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今回は、前回に続いて、向日神社の境内に隣接する勝山公園、勝山緑地と元稲荷古墳を採り上げます。
まず、向日神社に隣接する勝山公園、勝山緑地について簡単に書いてみます・・
向日神社の境内の西側一帯は、隣接する勝山公園、勝山緑地に溶け込んで自然豊かな空間を形成しています。まず、勝山緑地につながる向日神社の裏参道には、地元住民らの手で植えられ守られている「桜の苑」があり、ここには、水上勉の小説「櫻守」のモデル笹部新太郎にまつわる桜や、向日市との関わりを紹介したパネルなどがあるようです。(遠望した写真を掲載)
昭和四十五年(1970)に造られた「勝山公園」は、向日市民の遊び場、憩いの場となっている遊具と運動場のある普通の公園ですが、公園の一部に乙訓地方最古の古墳である「元稲荷山古墳」があるのが最大の特徴です。
また、「勝山緑地」は、勝山公園の西側に位置する緑豊かな空間で、クヌギ、ヤマザクラ、栗等に囲まれています。また、遠くは北側に愛宕山が見渡せるということです。
尚、「勝山」というのは、向日神社のある向日山の別称で、『山州名跡志』等によると、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵する際、向日神社に参拝し社人山の名を尋ねました。社人が「勝山」と返答したところ、秀吉は朝鮮出陣の門出に相応しいと大いに気に入り、以後、勝山と名付けられたということです。
さて、向日神社の鎮座する向日山は、向日市西部の向日丘陵の最南端に位置していますが、その山上に向日神社と元稲荷古墳(神社の北側の勝山公園内)があります。神社と古墳があることからも向日山は、古代からこの乙訓地域のシンボル的な山として、乙訓地域を治める人々にとって神聖な場所と考えられてきたと推測されています。そして、向日神社の創建も、この元稲荷古墳と何らかの関係があったとのではないかと考えられています。
元稲荷古墳は、後方部の頂上に稲荷神を祀る祠があったことから「元稲荷古墳」と呼ばれるようになった古墳です。現在は、勝山公園内に取り込まれて市民の憩いの広場、子供たちの遊び場になっていて、案内掲示板が無ければ、ただの公園の小丘としか感じられないでしょう。(以下、向日市の掲示板、向日市の広報誌から引用します)
元稲荷古墳は、向日丘陵先端部の尾根上に築かれた全長九十四メートルの、数の少ない前方後方墳の一つです。築造は三世紀末から四世紀初頭で、乙訓地域では最も古い古墳と考えられています。
(後方部は一辺五十二メートル、高さ七メートル。前方部は幅四十六メートル、高さ三メートル古墳時代(前期)前方後方墳、二段築成)
昭和三十五年(1960)、昭和四十五年(1970)の二回に渡って京都大学により発掘調査が行われ、その規模や性格が明らかになりましたが、それによると、墳丘の斜面に貼られた葺石は、偏平なタイル状のもので、弥生時代の終わりごろの墓の「貼り石」によく似たものでした。
また、後方部の中央には、竪穴式石室があり、大半が中世に盗掘されていましたが、鉄製武器(銅鏃・刀・剣・鏃・鎗・矛・石突)や鉄製工具(斧・錐)、土師器の壷が出土しました。
また、前方部の墳丘中央には、南北約二メートル、東西約四メートル範囲で埴輪が樹立していた部分があり、この埴輪は、円筒埴輪と壷型埴輪のセットで、弥生時代の墓に供えた土器を模して作られた古い形の埴輪であることが分かったということです。
このように、この元稲荷古墳は、墳形(古墳の形)や葺石の状態、出土した埴輪や土器などから、近畿地方における他の前期古墳の中でも、極めて特異な古い様相を示す重要な古墳であると考えられています。この他に、向日丘陵に築かれた前期の古墳には、五塚原古墳と寺戸大塚古墳がありますが、これらの古墳は、ほぼ同じ大きさをしていることから、この時代(古墳時代前期の三世紀末から四世紀初頭)には古墳を築くのに何らかの規制や約束事があったものと考えられています。
さて、元稲荷古墳は、後方部の頂上に稲荷神を祀る祠があったことからその名が付けられましたが、向日神社に残る江戸後期の境内図から、現在と同じく当時から、社務所のすぐ西側から元稲荷古墳へと続く小道があったことがわかるということです。
また、その後、明治二十年(1887)十二月、向日神社は、山林の中で祭祀がし難く、社殿も樹木の下で破損しやすいという理由で、京都府に対し稲荷社の移転願いを提出しました。京都府はこれを許可し、現在、参道の途中にある勝山稲荷社の位置に移され、元の場所は、元稲荷と呼ばれるようになったといわれています。
その後、大正時代になると、京都大学の実地調査により、この地が古墳であることは判明しますが、その後は、神社境内地のためか元稲荷古墳はそのまま昭和三十年代まで特に注目されることはなかったようです。
昭和三十四年(1959)九月になって、急増した向日町住民の水道需要に対応するため、向日町は、元稲荷古墳の後方部に配水池を建設することを決定し、京都府の指導で翌年一月から発掘調査が行われ、三月に工事を開始しました。この建設によって作られた施設が、現在、古墳の後方部頂上に見られます。 その後、昭和四十五年(1970)には、前方部を含む土地の売却計画が起こり、樹木が伐採されましたが、向日町は、向日神社と元稲荷古墳を保全するため、土地を買い上げ、現在の勝山公園を造り現在に至ります。
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