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三条通蹴上にある「ウェスティン都ホテル京都」の西、京都市東山区粟田口鍛冶町にある佛光寺本廟(ぶっこうじほんびょう)は、真宗佛光寺派本山の佛光寺(京都市下京区高倉通仏光寺下る新開町)の別院、宗祖親鸞聖人御廟所を中心とした佛光寺の墓所(東山廟所とも)になります。
佛光寺については、前にブログパート1に採り上げましたが、一応再掲載しておきます・・・
下京区高倉通仏光寺下る新開町にある佛光寺(ぶっこうじ)は、山号を渋谷(汁谷)山(じゅうこくさん)という真宗佛光寺派の本山で、創建は、浄土真宗の開祖(宗祖)・親鸞上人が山科(京都市山科区)に結んだ草庵に遡ると伝わります。
鎌倉時代初期の承元元年(建永二年 1207)、「承元の法難」によって、浄土真宗の開祖(宗祖)・親鸞上人は、三十五歳の時に京都を追放され、越後国(新潟県)へ流刑にされました。この「承元の法難」は、直前の年号から「建永の法難」とも呼ばれ、比叡山延暦寺や奈良興福寺といった旧仏教勢力の圧力によって、浄土宗開祖・法然上人を中心とする専修念仏教団が弾圧された事件です。
念仏を唱えることで、全ての人々が平等に救われると説いた法然上人の教えは、旧仏教の側から見れば、自分達の教義を否定するものと受け止められ、念仏が新興階級の武士や農民、またこれまでの旧仏教の教義では救いの対象から漏れていた女性達に広く受け入れられ広まっていくことに脅威を感じました。旧仏教寺院は専修念仏の停止を朝廷や鎌倉幕府に訴えました。特に、元久二年(1205)に、興福寺の僧・解脱貞慶上人が、法然上人らの弾圧を願い出た「興福寺奏状」は弾圧のきっかけとなりました。
また、前に安楽寺(左京区)を採り上げた時に書きましたが、「承元の法難(建永の法難)」の直接の原因となったのは、法然上人の弟子の僧・住蓮と安楽の六時礼讃声明を聴いて感激した後鳥羽上皇の二人の女官(松虫姫と鈴虫姫)が、上皇の留守中に出家してしまったという事件でした。自分に無断で出家したことを知った上皇は激怒し、法然門下の教団に弾圧を加えました。吉水道場の閉鎖や念仏布教の禁止はもちろん、住蓮と安楽は死罪、法然上人は土佐へ、親鸞をはじめとする主な弟子達も流罪となりました。
その後、親鸞上人は、建暦元年(1211)に赦免され、翌二年(1212)に京都に戻って、山科の地に草庵を結んだと伝えられ、これが佛光寺(興正寺も)の始まりということです。そして、時の順徳天皇より「興隆正法寺」の勅額を賜わって、興隆正法寺(興正寺)と号しました。
その後、安貞元年(1227)に親鸞上人は興隆正法寺(興正寺)を弟子の二世・真仏上人に任せて関東布教を始めました。(但し、寺伝以外の資料では親鸞が、関東布教の前に京都に戻って「興隆正法寺(興正寺)」を創建したことは証明されていないため、後世、教団を正当化するための伝説であるとする見方もあるようです。)
その後、「興隆正法寺(興正寺)」は、三世源海、四世了海、五世誓海、六世明光の各上人が継承し、鎌倉時代末期になって、中興の祖となった第七世・了源上人が、教化活動の拠点を京都に置いて真宗教団を組織し、西日本一帯への布教活動を行いました。(親鸞創建伝説の一方、史実的に山科の興隆正法寺(興正寺)の事実上の創建者は、了源上人といわれています。)
そして、元応二年(1320)に、寺院を山科から東山の汁谷(しるたに、しぶたに 現・方広寺、京都国立博物館付近)に移しました。またこの頃に寺号を「佛光寺」と改めています。この、佛光寺という寺名の由来については以下のような物語が伝えられます・・・ある時、後醍醐天皇が南の方角から金色の光が差し込んでくるという夢を見て、付近を探させた所、賊によって盗まれていた興隆正法寺(興正寺)の阿弥陀如来像が発見されました。この仏像のことを聞いた了源上人が、阿弥陀如来像の座光を持って宮中へ参内しました。仏像は座光にぴたりと納まったので、後醍醐天皇も喜んで仏像を渡し、寺号を「阿弥陀佛光寺」を略して「佛光寺」と改めさせたと伝えられます。またこの時に、後醍醐天皇の勅命により、都から遠い山科の地から、東山汁谷の地に移して勅願所としたとも伝えられます。
それ以降、佛光寺は、了源上人の活躍もあって、元亨元年(1321)に覚如上人が親鸞聖人の墓所・大谷廟堂を寺院として創建した同じ浄土宗の本願寺よりも、遥かに大きな勢力を持っていました。しかし、了源上人は、東海地方への布教の途中で、建武二年(1335)十二月に伊賀(三重)の七里峠で賊に襲われて四十二歳で殺害されました。(本願寺その他対立する諸宗教集団による暗殺説もあるようですが)その後、了源の長男、源鸞が第八世を継承しますが、その死により了源上人の裏方(妻)・了明尼公(りぉうみょうにこう)が第九世を継承しました。南北朝時代に女性が一山の門主の地位に就くということは、画期的な出来事だったようです。(尚、その後、幕末から明治にかけて、もう一人の女性、第二十七世・真意尼公(しんにこう)が、元治の禁門の変の兵火で焼失した佛光寺の再建に尽くしました。)
こうして、室町時代には勢力を拡大した佛光寺に対し、比叡山延暦寺による弾圧も強まり、さらに応仁の乱で佛光寺は諸堂を焼失し、以降寺勢は次第に衰退していきます。一方、それまで小さな勢力だった本願寺には、現在の本願寺教団の基礎を築いた中興の祖、蓮如上人が登場して、精力的な布教活動を行って勢力を急速に拡大しました。
そして、佛光寺と本願寺の力関係が逆転する事態が起きます・・文明十三年(1481)に、佛光寺の第十三世光教の後継者である経豪上人が、宗派内の対立から、当時の仏光寺四十八坊のうち、四十二坊を率いて蓮如上人に帰依して従ったのです。そして経豪は蓮如の「蓮」の一字をもらい受け、蓮教と名乗り、山科西野に佛光寺の旧名「興正寺」を寺号とした寺院を再興しました。これが現在、西本願寺の南に接する真宗興正派本山の興正寺です。
一方、末寺わずか六坊となってしまった佛光寺は、経豪(蓮教)の弟・教誉上人を継承させ十四世としました。佛光寺教団が分裂したことで、その後は本願寺が大きな勢力を持つ時代となっていきます。尚、その後、天正十四年(1586)に、佛光寺は豊臣秀吉によって五条坊門(現在地)に移り今日に至ります。
さて、佛光寺本廟に戻ります・・・
佛光寺本廟は、佛光寺本山第二十世随如が、江戸時代の元禄年間(1688〜1703)に、本山から廟堂を移して創建したとされます。
明治時代中期に建てられたという唐門を潜ると、宗祖親鸞上人の遺骨を納める本堂と親鸞の絵像「御真影」が安置される廟堂へと石畳が続き、左には納骨堂の光寿堂があります。また、右には御茶所や鐘楼があり、鐘楼の向こうには墓所が広がります。
宗祖親鸞の七百五十回大遠忌(2011)の記念事業として平成十五年(2003)から六年間にわたる改修工事が行われ、本山等と共に、この本廟でも御廟の屋根や厨子が修復されました。
また、その境内には「三条小鍛治宗近の古跡」として、「宗近の井跡」を示す石碑があります。
三条小鍛治宗近宗近は、平安中期の刀匠で姓は橘といい、信濃守粟田藤四郎と号し、東山粟田口三条坊に住んでいたので三条小鍛治と称したとも伝えられます。名刀小狐丸をはじめ多くの刀剣を造ったとされますが、現存するものとしては三日月宗近などがあり、祇園祭の長刀鉾の鉾先の長刀は宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し、祇園社に奉納したものといわれるということです。
このあたり一帯は、かつて宗近の邸宅があったと考えられ、付近には粟田神社境内に鍛冶神社が、また、三条通挟んで合槌稲荷神社(ブログ参照)もあります。そして、江戸時代の「拾遺都名所図会」によると、この佛光寺本廟には、宗近が刀剣を鋳るときに用いた井水があったと記されています。(「都名所図会」では、知恩院の山門の傍と記します)
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