|
さて、もう一人の祭神、淳仁天皇についてです。
第四十七代・淳仁天皇は、奈良時代の天平五年(733)、天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生し、大炊王(おおいおう)と称しました。そして、天平勝宝九年(757)、孝謙天皇の皇太子・道祖王(天武天皇の皇子・新田部親王の子)が不行跡を理由に廃位されたために、代わって二十五歳で立太子されました。
「続日本紀」によると、天平勝宝八年(756)、太上天皇(聖武天皇)の遺詔によって皇太子とされた道祖王は、太上天皇の喪中にも関わらず侍童と密通したり、機密を民間に漏らすなど勅令違反を繰り返したとされ、また、「自分は愚か者なので、皇太子は務まらない」と語ったと伝わります。
そこで、天平勝宝九年(757)三月二十九日、孝謙天皇は、諸臣を集めて廃太子を議し、その賛同によって道祖王は廃位されました。続いて、四月四日、孝謙天皇は、新太子の選定を議論させます。
候補として、当時の皇室中で年長な舎人・新田部両親王系の諸皇子があり、右大臣藤原豊成や中務卿藤原永手は、道祖王の兄・塩焼王を推薦し、摂津大夫文室真人珍努(智奴)と左大弁大伴古麻呂は池田王(舎人親王の子)を推しました。また、大納言藤原仲麻呂は、天皇が自身で選ばれるべきで、それに従うとします。孝謙天皇は、廃された道祖王の兄塩焼王は、太上天皇から無礼を責められた過去があるので不適当であり、舎人親王の家系では、船王は閨房が乱れ、池田王は親孝行に欠けるが、一人、大炊王のみが悪い評判が無いので、大炊王を皇太子に立てようと思うと語り、諸臣はこれに従うことを表明しました。
実は、これ以前、藤原仲麻呂は、大炊王に亡長男眞従の未亡人粟田諸姉を嫁がせて、王を私邸・田村第に呼んで居住させていました。つまり、大炊王の立太子は仲麻呂の期待通りでした。早速、大炊王は皇太子として東宮に入りました。また、五月二十日には、仲麻呂は従二位、紫微内相(準大臣待遇の令外官、強力な軍事権を兼任)に昇進しています。
この仲麻呂の台頭に対し、橘奈良麻呂(左大臣橘諸兄の子)が、大伴古麻呂らと反乱を企てました(橘奈良麻呂の乱)六月二十八日、奈良麻呂等が兵を集め、仲麻呂の邸(田村第)を包囲しようとしているという密告があり、七月二日、孝謙天皇と光明皇太后は、諸臣に対して「謀反の噂があるが、身の覚えのあるものは逆心を抱くのを止めて、朝廷に従うように」と詔勅を発します。しかし、同日夕方、藤原仲麻呂に再び密告があり、仲麻呂は直ちに帝に報告、道祖王の邸を包囲し小野東人らを捕らえます。
結局、拷問を加えた尋問により、東人らは謀反を自白・・橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが、仲麻呂を襲って殺害し孝謙天皇を廃して、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴しようと計画したと判明します。関係者は捕らえられ、道祖王や黄文王、古麻呂、東人等は拷問で絶命し、安宿王は佐渡に配流、塩焼王は臣籍降下、その他多くの関係者が処罰されました。
さて、天平宝字二年(758)八月一日、孝謙天皇から譲位を受け、淳仁天皇が即位し、二十五日、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、「恵美押勝」の名を与えられました。天皇は、「太保(押勝)は、朕の父である」と語り、その一門を厚遇し政治の実権は仲麻呂が握ることになりました。
また、孝謙上皇や光明皇太后の影響力も大きく、天平宝字三年(759)六月、皇太后が淳仁の父・舎人親王への尊号献上を要請した際、喜んだ淳仁に対し、上皇は、これを辞退するようにと天皇に圧力をかける一幕もありました。その後、天平宝字四年(760)正月、藤原仲麻呂(恵美押勝)は、従一位、太師(太政大臣)に昇進(後に正一位)、外交面では、唐で安禄山の乱が発生したため、天皇は、天平宝字三年(759)から九州の防備を強化し、仲麻呂(恵美押勝)は、新羅討伐を計画して三年以内に船五百艘の建造するように指示しています。
さて、「続日本紀」は、天平宝字六年(762)五月二十三日、孝謙上皇と淳仁天皇の仲が悪くなったと記します。この対立の背景としては、淳仁帝が、弓削道鏡を批判し、これを退けるようにと何度も上皇に換言したことがあったようです。前年、孝謙上皇の病を治したことから、道鏡は上皇の寵愛を受け、政治にも介入するようになっていました。孝謙上皇と淳仁天皇の対立から、上皇は保良宮(平城宮北)から平城宮へ還った後、別宮(法華寺)に入りました。また、淳仁帝は平城宮の中宮院に居住します。
そして、孝謙上皇は、「朕は今の帝を立てて、年月を過してきた。淳仁は朕に恭しく従うことも無く、言うべからざる事も言い、するべきでない事も行ってきたが、このようなことを言われるべき朕ではない・・朕は出家して仏弟子となったが、今の帝は、政事の内で恒例の祭祀等の小事を行うようにせよ。国家の大事と賞罰は朕が行う。」と宣告しました。
さて、天平宝字八年(764)九月十一日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱計画が密告によって発覚し、孝謙上皇は、直ちに淳仁帝が居住していた御所・中宮院を包囲させ、駅鈴と天皇の御璽を回収させました。仲麻呂(恵美押勝)はこれを知って慌てて挙兵しますが、敗北して宇治から近江へ敗走します。そして、塩焼王を天皇に擁立して態勢を整えますが、追討軍と交戦し十八日に仲麻呂が斬殺され反乱は終結しました。この間、淳仁帝は、反乱には加わらず中宮院に居住していましたが、軟禁状態で反乱に参加できなかったのか、計画に関与していなかったのかは不明です。
十月九日、上皇は兵部卿和気王(舎人親王の子・御原王の子)ら率いる兵数百を派遣して、淳仁帝の中宮院を包囲しました。淳仁は突然のことで、衣服や履物も身に付けていない状態で、使者に急かされて上皇の詔勅を受けました。そして、仲麻呂と共に反乱を企てた罪で廃位を宣告され、親王の待遇をもって淡路国の公として配流されることになります。直ちに馬に乗せられて淡路に向かった淳仁は、配所で一院に幽閉されました。また、淳仁の兄の船王、池田王も連座し流刑となっています。
しかし、その後も、淡路の淳仁帝のもとに通い、その復帰を望む者もあったようで、称徳天皇(孝謙帝の重祚)は、天平神護元年(765)二月、「淡路廃帝(淳仁)が逃亡したという噂があるが、事実か確認してすぐ知らせよ。また、多くの者が商人と称して淡路に向かっているというが、国司が放置していると集団となる危険があるので禁止させよ」と淡路国守に指示しています。また、三月五日には、勅令を下して「淡路にいる人を、再び連れてきて、帝として治めさせたい者もあるようだが・・反逆を企てた人物である・・今後はそのような考えは捨てるように」と命じています。また、八月一日には、淳仁の中宮院を包囲した和気王が、称徳天皇と道鏡の死を呪詛し、自ら皇位に即いて、舎人親王の子孫船王、池田王らを都へ呼び寄せようと謀ったことが発覚し、流刑の途中で殺害されています。こうした中、淳仁は、十月二十二日、幽閉された憤りに耐えられず、垣根を乗り越えて逃亡を図りますが追手に捕まり、翌日、押し込められた院中で三十二歳で崩御しました。死因は逃亡の際に受けた傷害等が考えられます。
その後、淳仁帝は、称徳天皇の意向もあり、明治まで「淡路廃帝」「廃帝」と呼ばれました。
ただ、称徳帝の後、弘仁天皇が即位すると、弘仁帝は、先帝時代の罪人を全て許し、流刑となっていた舎人親王一族も復権させました。そして、宝亀三年(772)三月十八日に淡路廃帝の墓を改葬させ、当地の僧侶六十人を招いて法会を行い墓守を置きました。また、宝亀九年(778)三月二十三日には淡路廃帝の墓を山陵(みささぎ)とし、その母の墓を御墓(みはか)とするように命じています。そして、ようやく明治三年(1870)に「淳仁天皇」と追号を賜って正式に歴代天皇に加えられました。
さて、白峯神宮に戻ります・・
鳥居脇の門と土塀に公家飛鳥井家の邸宅跡を偲ばせる境内には、正面奥の本殿、拝殿の右手に、摂社三社の地主社、伴緒社、潜龍社が並んでいます。
一番手前の地主社は、慶応四年(1868)九月六日の白峯宮(白峯神宮)創建の際、地主社と改称された精大明神社を中央に祀り、その後合祀された四神を左右に配祀します・・中央に精大明神(スポーツ競技上達、技能芸能上達)、右に柊大明神(厄除、延命長寿)、糸元大明神(織物業繁栄)、左に白峯天神(学業成就)、今宮大神(家内安全、無病息災)この内、精大明神は、白峯神宮の社地が、元々、蹴鞠や和歌の宗家であった公家飛鳥井家の邸宅跡だった関係から、古くから飛鳥井家の邸内社・鎮守社としてこの地に祀られてきたもので、蹴鞠道の守護神とされ、現在ではサッカー他球技全般およびスポーツの守護神として有名な存在となりました。
また、伴緒社は、明治十一年(1878)十一月十五日に創建された摂社で、「保元の乱」で、崇徳上皇についた源為義・為朝父子が祀られています。武道・弓道上達の神として信仰され、毎年十一月十五日には、伴緒社祭(奉射神事)が行われます。
潜龍社は、神潜龍大神(水の神)の白峯龍王、紅峯姫王、紫峯大龍王を祀っています。昭和三十年(1950)十一月二十三日に、本殿で行われた御火焚祭斎行中、炎の中に出現した境内飛鳥井の井戸に坐す龍神で、染物・醸造守護、水の守護神とされます。また、傍の潜龍井は御神体で、ここから湧き出る神水は、家内安全、家業繁栄、悪縁を断ち良縁を得る等霊験あらたかなる水神として崇敬され、毎年、十一月二十三日には潜龍講大祭が斎行されます。
さらに、境内の飛鳥井は「枕草子」にも登場する井戸で、「飛鳥井、みもひも寒しとほめたるこそをかしけれ」と記され、当時の名水の中に数えられています。元々、飛鳥井家邸の清泉でしたが、神宮建立後に一時埋没、その後、復活させて手水舎としました。十一月二十三日には、この水を汲み上げて献茶式が行われています。
また、平成十三年(2001)五月二十六日に建てられた蹴鞠碑は、碑中の「撫で鞠」が有名で、「精大明神」に参拝した後、この石鞠を一回廻すと御利益があるとされます。また、四月十四日(春季大祭)と、七月七日(精大明神祭)には蹴鞠保存会によって梶鞠式が奉納されます。
その他、当神宮宮司西村尚氏の「小賀玉のしじ葉がもとの 飛鳥井の井筒 むかしの物語せよ」という歌碑や、大正七年(1918)四月五日に、当時の皇太子(昭和天皇)の御参拝記念の御植の松等があり、本殿脇には、サッカーやバレー日本代表等々から奉納されたボールが展示されています。また、社宝として崇徳上皇御影(国重要文化財)等を所蔵しています。
また、境内には、多くの木々が植えられています・・小賀玉の木は、樹高約十三メートル、樹齢八百年とも言われ、飛鳥井家邸時代からこの地に存在したものです。樹名は、「招霊(おぎたま)」に由来するという説もあって社寺境内によく植えられますが、京都市内でも最大級で昭和六十年(1985)に京都市指定天然記念物に指定されました。境内南にある珍しい三葉松は、夫婦和楽・家内安全を象徴するとされ、黄金色の落葉を身につけると金運の御利益があるとして「金銭松」ともいわれています。また、本殿の左右に植えられているのが、含笑花(がんしゅうげ モクレン科オガタマノキ属)です。中国原産で、和名は「トウオガタマ(唐招魂)」といい、初夏に開花し本殿周辺に甘い香りを漂わします。他に、左近の鬱金(うこん)桜(黄桜)、右近の橘、ムクロジの木、梶の木等が植えられています。
授与品としては、スポーツ全般に御利益のある「闘魂守」をはじめ、破魔矢、鞠土鈴、崇徳天皇の和歌に因んだ心願成就絵馬等があり、年間行事としては、四月十四日の「春季例大祭(淳仁天皇祭) 蹴鞠奉納」、九月二十一日の「秋季例大祭(崇徳天皇祭 薪能奉納」、七月七日の「精大明神祭・七夕祭(蹴鞠、小町踊り奉納)」等があります。
|
尚、今回は地域的に離れるために、採り上げませんでしたが、東山区の祇園花見小路の甲部歌舞錬場の裏にある「崇徳天皇御廟」も白峯神宮が管理しています。崇徳天皇の讃岐の流刑地で崩御した後、帝の寵愛厚かった阿波内侍が遺髪を請い受けて塚を築いて亡き天皇の霊をお慰めしたと伝承されている場所で、毎月二十一日に、白峯神宮の神職が奉仕し、祇園の女将も参列して御廟祭が斎行されています。
2009/9/26(土) 午後 3:42 [ hiropi1700 ]
はじめまして、「こんな記事もあります」から来ました。。
朝廷に恨みを抱いている崇徳上皇の御霊が、奥羽列藩同盟に味方しないようにするために、白峯神社に崇徳上皇の御霊を奉遷させることになったと民俗学者の谷川健一氏が書いていました。。
幕末から明治に移る時代にそんなことを考えていたのかと妙に関心させられました。。
2010/6/6(日) 午後 11:32
幕末というと、かなり現在に近い時代に感じますが、戊辰戦争の際に崇徳上皇の祟りを警戒していたという話は面白いですね。現在、私達が想像する以上に、崇徳上皇の御霊というのは、歴史上様々な影響を及ぼしていたのかもしれませんね。
2010/6/13(日) 午後 3:00 [ hiropi1700 ]