|
両足院の続きです・・・
両足院の墓地は、もちろん基本的に檀家や関係者以外は立ち入ることは出来ませんが、入り口に井戸や供養塔を配して、約三百九十坪の敷地があるということです。
両足院は、茶道藪内家の菩提寺でもあり、墓地には、薮内家五代で中興の祖、薮内竹心紹智の墓があります。竹心紹智は、両足院十世・雲外東竺(うんがいとうじく)に参禅して当院書院前の作庭に携わったと伝えられています。
また、江戸時代初期の貿易商人で長崎代官となった末続政直(初代末続平蔵 1546〜1630)の墓(五輪塔)が、妻の墓と並んで墓地東北隅にあり、また、二代平蔵末次茂貞の墓もあるようです。
政直(初代末続平蔵)の妻は、飛騨高山城主・金森可重の娘で、妻の生母は美濃郡上藩主・遠藤慶隆の息女でした。遠藤家はかつて、両足院と並ぶ黄龍派の中心塔頭・霊泉院の大旦那でもあったという関係から、末続政直一族も当院との関係が深かったようです。
さらに、江戸時代の京都出身の陽明学者・三輪執斎(三輪希賢 1669〜1748)が、元文四年(1739)に、両親の沢村自三夫妻の墓と共に建てた墓(寿塔=生前に自身の墓を建てたもの)や、天明時代(1781〜88)に活躍した力士、鬼面山谷五郎(本名森川 出ッ尻鬼面山 1762〜1790)の墓もあります。
また、白木屋(東急百貨店)の祖・初代大村彦太郎(大村可全 1638〜89)以下、代々の白木屋大村一族の墓があり、当院の墓地の約四分の一は同家関係の墓で占められているということです。
大村可全は、材木商や小間物の行商から身を起こし、やがて、寛文二年(1662)、日本橋に呉服店(白木屋の創業)を開きました。その後、貞享二年(1685)に、 当院十世・雲外東竺のもとで檀家となり、元禄二年(1689)に五十四歳で亡くなって両足院に墓が建てられたということです。
また、前回に記したように、子孫の明治期の大村彦太郎が、当院に「水月亭」や「臨池亭」を寄付・寄進しているように、現在まで両足院が存続発展してきた背景には、大檀越白木屋大村家の庇護があったといえるでしょう。
さらに、これも少し前述しましたが、日本に「饅頭」を伝えた林浄因の子孫は、奈良と京都に住み、後に愛知県三河塩瀬村に住んだので塩瀬と改称しました。京都の一族は中京区烏丸三条下る周辺に住んだことから、現在も饅頭屋町(中京区)という地名が残っています。
両足院には、饅頭屋町の有志が、寛政(1789〜1801)頃の第十九代浄空を最後に途絶え無縁墓となっていた京塩瀬家の墓を、饅頭町諸家を合祀して昭和六年(1931)に建立した饅頭屋町合塔があり、碑文には同家の歴史が記されているということです。
最後に、両足院の寺宝としては、屏風として、長谷川等伯筆の「水辺童子図(松下童子図)四面」と「竹林七賢図屏風六曲一双」があり、掛軸では、明庵栄西像(絶海中津賛)、伝如拙筆「三教図 罕謄叟・正宗龍統賛(重文)」、 雲谷等顔筆「達磨図」、相阿弥筆「臨済・八景図」、「月舟寿桂賛「布袋図」、伊藤若沖筆「雪梅雄鶏図」、 一金有声筆「李賀騎馬図」他多数を所蔵しています。
また、陶磁器等の美術品には、伝樂道入作「飴釉手桶形水指」、中国・景徳鎮窯「古染付山水文大皿」、伝奥田頴川作「交趾釉形香炉」、仁阿弥道八作・谷文晁他画「色絵花卉藪柑子図手焙」、三代高橋道八作「色絵サビ絵染付桜楓文手焙」があり、書物では、「東坡集(中国南宋時代)」、「三国志伝(中国明時代)」、「仏説預修十王生七経・仏説寿生経(朝鮮時代)」、「景徳伝燈録(五山版)(南北朝時代)」その他、多くの両足院文書・塩瀬家関係文書等百二十通近くが寺に伝わっているということです。
|
はじめまして
ようやく自分にとって最も参考になるブログを発見しましたヽ(´ー`)ノ
京都まだ探索し始めたばかりなのでここで下調べさせていただきます
2009/11/24(火) 午後 11:17
お気に入りにご登録いただきまして、ありがとうございます。京都を代表するような有名な史跡は採り上げていませんが、コツコツと小さな史跡を更新して行きますので、よろしくお願いします。
2009/11/25(水) 午後 10:25 [ hiropi1700 ]