京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

上京区

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妙顕寺その2

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前回の続きです・・

さて、興国二年(暦応四年 1341)に妙顕寺第二世となった大覚妙実(1297〜1364)上人は、妙顕寺及び日蓮宗(法華宗)の発展に努めました。

大覚妙実は、関白近衛経忠の子、また一説には、後醍醐天皇の皇子とも伝えられ、幼少時に出家して南朝と関係の深い真言宗大覚寺に入り真言密教を学びました。十七才の時に、街中で出会った日像上人の説法に強い感銘を受けて、七日の間、その説法を熱心に聞き、大覚寺門跡の地位を捨て、智覚、正覚、祐存といった供の僧達と共に日像の門下となりました。

その後、日像上人からその才を認められた大覚妙実は、師の遣いとして鎌倉の日朗上人の元に十二回も派遣される等、師に代わって畿南、中国、関東への布教活動を行いましたが、特に備中、備後、備前を中心に(この地方に三十一ヶ寺を建立したとも伝えられます)中国、瀬戸内地方に日蓮宗(法華宗)に初めて広めた功績は大きく、正平十三年(延文三年 1358)に備後に法華堂(現法宣寺 広島県福山市鞆町後地)を建立する等、現在のこの地域の日蓮宗(法華宗)寺院の多くが大覚妙実を開基としています。
また、畿内南部でも妙泉寺(大阪府和泉市和気町)、妙光寺(大阪府泉佐野市市場西)等、三十程の寺院を建立したとも伝えられます。


その後、室町幕府の初代将軍足利尊氏から荘園三ヶ所の寄進を受け、二代将軍義詮からも念珠等を賜るなど、尊氏や義詮の帰依を受けて、妙顕寺は足利将軍家の祈祷所として発展していきます。

妙顕寺と足利将軍家の関係を当時の諸記録(大日本資料より)から列挙してみると・・
正平五年(観応元年 1350)二月二十一日、足利義詮は、妙顕寺の他、実相寺、妙顕寺、桂宮院、恩徳院、備後浄土寺に天下の静謐を祈らせています。また、正平十年(文和四年 1355)八月二十九日、足利尊氏は妙顕寺に近江佐津河東方の地、備前宇垣郷内山条村及び備中河尻社を寺領として与えました。

正平十二年(延文二年 1357)一月二十二日、尊氏は京都祇園社と妙顕寺に天下静謐を祈らせ、義詮もまた妙顕寺に祈願させています。同年三月二十六日、義詮が、妙顕寺の他、東寺、実相寺、桂宮院に尊氏のために祈祷させ、同年八月二十五日にも、幕府は、妙顕寺に三千万部の法華経を読誦させ四海静謐を祈らせています。
そして、正平十三年(延文三年 1358)四月二十七日には、幕府は妙顕寺に、死期の迫った尊氏の為に祈祷を行わせています。(尊氏は三十日に死去)

正平十七年(貞治元年 1362)、京都に赤斑瘡が流行したため、六月十四日に、妙顕寺に法華経を転読させ、病魔退散を祈願させました。また、正平二十一年(貞治五年 1366)二月三十日、将軍義詮は、妙顕寺に天下静謐を祈祷させ、元中二年(至徳2年(1385)十月十一日にも、幕府は妙顕寺祈祷させています。

また、当時は南北朝の動乱期だったこともあり、妙顕寺も度々被害を受けたようで、正平七年(文和元年 1352)二月二十五日には、比叡山延暦寺衆徒が、当時延暦寺の別院だった祇園社(現八坂神社 当時は神仏混交でした)に妙顕寺法華堂を破却させる事件が起き、正平六年(観応二年 1351)九月二十二日には尊氏が、正平十年(文和四年 1355)五月二十日には義詮が、夫々、武士庶民に対し妙顕寺に乱入狼藉することを禁じています。



さて、妙顕寺の有名な逸話があります・・正平十三年(延文三年 1358)京都を大千魃が襲い、諸宗が請雨を祈祷しますが効果が有りませんでした。そこで、北朝の後光厳天皇は、大覚妙実上人に祈祷を命じます。六月二十五日、上人が桂川の傍で曼荼羅に祈り、法華経を読誦すると、たちまち黒雲が湧き起って雷鳴が轟いて雨が降り始めました。雨は数日間降り続き、朝廷以万民が喜びました。

そして、この功によって、朝廷は上人の願いを聞き入れ、宗祖日蓮上人に大菩薩号を、日朗、日像両上人に菩薩号を贈り、大覚上人自身も大僧正号を賜ったとされます。
また、現在まで妙顕寺の呼称となっている「四海唱導・・「四海(天下、国中)」に「唱導(教えを説き人を導く)」したという意味)」も、この功によって同年七月に許されたと伝えられます。(宜為四海唱導、被致一乗弘通云々・・)



尚、大覚妙実上人は、正平十九年(貞治三年 1364)四月三日に六十八歳で入滅したと伝えられ、妙顕寺は三世朗源僧都、四世日霽上人へと継承されますが、元中四年(嘉慶元年 1387)、比叡山延暦寺宗徒によって境内伽藍を破却され、日霽上人は若狭小浜へ逃れます。

その後、明徳四年(1393)七月八日、日霽が将軍義満から三条坊門堀川(押小路以南、姉小路以北、堀川以西、猪熊以東(現中京区堀川御池))の地を与えられ、寺号を妙本寺と改めて再建しました。
義満も妙本寺(妙顕寺)を祈願所とし、応永二年(1395)四月十六日に、義満が妙本寺日霽に祈祷を命じたこと、応永五年(1398)八月二十九日に義満が妙本寺に参詣したこと、翌応永六年(1399)十二月七日に、妙本寺日霽に四海安全を祈願させたことが記録されています。

四代将軍義持も、妙本寺(妙顕寺)を保護し、応永十八年(1411)四月七日に、妙本寺(妙顕寺五世)の具覚月明上人を権大僧都に任じ、同年七月二十八日には、義持は妙本寺を祈願寺としました。
さらに、応永二十年(1413)五月八日には具覚(月明)上人を僧正に任じましたが、この事が延暦寺の怒りを買い、同年六月二十五日、延暦寺衆徒等が憤って嗷訴し、犬神人(祇園社等の下級神官)等が、妙本寺(妙顕寺)の堂宇を破却し、具覚月明上人は丹波へ避難しました。

当時、南朝残存勢力の騒動が相次いで動揺していた幕府は、翌応永二十一年(1414)七月八日、延暦寺衆徒の要請を聞き入れ、妙本寺住持具覚(月明)に賜った僧正の任命を取り消し、同寺本堂を法勝寺五大堂に、住持の住坊を犬神人に、その他の堂舎及び寺地を十禅師社に寄進させています。
それでも、その後、応永三十年(1423)十月二十一日には、義持が月明上人に全国の諸末寺に命令し、朝家安全、武運長久を祈らせ、永享九年(1437)二月二十五日には、六代将軍義教が、妙本寺で祈祷を行わせるなど幕府との繋がりを深めていたようです。



この頃、宗門内部でも、法華経の内容に関する解釈論争が起りました・・・法華経の前半(第一から第十四の安楽行品まで)を「迹門」、後半(第十五の涌出品〜観発品第二十八まで)を「本門」と言いますが、この前半と後半の関係をどう見るか、本迹一致か本迹勝劣かという教義論争です。
元々、宗祖日蓮以来、「本迹勝劣」の立場を基本としてきましたが、宗派内部で「本迹一致」を採る異論が起こったことから対立と分派を生み、また、時の権力と関係を深める教団の姿勢でも内部批判が生まれました。

こうして、四世日霽上人の時代、天寿四年(永和四年 1378)、内部対立から妙顕寺から離脱した日実上人が、小野妙覚の外護を得て四条大宮に堂宇を構えました(妙覚寺の創建)
さらに、延暦寺宗徒によって妙顕寺が破却された後の明徳四年(1393)、日実上人は、三条坊門堀川に移った妙本寺(妙顕寺)に対し、四条櫛笥の旧地に妙顕寺を再建し本応寺(後の立本寺)と称しました。(尚、立本寺の創建に関しては諸説あり、上記したように、延暦寺の攻撃を受け、具覚月明が丹波へ避難している間、京都に留まった日実上人ら弟子達が、応永二十二年(1415)に四条櫛笥の妙顕寺旧地に本応寺を建立し、その後帰洛した月明と対立して分立したともいわれます)
妙覚寺や立本寺は妙本寺(妙顕寺)と同じ具足山と称して妙本寺(妙顕寺)と対立します。

さらに、具覚月明と対立し妙顕寺を去った中には、日慶、日隆等があり、応永年間(1420頃)、日慶上人は、かつての日像上人ゆかりの妙法蓮華寺(柳寺)を再興しました(妙蓮寺の再建)また、応永二十二年(1415)、日隆上人は、山本宗句の外護を得て、本応寺(後の本能寺)を創建しました。これらの寺院も妙本寺(妙顕寺)の弾圧を受けながらも発展していきます。



さて、その後、妙本寺(妙顕寺)は、日蓮宗(法華宗)洛中二十一本山の中心として栄え、室町時代後期には、法華宗徒は下京を中心に京都の人口の半分に達する程でした。
京都の上京を灰燼にした応仁文明の乱(1467〜1477)も、法華宗徒の多い町衆の集まる下京への被害は少なく、妙本寺(妙顕寺)は、応仁文明の乱の後に二条西洞院に移り、永正十一年(1514)十月十日には、流浪の将軍である十代義稙が、妙本寺に天下泰平を祈願させています。また、永正十六年(1519)、日芳上人の時代に元の妙顕寺に改名しています。
しかし、天文五年(1536)七月、六角氏等を味方にした比叡山大衆の攻撃を受け(「天文法華の乱(天文法難)」)、法華寺院の集まる下京は灰燼と化し、妙顕寺も他の本山とともに和泉堺の末寺へと逃れました。

そして、天文十七年(1542)に帰洛を許されて、旧地二条西洞院に再建されましたが、天正十一年(1583)九月、豊臣秀吉が、京都における政治拠点を築くために、妙顕寺を現在の寺之内通小川へ移転させました。
(尚、跡地には二条新第(妙顕寺城)が築かれ、天正十四年(1587)に聚楽第が築かれる前まで、豊臣政権の京都政庁の役割を果たしました。普段は秀吉の代理人として五奉行の一人、前田玄以が居住し秀吉の上洛時の宿舎となっていました。現在、二条城の東にある跡地には「豊臣秀吉妙顕寺城跡」の碑があります)

その後、天明八年(1788)の天明の大火により焼失しますが、天保五年(1834)前後に再建されていて、現在の建物はこの時に再建されたものです。また、江戸時代を通して、本圀寺(現山科区)と並び京都の日蓮宗の最大の拠点でもありました。
その後、明治時代に、分裂していた法華各宗派が大合同し、身延山を祖山と仰いで日蓮宗が結成されてからは、大本山として全国に三百余の末寺を統率しますが、昭和十六年(1941)の制度改革によって、全ての末寺を教団に解放しています。




後半は、かなり省略しましたが、それでも今回も書き過ぎて、字数オーバーとなりました。
次回は少しだけ、境内の建物等についでです・・


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