京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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一条戻橋その1

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有名な割に、実際に見るとあまり印象に残らない史跡というのがありますが、一条戻橋(京都市上京区堀川下之町)もそういった史跡のように思います。

現在の戻橋は、普通のコンクリート造の特徴の無い橋なので、すぐ下流に架かる石組造りの堀川第一橋(中立売橋)と勘違いする人もある位です。しかし、戻り橋が、平安遷都の際に架橋されて以来、何度も石橋を架け替えながらも、現在までその位置をほとんど変えず存在してきた貴重な橋であることは確かなようで、古くから多くの伝説に彩られ、洛中の名橋として知られていました。


さて、平安時代、戻り橋のある一条大路(現一条通)は、平安京の最北の通りで、戻り橋は、堀川小路の中央を流れる堀川(川幅約四丈(約十二メートル))に架けられていました。
堀川は、当時、平安宮内裏の東の外堀の役割を果たしていたとされ、戻り橋付近は、平安宮の鬼門(北東角)に当たりました。そして、一条大路((現一条通)が平安京の洛中と洛外を分ける北の境界線でもあったことから、後世、あの世と此の世の境界、死者が甦ったり、霊や鬼等の伝説を生んだと思われます。(南の境界に当る九条大路(九条通)の羅生門と共通する所がありそうです)



元々「土御門橋」と言われていたこの橋が、何時頃、「一条戻橋」と呼ばれるようになったのかは不明ですが、平安時代中期の和泉式部の歌に、「いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とはひとのいふらん」(和泉式部)とあり、恐らく、平安中期以降には、この名前が定着していたと思われます。

そして、「戻橋」と言う名前の由来としては、西行に仮託された説話集『撰集抄』(鎌倉時代以降成立)の巻七第五に以下のような記載があることが知られます。

「仲算事浄蔵は、善宰相の正き八男そかし。其に八坂の塔のゆるめ<る>を、祈直し、父の宰相の此土の縁つきて去給ひしに、一条の橋のもとに行合て、且く観法して蘇生し奉られけり。伝へ聞も有かたくこそ侍れ。さて、其一条の橋をはもとり橋といへるとは、宰相のよみかへり給へる故に名付て侍り。源氏の宇治の卷に、行くはかへるはしなりと申たるは、是なりとこそ行信は申されしか。宇治の橋といふは、誤れる事にや侍らん」

平安時代中期の漢学者・文章博士の三善清行(みよしきよゆき・きよつら 847〜919)が亡くなって、その葬列がこの橋に差し掛かった時、修験道の修行をしていた子の浄蔵(じょうぞう)が駆けつけて、父の棺の前で一心に読経すると、父清行が生き返ったことから、以来、死者が蘇る橋として知られるようになったということです。
(尚、『撰集抄』は、源氏物語の宇治の帖に「行はかへるはしなり」とあるのは、この橋の事であるとも記していますが、現在の宇治十帖には、該当する記述は見当たらないようです。成立当初から多くの写本が存在した源氏物語は、本文を整理した校訂版が現在に伝わりますが、当時の諸本中には、そのような記載があったのかもしれません。)


また、戻橋では橋占(はしうら)も盛んに行われていたようです。
橋占は、辻占(つじうら かつて、道路は人と同じく神も通る場所である考え、道の交差点に立って、偶然通る人の言葉を聞いて、これを神のお告げと考えました)と同じく占いの一つで、橋は異界とつながりの有る場所と考え、橋の袂で橋を通る人々の言葉を聞いて、神のお告げと考えました。

『源平盛衰記』(巻十)には橋占に関する、以下のような記載があります・・

「中宮御産事 治承二年十一月十二日、寅時より中宮御産の氣御座すと訇けり。去月廿七日より、時々其御気御座けれ共、取立たる御事はなかりつるに、今は隙なく取頻らせ給へども、御産ならず。二位殿心苦く思給て、一條堀川戻橋にて、橋より東の爪に車を立させ給て橋占をぞ問給ふ。
十四五許の禿なる童部の十二人、西より東へ向て走けるが、手を扣へ同音に、摺は何摺、國王摺、八重の鹽路の波の寄摺と、四五返うたひて橋を渡、東を差て飛が如し失にけり。
二位殿帰給て、せうと平大納言時忠卿に角と被仰ければ、波のよせ榻こそ心に候はねども、国王榻と侍れば、王子にて御座候べし。目出き御占にこそ候へとぞ合たる。八歳にて壇浦の海に沈み給てこそ、八重の塩路の波の寄榻も思ひしられ給ひけれ。
一條戻橋と云は、昔安部晴明ガ天文の淵源を極て、十二神將を仕けるが、其妻職神の貌に畏ければ、彼十二神を橋の下に呪し置て、用事の時は召仕けり、是にて吉凶の橋占を尋問ば、必職神人の口に移りて、善惡を示すと申す、されば十二人の童部とは、十二神將の化現なるべし。」



少し省略した意訳を掲載します・・

高倉天皇の中宮建礼門院が出産する際、中々出産に至らない事を気にした母の二位殿(平時子)は、一条戻橋の東の袂に車を止め橋占を行いました。
この時、十二人の童子が、西から東へと手を打ち鳴らし「摺は何摺、國王摺、八重の鹽路の波の寄摺」と歌いながら橋を渡り、あっという間に消えていきました。この事を大納言平時忠に話すと、波云々・という件は思い当たらないが、国王と言うからには、これは皇子が生まれる目出度い占いだと一致したということですが、「八重の鹽路の波の寄摺」という童子達の歌は、八歳で壇ノ浦で海に沈む皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する内容だったようです。
また、一条戻橋は、かつて、安部晴明が天文を極め十二神将使役しましたが、彼の妻が識神(式神)の顔を怖がったので、晴明は十二神将を橋の下に呪し置いて、必要な時に召喚していたとし、吉凶の橋占いを尋ね問うと、識神が人の口に移って善悪を示したということから、十二人の童子達とは、十二神将の化身だったのだろうと伝えています。




以上のような伝説は古くから知られていたようで、一条戻橋に関しては、『都名所図会』、『山州名跡志』、『雍州府志』等の江戸時代の京都案内にも必ず掲載されています。

例えば、『都名所図会』は、「戻り橋は一条通の堀川の上にあり、安倍晴明十二神将を此橋下に鎮め、事を行ふ時は喚で是を使ふ。世の人吉兆を此橋にて占ふ時は神将かならず人に託して告るとなん。(源平盛衰記に中宮御産の時、二位殿一条堀川戻橋の東の爪に辻占を間給ふとなん)又三好清行死する時、子の浄蔵父に逢んため熊野葛城を出て入洛し、此橋を過るに及んで父の喪送に遭ふ、棺を止て橋上に置、肝胆を摧き念珠を揉、神祇を祷り、遂に呪力陀羅尼の徳によつて閻羅王界に徹し、 父清行忽蘇生す。浄蔵涙を揮て父を抱き家に帰る、これより名づけて世人戻橋といふ。是洛陽の名橋なり」と、これまで掲載したような内容を記し、また「婚礼の輿入、この橋を通るを嫌ふは、橋の名によりてなり。又旅立、人にものを貸時通るは、これに反すとやいふべき」と、婚礼の輿入の際は、出戻りを嫌って橋を渡らないこと、また逆に、旅行に行く時や、他人に物を貸した際は、戻ってくるように戻橋を通った方が良いとされていたことを記しています。


『山州名跡志』巻十七(洛陽)は、「戻橋 在一條通堀河上、渡二東西、此洛の名橋也、傳云、安陪晴明十二神を呪置處也、神社考曰く 晴明役二使す十二神将を 妻畏し職神の形を、因て呪し以て置く二十二神を干、一条の橋の下に一有る事時は喚て而使ふ之を、自是世の人占ふ吉凶を干橋の邉に則神必す託す人以告ると云ふ、又云ふ三善の清行死す、子浄蔵祈て之を干一条の橋の下に而清行蘇生す、故に世の人号の云ふ反橋云々、愚按、晴明使神を此所に呪し住すむるは、其居所に近き故ならん歟、其居一條堀河の西二町の所也、今猶晴明町と云ふなり、夜陰此橋の邊に立て、往反の詞を聞て占問こと古今の例にして感應嚴重也、治承二年十一月十二日寅の時より中宮御難産なり、此橋の東の爪に車を立て占を聞れん事載す源平盛衰記、又恵心の僧都西方往生の得否を、此橋に占とへる事載す念仏三心要集に、又法然上人の弟子西山上人出家の事を母此橋に占とふ事載す證空ノ伝記 古老の曰く、右此橋は晴明所なり二呪封する也、橋の邉の土中一丈許り下に如そ櫃畳石を為す蓋あり、先年就く洪水に一漸見はる、皆以為れ恐れを覆ふと土を云々」と記しています。

こちらも、これまで記載した内容との重複が多いですが、晴明が十二神を戻橋の下に隠していたのは、屋敷から近いからだろうと記し、また、洪水によって、戻橋の下の土の中から蓋をした櫃が露出したことがあって、皆恐れて埋めたことを記載しているのが興味深いです。また、恵心僧都源信の西方往生の得否、西山上人證空(証空)の母が少年時代の上人が出家すべきか戻橋で橋占を行ったというのも注目されます。



さらに、一条戻橋といえば、渡辺綱(わたなべのつな)の鬼退治の話が有名で、屋代本『平家物語』(剣巻)は、初めに鬼の正体を説明し、その後、渡辺綱と鬼との対決を描いています。

尚、鬼の正体は、「丑の刻参り」の伝承例として知られ、謡曲「鉄輪」にも登場する「宇治の橋姫」で、他にも多くの伝説に登場する有名な鬼女です。原文も掲載しようとしたのですが、字数オーバーなので、「宇治の橋姫」の誕生シーンは訳のみとさせていただきます・・・


嵯峨天皇の時代に、ある公卿の娘がいました。非常に嫉妬深く、貴船神社に詣でて七日間籠って祈るには、「貴船大明神さま、七日間籠もったあかつきには、私を生きながら鬼神にしてください。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈りました。貴船明神は哀れと思って、「そなたが言うことはまことに可哀想だ。本当に鬼になりたいのであれば、姿を変えて、宇治川に行って二十一日間漬るのだ。」とお告げがありました。
女房は喜んで都に帰り、人のいない場所に籠って、長い髪を五つに分けて五つの角にし、顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を頭に戴せて三つの足には松の木を燃やし、松明を咥えて両端に火を付け、夜更けに人がいなくなった後、大和大路へ走り出で南へ向かいましたが、頭から五つの火が燃え上り、眉太く、歯を黒く染め、顔も体も赤く、まさに鬼の姿で、この姿を見た人は、皆衝撃を受けて倒れ死んでしまいました。このような姿で宇治川に行って二十一日漬ると、貴船神社の計らいで、生きながら鬼となりました。宇治の橋姫と言われるのはこの鬼のことです。
さて、妬しと思う女やその関係者、自分を嫌う男の親類等、さらに身分の上下をも問わず、男女に関係なく思うままに誰でも取り殺しました。男を取り殺すときは女に変身し、女を取り殺すときは男に変じて人を取るのでした。京の都中の身分の高い者から低い者まで、日没の午後四時頃以降は、人を家に入れず出る事も無く、門を閉じるようになりました。



(次回は渡辺綱と鬼(宇治の橋姫)の対決シーンからです)


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