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阪急電鉄の西向日駅の東、約百五十メートルにあるのが、史跡長岡宮の築地跡地区です。
現在まで発掘されてきた長岡宮史跡の中では最も南に位置している遺構です。(向日市教育委員会の案内板を引用)
内裏南方築地跡は、昭和五十四年(1979)二月 道路の改良工事の際発見された長岡宮の築地塀の跡です。築地塀というのは、土を叩きしめて積み上げた上塀のことで、古代から都城地方の役所や寺院等では敷地の囲いとして盛んに作られました。
しかし、古代の築地が現在まで残っているのは極めて稀で、他には平城宮や多賀城、法隆寺等に残るのみです。このため、本遺跡は昭和五十六年(1981)九月八日に、国の史跡に指定されました。
さて、この築地跡は、長岡宮の朝堂院の東百メートル、内裏の南百四十メートルに位置し、特に先にブログに掲載した内裏の西面内裏内郭築地回廊跡とは南北に一直線に並んでいます。
そして、築地の構造は二つの部分からなっています・・まず初めに、塀全体を高くするため基底に幅十メートル、高さ、一.七メートルの土塁を構築します。この土塁の上に築地を築いています。築地は幅二.一メートルで、現在残っている高さは一.〇〜一.二メートルです。かつては南北にさらに延びていたようですが現在 八十二メートル分しか残っていません。築地の東側には 裾から〇.九メートルの地点に雨落の跡があり、軒がこの位置まで延びていたことが判明しています。
さらに、屋根は瓦葺きで、土塁の外側土面は凝灰岩で覆われていました。また、これらの屋根瓦の大半は、平安遷都の際に平安京に運ばれましたが、破損瓦は捨てられました。この瓦を調べると、築地の屋根には 平城宮・難波宮・藤原宮で使われていた瓦と長岡宮用として新たに焼かれた瓦が使用されていました。平城宮と長岡宮の瓦は三十五%ずつと多く、朝堂院地区に多く見受けられました。また、難波宮の瓦は八%と極端に少なく、難波宮と平城宮・長岡宮とでの違いが見受けられました。また、
「修」や「理」という字を刻印した瓦も多く出土しましたが、これらは塀と溝等を修理する「修理」官と呼ばれる役所が作らせた瓦です。
しかし、まだ、この築地塀に囲まれていた役所が何だったかは 解明されていません。
『続日本記』には、延暦四年(785)八月二十三日、太秦公忘寸宅守(うずまさのきみのいみきやかもり)が太政官の築地を築いたことが書かれています。そして、平安宮の役所の配置図によれば、朝堂院の東には北から、詔勅を司る重要な役所の中務省(なかつかさしょう)、行政全般を統括する太政官(だじょうかん)、財政を司る民部省、人事を司る式部省が並んでいます。そこで、本築地と朝堂院との位置関係から、本築地を太政官の築地とする説があります。
一方、築地が延暦八年(789)二月二十八日に完成した東宮(第二次内裏)の西面回廊と一直線に並び、瓦の組合せもよく似ていることから内裏と関係の深い建物(例えば延暦八年以降の史料に表れる「南院、南園」があったとも考えられています。
解明までは、まだ今後の調査が必要ですが、当地に相当重要な役所(建物)があったことは確実と考えられています。
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