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前回の続きです・・・
さて、八瀬には古くから念仏堂があり、地域の人々の集いの場となってきましたが、平成四年(1992)に老朽化により取り壊されました。念仏堂に祀られていた十体の仏像には、木造十一面観音(平安時代中期 重文指定)、木造天部形立像(京都指定文化財)、木造毘沙門天立像(京都市登録文化財)、木造薬師如来像(京都市登録文化財)等の文化財クラスも含まれ、元々は延暦寺伝来のものと考えられます。文化財指定の仏像は、現在は京都国立博物館に寄託され、その他のものと位牌は、近くの妙伝寺に安置されています。
この天台宗寺院、妙伝寺(八瀬近衛町)は、八瀬童子の菩提寺で八瀬童子の仏事はすべてここで行われているということです。そして、元々念仏堂で行われていた念仏講も、現在は妙伝寺で行われているようです。毎月二十八日に行われる念仏講は、八瀬童子が歴史的に恩恵を被った人物を供養するもので、後醍醐天皇、明治天皇、照憲皇太后、大正天皇、貞明皇后、昭和天皇、近衛基熙、秋元喬知、近衛内前、近衛家久、近衛家熙、小堀邦直、板倉勝重、徳川家宣、岩倉具視、香川敬三、香淳皇后を供養しています・・・現在もこの地の歴史と伝統を守る八瀬童子らしい特徴ある行事といえます。
さて、ようやく八瀬天満宮についてです・・
京都バス「ふるさと前」のバス亭から数十メートル先にある朱の鳥居の潜ると、開けた田畑の中に砂利道の参道が山に向かって続いています。普段はほとんど参拝者もいないため、参道脇の畑で働いている人が、物珍しげに参拝者を眺めることも良くある光景です。
二の鳥居の傍には、弁慶が比叡山から運んだといわれる大石があり、「弁慶の背比べ石」と呼ばれています。この大石の原寸は、六尺三寸二分あったということです。この二の鳥居からは石段が続き、途中の下の境内には社務所があり、さらに石段を登ると末社に左右を囲まれた本殿が鎮座しています。
八瀬天満宮(京都市左京区八瀬秋元町)は、創建年代等不明な所が多く、社伝や「山州名勝志」等は、菅原道真の仏教の師だった比叡山の法性坊尊意阿闍梨が、道真の死後にこの地に天神を勧請したと伝えています。また、江戸時代までは天神社と呼ばれていました。
八瀬天満宮の境内は、比叡山への登り口「八瀬坂」の起点でもあり、境内には、道真が幼少期に勉学のため比叡山へ登る際、ここで休憩したと伝わる「菅公腰掛石」があります・・この道真の旧跡に天神を祀ったのか、天神信仰が道真の遺跡伝承を生み出したのかはともかく、その後、神社は地域の里人(八瀬童子)から産土神として信仰されました。
八瀬村の歴史史料集で、天保十一年(1840)成立の「後要用記録大帳」には、寛政元年(1789)頃の神社境内図が記載されていますが、それによると、本殿の梁行は一間半一尺五寸、桁行二間一尺五寸、縁高欄階段付きと記し、本殿の左右の幾つかの末社の他に、石段下右に、神仏混交時代らしく観音堂があったようです。前述した八瀬の念仏堂に祀られていた十一面観音像(現在は京都国立博物館寄託)は、元々は天神社(八瀬天満宮)の本地仏といわれていて、また、現在、妙伝寺に伝わる大般若経は、明治時代に同寺に伝わったもので、元々は天神社のものでした(経には応永八年(1401)八月の日付で、山城国八瀬宮御経と記されています。)
摂末社としては、本殿の右に八幡宮、幸神社、秋元神社、山王神社、十禅師社があり、本殿左には、若宮神社、六所神社、白井神社があります。また、社務所の傍にも一社があり、岩上神社・貴船神社・白髭社を合祀しています。また、本殿の左奥には、前述したように、道真が幼少期に勉学のため比叡山へ登る際、休憩したと伝わる「菅公腰掛石」があります。
また、境内の右端には、「後醍醐天皇御旧跡」と記した石標がありますが、これは建武三年(1336)正月、足利尊氏軍が京都へ侵入した際、その防戦に失敗した後醍醐天皇が、比叡山に逃れようと登った道=八瀬坂跡を示すものです。その他、後醍醐天皇遥拝所もあり、区民の誇りの木に選ばれている大杉の傍にも幾つかの石碑が点在しています。
さらに、天満宮の裏手、約二百メートル(二町)登った所に、御所谷(ごしょだに 愛宕郡八瀬村御所谷・・現八瀬秋元町)と呼ばれる場所があり、「御所谷碑」が建てられています。
元々、ここには天満宮の摂社の山王社(山王権現社)が祀られていましたが、足利軍から逃れた後醍醐天皇は、八瀬を経由しこの社の地で味方の集合を待ちました。そして、八瀬の村人(八瀬童子)は天皇の乗物を警護し、無事延暦寺に到着することが出来ました。この功績により、八瀬村は天皇から年貢免除の特権を与えられ、八瀬童子達は、この地を御所谷と呼んだということです。
その後、明治十一年(1878)、京都府は山王社を八瀬天満宮の境内に移転させましたが、八瀬童子達は、この移転によって建物が無くなった御所谷の地が荒れ、後醍醐天皇ゆかりの史跡が忘れられることを恐れ、この地に石碑を建てることを計画しました。こうして、明治二十六年(1893)、幕末明治の勤皇家で、京都府大参事等を歴任した宇田淵が碑文を表した「御所谷碑」が建立されました。
そして、現在も、毎年九月十六日には、八瀬童子による御所谷参拝が行われています。 これは、後醍醐天皇の命日(旧暦八月十六日)に御所谷に登って遥拝する儀式です。
さて、有名な八瀬赦免地踊(しゃめんじおどり)についてです。
毎年、十月第二日曜日には、天満宮社の例祭、秋元祭(あきもとさい)が行われます・・より正確には、天満宮社の境内社・秋元神社(本殿の右)の祭礼で、秋元神社の祭名としては燈篭祭になります。
秋元神社は、八瀬童子と延暦寺の山林境界争論に関与した老中秋元喬知(秋元大明神)を祀った神社で、赦免地踊はこの秋元神社の祭礼で奉納される民俗芸能です。別名、灯籠踊(とうろうおどり)ともいわれ京都市登録無形文化財に指定されています。
少し、秋元喬知を補足しておきます・・
秋元喬知(あきもとたかとも 1649〜1714)は、慶安二年(1649)、三河国田原藩藩主戸田忠昌の長男として誕生しました。母は甲斐谷村藩藩主秋元富朝の娘で、喬知は継嗣のいなかった秋元家の養子となります。そして、明暦三年(1657)に秋元富朝が死去すると、九歳で外祖父の跡を継いで秋元家一万八千石を領し、間もなく従五位下但馬守に叙任されます。その後、寺社奉行や若年寄を歴任して加増を受け、元禄十二年(1699)に老中となり、宝永七年(1707)まで務めました。宝永元年(1704)に川越藩五万石となり、正徳四年(1714)、六十六歳で死去しました。喬知は、学問に秀でた聡明な人物で、礼儀を重んじて公正な判断をしたと伝えられます。
さて、前回に書きましたが、八瀬童子と延暦寺の山林境界争論は、宝永七年(1710)七月に、幕府の配慮によって、従来からの禁裏御料を除く全ての賦役年貢が免除されるという結果となりました。これを喜んだ八瀬童子が賦役年貢の免除を記念して始めたのが赦免地踊といわれています。
境界争論が八瀬童子に有利な決着となった背景には、将軍徳川綱吉の死去によって幕府内の権力闘争で、新将軍家宣派が勝利したことや、家宣の妻の実家でもある近衛家がこの問題を新将軍に取り次ぎ働きかけた事がありました。大体、将軍や幕府内重臣とも関係が深い日光山輪王寺門跡で延暦寺座主を兼任する公弁法親王(こうべんほっしんのう)のような宗教界の実力者に対し、秋元喬知のような一老中の力だけではどうしようもなく、まして、八瀬童子がいかに必死で訴えても敗北は最初から決まっていました。
ところが、将軍の代替わりが、論争を奇跡的に八瀬童子に有利な裁定へと導いたのでした。もちろん、八瀬童子は幕府内の問題など知らず、ただ、八瀬にまで来て村人の意見を聞いてくれた秋元喬知に篤く感謝しました。そして、八瀬村に有利な裁定をしてくれた偉人として崇敬し、裁定の後、江戸の秋元のもとへ礼に出向いています。そして、正徳四年(1714)秋元喬知が亡くなると、天満宮の境内に秋元神社を建立し、その遺徳をいつまでも忘れないために喬知を神として祀ったのでした。
赦免地踊については、前にブログに写真を掲載しましたが、人や動物等の精巧な図柄を燈篭に貼り付けた切子灯籠(きりことうろう)を頭にのせた女装の男子(灯籠着=とろぎ 中学生)八人とその警護役、美しい化粧した花笠姿の女子の踊り子(小学校六年生が中心)十人程度、新発意二人、太鼓打ち一名、太鼓持ち二名、音頭取りの一段が、夜に行列を組んで天満宮社まで伊勢音頭を囃しながら集合して、秋元神社に向かいます。
神社の石段にかかると音頭取りが「道歌」を歌い、境内に到着すると女装の男子(灯籠着)が踊ります。そして、仮屋の舞台では、踊り子達が「潮汲踊」「狩場踊」といった幾つかの踊りを披露し、その合間には色々な演目が行われます。この室町時代の風流踊りの流れを汲む八瀬の里の伝統行事は、京都でも最も幻想的で美しい夜祭といえるでしょう。
八瀬童子による赦免地踊の披露は過去に何度かありましたが、近年では、平成十六年(2004)八月、天皇皇后両陛下の京都行幸の際に、京都御所の前庭で八瀬童子が赦免地踊りを行っています。そして、この夜の三日月の光のもと、御所の前庭で披露された赦免地踊をご覧になった美智子皇后陛下は、「大君の御幸祝ふと八瀬童子 踊りくれたり月若き夜に。」という歌を詠まれました。そして、平成十七年(2005)九月に境内の一の鳥居傍に、この美智子皇后の歌碑が建てられました。
最後に、前述した赦免地踊や御所谷参拝といった八瀬童子特有の行事の他に、八瀬天満宮の年中行事としては、初詣(元旦)、御弓始め(一月二十日)、朔幣式(灌縄式 二月二日)、初湯式(湯立て神事 二月二十五日)、春の彼岸神饌献進式(春分の日)、御屋根掃除(仮屋への遷座式 四月中旬)、 例祭(五月四〜六日 宵宮祭(四日)、本祭(五日)では、二基の神輿が御旅所へ渡御)、秋の彼岸神饌献進の式(秋分の日)、八瀬の南北端の三社への参拝(聖社(長谷出町北端の山中)・妙見社(妙見町中部山中)・住吉社(妙見町北部高野川沿い) 十一月十日)、御火焚祭(十一月十一日)、御影渡(十二月三十一日)等があります。
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八瀬天満宮って知らなかった。行ってみます。
情報有難う御座います。
2010/1/17(日) 午後 4:16
KENさん、八瀬天満宮は地味な神社ですが、私はこういった山里らしい風情の残る神社が好きなんですね。赦免地踊も、山里らしい素朴で不思議な魅力がある祭ですよ。何より観光客が少ないのが良いですね。
2010/1/19(火) 午後 5:35 [ hiropi1700 ]