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京都市伏見区西部の久我(こが)や羽束師(はつかし)は、有名史跡も少なく、鉄道網の空白地帯でもあるため、京都観光ガイド等ではほとんど採り上げられることの無い地域です。(アクセスは、向日市や長岡京市側からJRや阪急の最寄り駅・・JR(向日町・長岡京駅)や阪急電鉄(西向日・長岡天神駅)から路線バス、または、伏見区の京阪中書島から路線バスを利用しなければなりません)
今回は、この伏見区久我本町にある誕生寺(たんじょうじ)を採り上げました。
誕生寺は、道元禅師の生誕地を顕彰するために大正時代に創建、昭和になって完成した新しい寺院で、京阪国道1号線の赤池交差点の西、桂川に架かる久我橋の南袂に位置しています。
さて、鎌倉新仏教の六開祖(法然、親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮)の中で、京都で誕生したのは親鸞と道元の二人です。親鸞は山城国宇治郡日野 (京都市伏見区日野)を根拠地とする藤原北家の流れを汲む日野氏の出身で、現在も伏見区の日野地域には、法界寺や日野誕生院(共にブログパート1に採り上げました)といった日野氏や親鸞ゆかりの史跡が残されています。
一方の道元ですが、幼少期については不明な点も多いですが、通説では、正治二年(1200)、村上天皇の孫・源師房を祖とする村上源氏の出身で、鎌倉初期の政治家として辣腕を振るった内大臣久我通親(こがみちちか 源通親、土御門通親)の子として誕生したと伝わります。また、母は摂政関白藤原基房(ふじわらのもとふさ 松殿基房)の娘、藤原伊子(ふじわらのいし 冬姫)です。
(尚、この伊子は、平家政権の下で不遇だった父基房に政治的に利用され、上洛してきた木曽義仲(源義仲)の正室とされてその寵愛を受け、義仲の戦死後は、再び政略結婚で久我通親の側室となりました。)
さて、道元禅師は、三歳の時に父を、また八歳で母を失って、異母兄の大納言堀川通具(ほりかわみちとも 久我通具)に養育されたとされます。(現在は、この堀川通具の実子説等があります)
また、生誕地についても諸説あり、一つは、藤原道長等歴代藤原氏の埋葬地として知られる宇治市木幡(現在、宇治陵があります)にあった、道元の母方の祖父とされる摂政関白藤原基房(松殿基房)の別邸、木幡山荘(現在、松殿山荘が建てられています)とされます。
これは、少年道元が木幡山荘から叡山へ赴いたという伝承(伝光録等)から推測されたもので、誕生地であるという明確な証拠があるという訳ではありません。
もう一説は、今回の誕生寺のある久我(こが)の地とされます。
久我は、かつては久我の庄と呼ばれ、道元の父・久我通親(源通親)の所領で、その別邸(久我水閣)がありました。こちらも、道元がこの地で誕生し、父の死まで過した可能性が高いということに過ぎませんが、道元禅師ゆかりの久我水閣の旧地を顕彰して誕生寺が建てられています。
(尚、親鸞ゆかりの日野と道元ゆかりの久我は、京都市伏見区の東端西端に位置しますが、伏見区という広い区域の歴史的な奥深さを感じさせます)
さて、 誕生寺は、山号を妙覚山という曹洞宗寺院です。
大正五年(1916)、当時の曹洞宗大本山永平寺の第六十六世・日置黙仙(ひおきもくせん 1847〜1920)禅師は、明治維新で東京に移り住んだ久我家当主の侯爵久我通久(こがみちつね 1842〜1925)から、この地が久我家別邸・久我水閣旧地であることを聞いて、共に久我の地の歴史を調査しました。この結果、この地こそ道元禅師の誕生地であると合議一致し、その顕彰のための寺院の建立を発願しました。
そして、田村一郎、浅野総一郎、御木本幸吉等の政財界や宗門寺院の協力を得て、大正七年(1918)に地鎮祭を修し、越前(福井県)武生小松の郷(現福井県越前市小松町)にある道元ゆかりの妙覚寺の寺号と共に、寺に安置された道元禅師の自作と伝えられる禅師尊像をこの地に移して翌八年(1919)に、誕生山妙覚寺として創建、翌九年(1920)五月に仮本堂に入仏遷座の式が行われました。
しかし、同年九月二日、日置黙仙禅師が新潟県養広寺の戒場で七十四歳で遷化したために、その後の計画は頓挫したまま昭和五十年代に至りました。その間、昭和十六年(1941)に、妙覚山誕生寺と改称し、また、豊川稲荷を勧請奉安して寺の復興を祈願しています。
そして、道元禅師の生誕八百年(平成十二年(2000))を迎えるに際し、再び復興計画が進み、本山初め全国の信者等の寄付により、昭和五十七年(1982)から十六年間をかけて本堂、稲荷堂(豊川稲荷)、山門、庫裏、座禅堂、鐘楼堂、供養塔といった全堂宇の新築完成と境内整備を行い現在に至ります。
さて、「高祖道元禅師」と記された赤い大きな提灯のある山門を潜ると、広い空間に新しい本堂、稲荷堂等の諸堂が立ち並び、道元禅師幼少像、慈母観音造像、仏足石等が安置されています。また、本堂の西には「道元禅師産湯之井戸」があり、山門前には、鐘楼や区民の誇りの木に選ばれたイチョウがあります。また、新しい五輪石塔と宝篋印塔は、禅師の両親(久我通親と母伊子)の恩に感謝するために平成九年(1997)に建造されたもので、特に母の供養塔(宝篋印塔)は、久我の地に伝わっている宝篋印塔(古くから久我では「鶴の塔」と呼んできました)」を模したものです。
宝篋印塔は、中国の五代十国時代(907〜960)の呉越国の最後の国王・銭弘俶(在位948〜978)が造った「金塗塔」の形式を模して、鎌倉時代中期から後期に建立されたものといわれますが、久我の地では、誕生寺の南にある日蓮宗・妙真寺(久我東町)境内に、道元禅師建立という伝承のある日本最古という美しい石造の宝篋印塔が安置されていました。そして、この宝篋印塔は、現在、実業家北村謹次郎(1904〜1991)の収集品を集めた私立美術館の北村美術館(京都市上京区河原町今出川下ル一筋目東入ル梶井町 特別公開のみ)の庭園に安置され、国の重要文化財に指定されています。
この塔は、元々、久我村の仏光寺という寺院にあり、道元禅師の祖父・久我雅通(1118〜1175)の塔、禅師の母の塔とも伝えられ、久我家の先祖累代の菩提を弔うために建立されたものと考えられています。
このような由来から、誕生寺では、この新しい宝篋印塔建立の際、久我伝来の「鶴の塔」を原寸復元しました・・梵字は風雨に晒されて摩滅して模写出来ませんでしたが、その他は当初造られたままの姿に再現されているということです。尚、大正時代に、日置黙仙禅師が道元禅師の両親に授与した、「桂川院源底通親大禅定門」、「鶴夢院妙覚則心大禅定尼」という戒名が両塔(五輪石塔と宝篋印塔)に刻まれています。
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ヤフーチャット地域にこい チンカス
2013/2/24(日) 午前 10:51 [ tinkasu_osamu_41_horikawa ]