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今回は、向日市のシンボル的な存在の向日神社(むこうじんじゃ)です。
平安時代の由緒ある式内社で、古くは向神社、向日明神と呼ばれ、現在も向日市全域の鎮守社として「明神さん」の名前で市民から親しまれています。また、市を代表する観光名所としてお勧めクラスの史跡でもあります。
向日神社(京都府向日市向日北山)は、向日市の西部一帯にある向日丘陵の最南部、阪急電鉄西向日駅から北西約五百メートル程にある小高い丘に鎮座しています。
アストロ通り(京都府道六十七号線)という向日市商店街通りに面した大鳥居を潜ると、二百メートル程の御影石を敷きつめた長い参道が真直ぐ続き、その先に舞楽殿がかすかに見えます。
向日神社の最大の魅力の一つがこの参道で、両側には桜、つつじ、きりしまつつじ、楓等の木々が植えられていて、春の桜のトンネル、夏の新緑のトンネル、秋の紅葉のトンネルと四季折々の風情が楽しめる場所になっています。(ただ、乗用車での参拝者も多く、結構頻繁に車が参道を往来するので、徒歩の参拝者は注意が必要です)
また、先日、ブログに掲載したように、大鳥居の手前左脇には、日像上人ゆかりの説法石が安置され、参道の途中、右手にも他の説法石やさざれ石が置かれています。
さて、向日神社の祭神は、向日神(むかひのかみ)、火雷神(ほのいかづちのかみ)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、神武天皇(じんむてんのう)の四神です。
向日神社の創始の詳細は不明ですが、平安時代の『延喜式神名帳』に「乙訓郡十九座(大五座・小十四座)」の一社として記載された式内社で、神名帳では「山城国乙訓郡向神社(むこうじんじゃ)」と称され、後に同式内社の乙訓坐火雷神社(ほのいかづちじんじゃ 名神大 月次新嘗))を併祀して現在に至っているということです。 また、この両社は、同じ向日山に鎮座したことから、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていたということです。そして、上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬篤い神社として崇敬されました。
また、社伝によると、古代、大歳神(おおとしのかみ)の御子、御歳神(みとしのかみ)が、現在の鎮座地のこの峰に登られた時に、この地を向日山(向津日山)と称し、この地に永く鎮座して田作りを奨励されたことに始まるといい、祭神が向日山に鎮座されたことから、御歳神を向日神と呼ぶようになったと伝えています。
また、火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住んだ時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)を祀られたのが創立とされます。その後、奈良時代の養老二年(718)に、社殿を改築して新殿遷座した際、火雷大神の御妃神の玉依姫命と、創立の因縁によって神武天皇を併祭したとされます。
さて、少し話が長くなりますが、向日神社の下ノ社に祀られていた乙訓坐火雷神社(乙訓社とも)については、向日神社の他に、比定社として角宮神社(すみのみやじんじゃ 京都府長岡京市井ノ内南内畑)があるので、角宮神社の伝承や平安時代の古記録を加えて、乙訓坐火雷神社について補足してみます。
祭神火雷大神の最も古い伝承として、『山城風土記逸文』の賀茂伝説(京都の賀茂社(現下鴨神社)の創建伝承)があります。この逸文には、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと 下鴨神社主祭神)の娘、玉依媛命が、瀬見の小川(賀茂の川)で禊をしている時に、上流より流れて来た丹塗の矢を拾って寝床におかれたところ、矢は男神になって結婚し子供が生まれたという神話が記されていて、この玉依姫の夫神が乙訓国の郡の社の火雷大神(火雷命)と記しています。
その後、火雷大神の御子別雷神を祭神とする上賀茂社(上賀茂神社)や、玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社(下鴨神社)と共に乙訓坐火雷神社は、国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社とされてきたようです。
史書では『続日本紀』の大宝二年(702)七月八日の条で、「詔。伊勢太神宮封物者。是神御之物。宜准供神事。勿令濫穢。又在山背国乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。頻有徴験。宜入大幣及月次幣例。(伊勢の大神宮からの奉庫からの物資は紙の御物である。神事に供えるものなので、濫りに穢すことのないようにせよ。また、山城国乙訓郡にある火雷神は雨乞いを行う度に霊験がある。大幣と月次祭の幣帛を奉るようにするようにせよ。)」とあるのが初見になり、その後、宝亀五年(774)正月二十五日の条に、山城国司が「去年の十二月に乙訓郡の乙訓社で、狼や鹿が多く、野狐は百頭もいて毎夜吠えていましたが、七日で止みました。」と言上したとあり、これが原因で、同年六月五日には、乙訓社に山犬や狼の怪があるということで幣帛を奉っています。
延暦三年(784)十一月二十日には、近衛中将正四位上の紀朝臣船守を遣わして、賀茂上下二社に従二位を叙すと共に、兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚を遣わして松尾と乙訓の二神に従五位下を叙していますが、叙任の理由は長岡遷都のためでした。また、同月二十八日には、使者を派遣して賀茂上下二社と松尾、乙訓社を修理させています。
その後、『日本紀略』によると、弘仁十三年(822)八月三日には、乙訓社は広湍、竜田社等と共に従五位に叙され、 弘仁十四年(823)六月四日には、祈雨(雨乞い)のため貴布祢、広湍、竜田と共に幣帛を奉られました。以後、乙訓社は、賀茂上下、松尾、垂水、住吉、貴布祢、丹生川上社等と共に主に祈雨神として朝廷から崇敬され、『日本紀略』や『続日本後紀』、『文徳天皇実録』、『日本三代実録』といった国史に度々登場しています。
また、嘉祥三年(850)七月十一日には正五位下、貞観元年(859)正月二十七日に從四位下に叙されています。しかし、鎌倉時代初期の承久の変(1221)の戦乱で灰燼に帰したということです。
さて、前述したように、向日神社の社伝によると、向日神社は、元々、上ノ社(向神社)と下ノ社(火雷神社)に分れていましたが、建治元年(1275)、下ノ社の社殿が荒廃したことにより上ノ社に祭神の火雷神を合祀し、以後、下ノ社の再興が出来なかったため上ノ社に上記四柱を祀って、向日神社として現在に至っているとしています。承久の変(1221)の戦乱以降に衰退したという火雷神を祀る神社は向日神社の下ノ社だと推定されますが、一方、角宮神社の伝承では、衰退した乙訓坐火雷神社(現角宮神社の前身)の社地は、現在の向日神社の西約一.五キロの現在の長岡京市井ノ内の西部の宮山にあったと伝えています。
その後、室町時代の文明十六年(1484)になって、井ノ内宮山にあったという火雷神を祀る社が、鎮座地を変えてようやく復興されましたが、これが現在の角宮神社(すみのみやじんじゃ 京都府長岡京市井ノ内南内畑)になります。建治元年(1275)に火雷神を合祀した現在の向日神社と、その後、再建された近隣の角宮神社とは、共に元は式内社の乙訓坐火雷神社であるとして、どちらが正当な乙訓坐火雷神社の後継神社かという論争が古くからあったようですが、由緒ある歴史を掲げるのが寺社縁起の通例でもあり、残存する伝承資料の真偽を詮索しても結論の出る問題ではないようです。まして、参拝する際には一切関係ないことですが、少し情報として補足してみました。
また、向日神社の宮司は、平安時代以来、代々、「六人部(むとべ)家」が務めていますが、向日神社は、元々、六人部(むとべ)氏が自領に鎮守社を祀ったことが創始とも考えられます。
そして、幕末の向日神社の宮司、六人部是香(むとべよしか、1806(1798とも)〜1864)は、平田篤胤門下の国学者として知られ、孝明天皇にも進講し、坂本龍馬や中岡慎太郎、副島種臣等にも影響を与えたといわれています。
次回に続きます・・
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