本坊や庫裏等があります。また、本坊左には、鎌倉時代の阿弥陀石仏が安置されています。そして、さらに狭い石段を登ると、大聖歓喜天を祀る雨宝堂があります。

一方、飛び地境内(門前から約五十メートル南)には、吉水弁財天堂があります。
技芸上達の信仰が厚い円山吉水弁財天尊、及び裏堂に弁財天の使者とも伝わる白蛇に変じた宇賀神将尊を祀りますが、秘仏で六十年毎の巳年に開帳されるということです。この弁財天堂は、慈鎮和尚が建久年間(1190〜98)、安養寺境内の名水「吉水」の畔に、安養寺の鎮守として比叡山から弁財天尊を勧請したものと伝えられます・・尚、この地が吉水と呼ばれたのは、境内から霊水が涌き、よい水だったことから、「吉水」と称されたと伝わります。

「都名所図会」等によると、この吉水弁財天は、室町時代に源照という琵琶法師が、技芸上達をこの弁財天に祈願した所、琵琶の妙曲を奏するという評判が広まり、その後、後小松上皇の恩寵を蒙って盲人としてはじめて紫衣を賜りました。源照は、この御礼として弁財天堂を建立したので、紫衣弁財天と呼ばれるようになったと伝わります。また、鎌倉時代の刀工、粟田口吉光は、弁財天の合槌を得て、この吉水の名水で名刀を打ち有名になったとされ、今も御堂の下に、この時、吉光が用いた鉄砧(かなとこ)石が残っているということです。
また、弁財天は、七福神の中で唯一の女神とされ、容色麗しく、音楽・技芸・福徳・財宝その他様々なものを授け、弁舌の才や知恵を与え、怨敵を除く等様々な御利益を授けるとされますが、恋愛良縁にも御利益があるとされてきたことから、祇園には、古くから"恋の叶わぬときは 円山辨天様の池の井守のつがいを採って 真っ黒黒焼き大和のほうらく・・・想う方にふりかけしゃんせ、この恋叶います。"という唄が伝わっているということです。

また、弁天堂の周辺には、法然上人も使ったといわれる慈鎮和尚閼伽の井戸や円光大師伝法の地の碑柱、慈鎮和尚多宝塔、多層塔等があります。この閼伽の井戸の水は、青蓮院で灌頂法会が行はれる際に、道中に高張提灯を建てこの地まで水を汲みに来ていたと伝わり、また、維新以前は、知恩院や東大谷からも正月の仏前の初水として年々汲みに来ていたということです。
特に注目されるのは、弁天堂の東北隅にある慈鎮和尚宝塔です。高さ約二百四十四センチ、塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦二仏並座する鎌倉時代初期の名品として国の重要文化財に指定されています。

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京都新聞の親鸞を読んでいて、吉水が気になっていました。
安養寺の場所もお写真を見せて頂いて、是非出掛けてみたいと思いました^^
何時も詳しく載せて頂き、有難うございます。

2009/10/8(木) 午後 9:56 takura

ご訪問ありがとうございます。青蓮院〜知恩院〜八坂神社〜高台寺と〜清水寺いった観光のメインストリートに対して、東の山裾にある安養寺や長楽寺、双林寺、正法寺、清閑寺等は、裏通りのような感じでしょうか。安養寺付近は観光客も少なく、割とゆっくりできますね。

2009/10/9(金) 午後 4:51 [ hiropi1700 ]


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