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前回、南真経寺を採り上げましたが、今回は北真経寺です。(地理的には、両寺は阪急電鉄京都線を挟んで、東西約四百メートル離れています)
阪急電鉄西向日駅の北東約五百メートルにある北真経寺(きたしんきょうじ 京都府向日市鶏冠井町御屋敷)は、南真経寺と同じく山号を鶏冠山(けいかんざん)という日蓮宗寺院です。(本尊は一塔両尊四士)(以下、寺や向日市、向日市教育委員会の掲示板参照)
北真経寺は、創建時は、「真経寺(しんきょうじ)」と言いましたが、江戸時代初期の幕府の仏教統制によって二つに分立し(北真経寺、南真経寺)現在に至ります。
説法石や南真経寺を採り上げた際に書いたように、鎌倉時代の永仁二年(1294)に入洛した日像上人は、洛中で活発に布教活動を行って、次第に有力な町衆を信徒にし、洛中に妙顕寺を建立しました。そして、後醍醐天皇から独立した一宗と認められ、洛中での布教に成功することになります。しかし、それまでの四十年の間は、比叡山を中心とする他宗からの迫害を受け、洛中を追放されること三度に及びました(「三黜三赦(さんちつさんしゃ)」)
さて、日像上人が流刑地の西国に向かう途中に、西国街道沿いの向日神社(当時は向日明神)や鶏冠井の集落を通ったことが、後に向日神社や鶏冠井に日像の霊跡を生むことになります。
徳治二年(1307)頃、日像上人は、乙訓郡山崎付近に留まって盛んに布教活動を行っていましたが、ある時、向日明神に法華弘通の祈願をし境内に野宿して一夜を明かしたところ、夢のお告げに白髪の老人に変じた明神が現れ、この地に法華経を広めるようにと告げました。これを縁に、日像はこの西ノ岡周辺での布教を強化しました。
特に鶏冠井の集落においては日像の教化に心服する村民が多く、日像は当時、鶏冠井の地にあった真言宗寺院・真言寺の住持、実賢律師と法論を戦わすことになりました。三昼夜の法論の末、ついに実賢は日像に帰依して弟子となり、真言寺は日蓮宗に改宗、改名して真経寺と称するようになりました。
以来、真経寺は村民の信仰を集めるようになり、鶏冠井は関西初の日蓮宗集落として日像上人の布教活動の拠点の一つとなりました。(尚、日像上人の最初の帰依者となった上辻三良(三郎)四郎家は当山の檀家として現在に至るということです)
さて、江戸時代になると、鶏冠井に宗門の学問所=壇林が設けられることになり、それまで一つだった真経寺は、二つに分かれ、 南真経寺(みなみしんきょうじ 京都府向日市鶏冠井町大極殿)と北真経寺(京都府向日市鶏冠井町御屋敷)になりました。そして、北真経寺は、学僧の集まる学問所として、承応三年(1656)、通明院日祥(つうめいいんにっしょう)和尚によって開講され、鶏冠井壇林として知られるようになりました。
境内には九棟の所化寮(学僧の寄宿舎)をはじめとする学舎が建ち並び、盛時には百名を超える学僧が集まり、教義を学んでいたということです。しかし、多くの学僧を育てた壇林も明治八年(1875)に廃止され、明治十一年(1878)には本堂周辺の五つの学舎等もほとんどが解体されました。
しかし、現在の本堂や東隣の食堂等は、壇林の面影を良く留めていて、特に本堂は壇林時代の講堂を受け継ぐ貴重な遺構として、京都府の登録文化財に指定されています。
また、壇林時代に所有していた教義書やその版木、壇林学徒の名札、学僧の守るべき定書をはじめとする多数の古文書が現在まで保存されています。そして、近年に実施された境内の発掘調査では、学僧が使用していた陶磁器等が発見されました。
日像坐像(鎌倉末期の肖像彫刻)他、中世以来の由緒を伝える寺宝は、御霊宝箱に納められ、南北真経寺の間で半年ごとに管理されていますが、「尊性法親王消息翻慴法華経開結共十巻(そんしょうほうしんのうしょうそくほんしゅうほっけきょうかいけつともじゅっかん 国の重要文化財)をはじめ、日像上人の所持品も含まれ、その他、壇林時代の多数の古文書版木、曼荼羅が保存されています。
また、年中行事としては、初講(一月第三日曜日)、星祭(二月六日)、春季彼岸会(三月)、盂蘭盆施餓鬼会(八月十七日)、鬼子母神会(九月七日)、秋季彼岸会(九月)、御火焚祭(十二月十五日)があります。
最後に、北真経寺の境内一帯は、かつての長岡京の内裏の中心部で、寺の西側の道路を隔てた公園は、内裏内郭築地回廊跡に設けられたものです。次回は、この公園を採り上げます。
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