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阪急電鉄西向日駅の北西、史跡長岡宮大極殿の約百数十メートル西にあるのが、南真経寺(みなみしんきょうじ 京都府向日市鶏冠井町大極殿)です。
南真経寺は、山号を鶏冠山(けいかんざん)という日蓮宗寺院で、本尊は十界大曼荼羅です。
創建時は、「真経寺(しんきょうじ)」と言いましたが、江戸時代に二つに分れて(北真経寺、南真経寺)現在に至ります。(地理的には、両寺は、阪急電鉄京都線を挟んで、東西に約四百メートル離れています)そこで、二回に分けてこの二つの真経寺の写真を掲載します。(寺や向日市、向日市教育委員会の掲示板参照)
南真経寺(当初は真経寺)は 寺伝では鎌倉時代末の徳治二年(1307)、日像上人によって創建されたと伝えられます。(この年次については、延慶三年(1310)説もあります。)
開山日像上人は、宗祖日蓮上人の「帝都に日蓮宗を布教せよ(帝都弘通(ていとぐずう)」との遺命を受けて鎌倉時代末期に上洛しましたが、他宗派の攻撃を受けて、しばしば京都から追放されました。(この三度の追放とその度の赦免を「三黜三赦(さんちつさんしゃ)」といいます。南真経寺は、この追放中の日像上人が出会った寺院で、山門脇の寺名を刻んだ石標には「開山日像菩薩(日像上人)三黜三赦之霊蹟」と刻まれています。)
(日像上人については、このブログの京都市上京区の妙顕寺について書いた際や、最近、説法石について書いた際にも出てきましたので、以下に、引用して簡単に書いておきます・・)
日像上人は、文永六年(1269)八月十日、甲斐源氏の流を汲む豪族、平賀忠治の子として下総国平賀(現千葉県松戸市の本山本土寺の地)に誕生し、幼名を万壽麿といいました。健治元年(1275)七歳で出家して異父兄に当たる、日朗(日蓮の高弟)上人の弟子となり、その後、身延山の宗祖日蓮上人に対面します。日蓮上人は以後、経一丸(きょういちまる 経一麿とも)と名付け身近に仕えさせ教育を施しました。
さて、弘安五年(1282)九月、体調を崩した日蓮上人は、約九年を過ごした身延山を降りて、同月十九日、武蔵国千束郷の門下、池上宗仲の館(現在の東京の池上本門寺)に入りました。臨終を悟った上人は、十月十一日、多くの弟子や信者の中で、日朗上人の弟子で十四歳の経一丸(きょういちまる 経一麿とも)を特に枕元に呼び、最後の遺命として、帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)と宗義天奏(しゅうぎてんそう 天皇への布教)を遺命しました。
当時、まだ関東を中心にした地方教団だった日蓮の教団が全国的に発展するためには、何としても天皇のいる京都(帝都)での布教が必至でした。しかし、旧仏教有力寺院の多い京都での布教は大変な難事が予測されるものでもあり、十四歳の経一丸には教団の将来にかかわる非常に重い任務が託されたといえます。こうして、弟子達に後を託した日蓮上人は、十三日の辰の刻(午前八時)に六十一歳で入滅しました。
さて、その後、経一丸は、直ぐに名を日像と改め、日朗上人を師として修行に励み、永仁元年(1293)二十五歳の時、翌年の日蓮上人十三回忌を前にして、帝都弘通の大目標を決行することを決意し、この難事業に耐え抜くため、鎌倉比企ケ谷で寒中百日間の荒行を行って心身を鍛えました。そして、翌永仁二年(1294)二月に鎌倉を出発、三月には佐渡の師(日蓮上人)の霊跡を巡拝しながら北陸道を京へ向かいました。
そして、四月に入洛を果たすと布教活動を開始します・・妙顕寺に伝わる「龍華歴代師承傳」によると、日像上人は、この年(永仁二年)の四月二十八日の早朝、御所の正門(東門)前で昇っていく朝日に向かって立つと、法華経の題目を高らかに唱え始め、一日中唱えて夕方になっても止めなかったと伝わります。五月十三日、同二十一日にも街中の十字路で大声で題目を唱え続け、その後は洛中各所で毎日辻説法を続けて貴賎様々な人々を勧誘し、綾小路大宮に法華道場として法華堂(妙顕寺の前身)を建立し、布教活動を続けました。
次第に上人に入門を求める者が増える一方で、既存宗教を邪宗と弾劾する日像の説法に対し、延暦寺等他宗派の迫害も起って布教活動の停止を朝廷に訴えました。徳治二年(1307)五月二十日、日像上人は後宇多上皇の勅命で、京を追われ土佐国播多への流刑を命じられますが、洛西の乙訓郡付近に留まって布教活動を続けました。
さて、南真経寺についてです・・
こうして、日像上人は、徳治二年(1307)頃 乙訓郡山崎付近に留まって布教活動を行っていましたが、当時 鶏冠井(向日市 鶏冠井町)には真言寺という真言宗の寺院がありました。
真言寺住僧の実賢は、日像上人の教化によって日蓮宗に改宗し、寺名も真経寺と改めました。(真言寺の「真」と、日像上人の幼名 経一丸の「経」から名づけられました。時期に関しては、延慶三年(1310)説もあります)
こうして、真経寺は関西における日蓮宗の最初の寺院となり、以後日像上人の布教活動の拠点となりました。(前にブログに書きましたが、 現在 向日神社の参道前の左に日像上人が石に座して説法したと伝えられる「説法石」が祀られています)
真経寺は 元々一寺でしたが、江戸時代の承応三年(1656)、南北の二つに別れ、北真経寺は壇林(仏教の学問所)、南真経寺は鶏冠井村民の信仰の場となりました。(また、向日市鶏冠井の石塔寺には、法華経の信仰を現した鶏冠井題目踊りが伝えられ 京都府無形文化財に指定されています。)
明治の初期頃に整理された寺の台帳には、山門正面にある桁行八間・梁行七間の開山堂が、寛永十一年(1634)に、方四間の本堂が正徳四年(1714)に、鐘楼は元禄十二年(1699)に建立されたと記されています。(本堂、開山堂は、京都府の文化財(建造物)に指定)また、開山堂の「真経寺」の扁額は、本阿弥光悦の筆、「鶏冠山」の額(寛文十三年(1673))は、南峯信海の筆によるものです。
寺宝には伝日蓮像、伝日朗像等々があり、御霊宝箱に納められ、南北真経寺の間で半年ごとに管理されていますが、特に、その中の「尊性法親王消息翻慴法華経開結共十巻(そんしょうほうしんのうしょうそくほんしゅうほっけきょうかいけつともじゅっかん)」は、昭和五十四年(1979)六月六日に、国の重要文化財に指定されています。これは、鎌倉時代の尊性法親王(後高倉院の子)の手紙の裏に木版で法華経を印刷したもので、当時の政治情勢を知ることができる貴重な手紙であるとともに、木版刷りの法華経を当時のままに伝える珍しい寺宝です。
また、年中行事としては、初講(一月二十日)、鬼子母尊神春祭(一月二十八日)、春季彼岸法要(三月二十三日)、最上位御祭礼(八月二十六日)、秋季彼岸法要(九月二十三(九月二十三日)、宗祖御会式(十一月四日)、鬼子母尊神秋祭(十一月十八日)があります。
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