京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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地蔵院(竹の寺)

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かなり前にブログパート1に掲載した私の好きな地蔵院(竹の寺)を、写真を増やして再掲載します。

京都で「地蔵院」というと、これまでにブログに採り上げてきた「椿寺」(地蔵院 北区一条通西大路東入る大将軍川端町)や老枝垂桜が美しい地蔵院(=地蔵禅院 京都府綴喜郡井手町)も注目したい寺院ですが、観光名所として知名度が高いのは、今回の「竹の寺(地蔵院)」だと思われます。
このお寺は、美しい竹の参道や名庭「十六羅漢の庭」で知られ、室町時代の管領・細川頼之の建立、一休禅師ゆかりの寺院でもあって歴史的な話題にも事欠きません。秋には椛と苔や竹林の対比が美しい隠れた紅葉の名所にもなります。

ただ、この地蔵院(京都市西京区山田北ノ町)、人気のある鈴虫寺(華厳寺)から歩いて数分程度の距離にあるにもかかわらず、観光シーズンでもそれほど拝観者は多くありません。嵯峨野嵐山の小寺に勝るとも劣らない京都らしい竹や苔の美が凝縮されたようなこの寺院が、鈴虫寺(華厳寺)を訪れる多過ぎる程の観光客から無視されていることを残念にも思いますが、このお寺が好きな方は、観光客が少なくて癒されるので、今のままの方が良いというところかもしれません。観光寺院と言うにはやや殺風景な方丈には、細川護熙元首相が細川家由緒のこのお寺を隠れ寺と呼んで何度も訪れているという週刊誌の記事が貼られていますが、確かに他人に教えたくない、京都通好みの小さな隠れ寺といった雰囲気もあります。



さて、地蔵院は、山号を衣笠山(きぬがさやま)という臨済宗系の単立寺院で、松尾の谷で地蔵菩薩を祀ることから「谷の地蔵」、美しい竹林に囲まれていることから「竹の寺」とも呼ばれています。夢窓国師を開山として、伝教大師最澄の作と伝わる延命安産のご利益のあるという地蔵菩薩像を本尊としています。
元々、この地には、鎌倉時代初期の歌人で、衣笠内大臣(きぬがさないだいじん)と呼ばれた藤原家良(ふじわらのいえよし 1192〜1264)の山荘がありましたが、その後、南北朝時代の貞治六年(1367)または応安元年(1368)に、室町幕府の管領細川頼之(ほそかわよりゆき 1329〜92)が尼僧妙性(みょうしょう)から付近の土地を買い取って、自身が深く帰依していた碧潭周皎(へきたんしゅうこう 宗鏡禅師)に寄進して寺院を建立しました。これが現在の地蔵院で、碧潭周皎(宗鏡禅師)は、自身の恩師で、西芳寺(苔寺)や天龍寺の作庭等で有名な夢窓疎石(むそうそせき夢窓国師)を開山に勧請して、自身は第二世となりました。



さて、地蔵院の開基となった細川頼之(ほそかわよりゆき 1329〜1392)についてです・・
細川頼之は、室町幕府二代将軍足利義詮が亡くなる際に、管領として幼少の三代義満の補佐を託され、以後十二年に渡って将軍職代行として幕政を主導し、室町幕府の基礎を築いた人物でもあります。
頼之は、足利氏の一門になる細川家の嫡流、細川京兆家(頼之の養嗣子となった弟・頼元が、右京大夫に任ぜられ、以後、代々の細川氏惣領家が右京大夫を踏襲したことから、その唐名で京兆家と呼ばれました)の出身で、元徳元年(1329)、細川頼春(ほそかわよりはる)の子として三河国(愛知県)に誕生して幼名は弥九郎といいました。

細川家は、鎌倉時代末期までは、足利氏庶流の三河国の一御家人に過ぎませんでしたが、その三代目に当たる公頼(きみより)の子、和氏(かずうじ)、頼春(よりはる)、師氏(もろうじ)の三兄弟や、その従兄弟(細川頼貞(よりさだ)の子)に当たる顕氏(あきうじ)、直俊(なおとし)、定禅(じょうぜん)兄弟らが、南北朝時代の戦乱で足利尊氏を支えて活躍したことで、やがて一大勢力へと成長していきます。
建武の親政で阿波守に任じられた一族惣領の和氏の死後(興国三年(康永元年 1342)死去)は、弟の頼春や、従兄弟の顕氏(その弟達は兄に先立って前後して死去)が、細川家一門の中心となって南朝と戦い、観応の擾乱でも活躍します。頼之も、父頼春に従って早くから戦場にあったようで、頼春が正平七年(文和元年 1352)四月に南朝軍との戦いで戦死した際は、一旦退却して軍を糾合した顕氏の指揮下で阿波軍を率いて南朝軍と交戦しています。


さて、正平七年(文和元年 1352)、頼春の戦死に続いて顕氏も病死したことで、細川一門は、次世代に当たる、和氏の子の清氏(きようじ)や頼春の子の頼之(よりゆき)を中心に、顕氏の子の繁氏(しげうじ)、師氏の子氏春(うじはる 父の淡路守護・師氏は、正平三年(貞和四年 1348)に死去))等に率いられることになります。
次世代の中心として幕政を担うことになったのは、一門の惣領となった清氏(きようじ)で、伊賀国や若狭国の守護を歴任し、正平十三年(延文三年 1358)の将軍尊氏の死後、仁木頼章(にきよりあき 高師直の死後に執事に任命)に代わって、将軍義詮から新たな執事職に任命され幕政を指導する立場となります。この間、頼之は、父の領地を継承して阿波国や伊予国守護も兼ねて南朝軍の抑えを任されて四国を平定し、その後、九州に勢力を築いていた足利直冬が中国地方に転戦すると、中国諸国を統轄して西国将軍として将軍職軍事権を代行し、直冬勢力を弱体化させました。

一方、幕府内では、執事となった従兄弟の清氏が、畠山国清と結んで、仁木義長(前執事の仁木頼章の弟)を失脚させるなど勢力を拡大していましたが、正平十六年(康安元年 1361)九月に、佐々木道誉や斯波高経等との対立から失脚し、従兄弟の氏春等と共に南朝に降ります。十二月、清氏は南朝の楠木正儀らと京都を占領するなどしたため、正平十七年(貞治元年(1362)、頼之は、将軍義詮から清氏討伐を命じられて讃岐国で清氏を戦死させ、氏春を降伏させました。

その後、正平二十二年(貞治六年 1367)頼之は、将軍義詮が亡くなる直前に、管領として幼少の三代義満の補佐を託されて幕府を主導します。頼之は、内政では、正平二十三年(応安元年1368)に、天皇公家や寺社の荘園を保護する応安の半済令(応安大法)を施行し幕府の領地支配を固め、一方、建徳元年(応安三年 1370)頃、九州に今川了俊を派遣して征西府の懐良親王ら南朝勢力の掃討を推進し、畿内南部の南朝とは講和交渉を行って、楠木正儀を北朝へ帰属させるなど南朝弱体化に成功します。
しかし、天授五年(康暦元年 1379)閏四月、反頼之派の守護大名・斯波義将や土岐頼康らの圧力から将軍義満は、頼之を罷免します(康暦の政変)
失脚した頼之は出家しますが、頼之の弟で養子の細川頼元の赦免要請によって、元中六年(康応元年 1389)に頼之は赦免となり、その後、管領・斯波義将が元中八年(明徳二年 1391)に管領を辞して、四月に頼元が管領となると、宿老として幕政に復帰し、元中九年(明徳三年 1392)三月、六十四歳で亡くなりました。



さて、創建以降、地蔵院は細川家の庇護を受けて次々と伽藍を建立しました。
室町幕府の重臣細川氏由来の寺院として朝廷の信仰も厚く、北朝系の三代の天皇(崇光、後光厳、後円融)の御願寺にも準ぜられて京都五山と同様の特権を与えられ、多くの寺領が寄進されたということです。こうして、最盛期には、境内十七万平方メートル、境内塔頭三院、末寺二十六ヵ寺、諸国に領地五十四ヵ所を有する一大禅刹となったということです。

また、地蔵院は、一休宗純禅師が幼少期に修養した寺院としても知られます・・一休禅師は、応永元年(1394)、後小松天皇の皇子として、地蔵院の近くの民家で生まれたとされ、その後、地蔵院で過ごし六歳の時に、安国寺に移って本格的な修行に入りました。地蔵院の拝観の栞によると、この事は、禅師の弟子、済岳紹派の筆記になる「祖先詩偈」に、 「休祖(一休禅師)は初め嵯峨地蔵院に御座也」とあることによって明らかということです。その後、禅師は京都、堺などで布教して大衆を教化し、大徳寺にも住した後、晩年は山城薪(京田辺市)の妙勝寺を復興して酬恩庵とし、文明十三年(1481)に八十八歳で示寂しました。

その後、地蔵院は、応仁・文明の乱(1467〜77)によって諸堂悉く焼失します。そして、その後復興されますが、天正十三年(1585)の天正大地震で再び被災し、江戸時代初期には塔頭の龍済軒(りょうさいけん)と延慶庵(えんけいあん)がわずかに残る状態となりましたが、皇室や細川家の援助もあって、ようやく江戸時代中期の貞享三年(1686)とも)第十四世古霊和尚によって方丈が再建され、宝永元年(一七〇四)頃には寺観が整えられたと伝えられ、明治時代に、龍済軒・延慶庵の両寺を合併して現在に至っています。



さて、風情ある総門から、地蔵院の一番の魅力でもある、勢い良く空に伸びている高い竹林の参道を進んでいくと、正面に本堂、その右に庫裏や方丈があります。 
現在の本堂(地蔵堂)は、昭和十年(1935)に再建されたもので、堂内には、伝教大師最澄の作と伝わる本尊の延命安産地蔵菩薩を中心に、右に開山夢窓国師、碧潭周皎(宗鏡禅師)、左に細川頼之の木像を安置しています。
また、 本堂南には、碧潭周皎(宗鏡禅師)と細川頼之の墓石と伝えられる自然石「細川石」が並んで安置されています。文中三年(応安七年 1374)、碧潭周皎(宗鏡禅師)が示寂して地蔵院に埋葬された後、元中九年(明徳三年 1392)細川頼之もまた遺言によって、深く帰依した碧潭周皎(宗鏡禅師)の墓の傍に葬られたと伝えられているもので、自然石の印象的な墓石です。

また、本堂の右手にある方丈(京都市登録有形文化財に指定)は、江戸時代の貞享三年(1686)第十四世古霊和尚が、当時残存していた数少ない建物・・塔頭の延慶庵の方丈として建立したものです。その後、幕末の嘉永七年(1854)頃に西面に仏間が増築され、明治三年(1870)に仏間の床回りが修理され、昭和二年(1927)に大修理が行われていたということです。内部は八畳三室と六畳の仏間が一列に並んで、正面は広縁が通っています。そして、この縁先に庭園が広がります・・

この方丈庭園は、通称「十六羅漢の庭」として知られる名庭で、京都市の名勝に指定されています。(残念ながら写真撮影禁止)独特の意匠のこの庭は、作庭に関する記録が無いことから、作庭者・作庭年代は不明ですが、おそらく貞享三年(1686)に方丈が再建された際に、整備されたものと考えられます。また、元々は、碧潭周皎(宗鏡禅師)の作で、細川頼之遺愛の庭という伝承もあります。

築山や池泉等を設けない平庭形式の枯山水庭園で、庭全体に約三十個の石が様々に配置され、石の一つひとつが十六羅漢の修行の姿を表しているとされることから、「十六羅漢の庭」と呼ばれています。また、地蔵院の羅漢は、男山八幡宮(石清水八幡宮)に願をかえているので、その方向(左手後)に少しずつ傾いているということです。緑豊かな庭で、杉苔の中に、楓や五葉松、名椿「胡蝶侘助」等椿が植えられていて、特に春の椿の頃に風情のある庭園です。(尚、夏場は蚊が多いので注意)

また、地蔵院には、金剛界門、衣笠山、来鳳軒、枯木堂、観音殿、地蔵宝殿、尺竜谷、尸陀(しだ)林、不動井、興雲洞の「地蔵院十境」が伝わっていて、かつての境内を想像させます。また、竹林に囲まれた地蔵院の境内一円は、方丈・庭園が一体となって「竹の寺」と呼ばれるに相応しい優れた境内環境を形成していることから、西山一体の自然環境の核の一つとして、京都市の文化財環境保全地区に指定されています。

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