京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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上京区平野八丁柳町にあるのが、第78代二条天皇の御陵「二条天皇香隆寺陵(にじょうてんのうこうりゅうじのみささぎ)」です。住宅地に囲まれた他の天皇陵と何ら違わない普通の天皇陵という印象ですが、面積はかなり広く、比較的近い三条天皇北山陵や花山天紙屋川上陵よりも雄大な印象です。


第78代二条天皇(1143〜65)は、後白河天皇の第一皇子で、名を守仁(もりひと)といいました。守仁親王は、生母(源懿子)の死により、祖父の鳥羽上皇に引き取られて、その皇后・美福門院(藤原得子)により育てられていたために、父後白河との関係は疎遠だったようです。

少し溯ります・・・久寿二年(1155)、鳥羽上皇と美福門院は、最愛の息子・近衛天皇(鳥羽と美福門院間に生まれた第九皇子)が17歳で病死したことから、憎んでいた崇徳上皇(鳥羽の第一皇子 鳥羽が子の崇徳を、自身の祖父・白河上皇の子と疑い、叔父子と呼んだという話は良く知られます。)の復位(また、崇徳の皇子・重仁親王の即位)を阻止する為に、「文にあらず武にもあらず、能もなく芸もなし」とこれも天皇の器では無いと考えていた第四皇子・雅仁(まさひと)親王(後の後白河天皇)を天皇にすることを決意しました。
実は、鳥羽上皇と美福門院は、養育した孫・守仁親王(二条天皇)が、後に「末の世の賢王におはします(今鏡)」と記されるほどの優れた才能があったために、天皇に即位させたいと考えたのですが、親王がまだ幼少で、その父が皇位を継いでいないというのも憚られた為、とりあえず中継ぎとして暗愚な父の後白河を即位させたというのが実状だったようです。翌保元元年(1156)、鳥羽上皇が崩御すると、たちまち保元の乱が勃発し、後白河は、兄・崇徳上皇派を破ることに成功します。



さて、後白河は3年後の保元三年(1158)に、皇位を守仁親王に譲って上皇となり、こうして15歳の二条天皇が誕生します。二条天皇の治世は、院政を敷く父・後白河上皇との対立の時代でもありました。元々、鳥羽上皇が期待したように、二条は才能のある若者で、後白河の院政を良しとせず、二条の親政を期待する美福門院一派等上級貴族の支持を集めていました。これに対し、後白河の力はまだ弱かったものの、摂関体制下で日陰の身だった乳母の夫・藤原通憲(信西)を重用し、信西は源義朝や平清盛といった武士との結び付きを進言します。この武家との結びつきが、その後白河院院政を強め、さらに平氏政権を生み出していくことになります。
しかし、後白河を支える勢力内では、藤原通憲(信西)と藤原信頼、平清盛と源義朝が対立を激化させ、平治元年(1159)に「平治の乱」が勃発します。この時、二条天皇は後白河と共に反乱勢力に幽閉されますが、清盛の六波羅邸へ逃れることが出来ました。

平治の乱後も、院政を推進しようとする後白河と、天皇親政を行おうとする二条との対立が続きます。永暦元年(1160)、二条は近衛天皇の皇后だった太皇太后・藤原多子(2人の天皇の妃となったことから「二代の后」と呼ばれました。)を入内させますが、これも二条が鳥羽・近衛天皇の正当な後継者としての地位を固めて、後白河院政を牽制するためだったともいわれます。この年以降、美福門院が死去するなど二条天皇の勢力は弱まりますが、特に大きかったのは、応保元年(1161)に、後白河と寵愛する平滋子(建春門院 平清盛の妻時子の妹)の間に、新しい皇子(憲仁新王 後の高倉天皇)が誕生したことでした。

後白河の長男・二条天皇(次男の以仁王もそうです)は、幼少時より後白河と離されてその後も鳥羽上皇一派によって育てられ、父と疎遠な関係にあったわけですが、新しく生まれた皇子は、後白河にとって寵愛する平滋子(建春門院)との間の愛息であり、平家との結び付きを強化するためにも待望の天皇候補だったからです。早速、この憲仁親王を皇太子にしようとする平時忠らの陰謀が発覚して、二条は時忠ら後白河派の近臣を解官して後白河派を圧迫します。

長寛二年(1164)には今度は二条に待望の皇子(順仁親王 後の六条天皇)が誕生して、二条天皇の親政推進派、後白河上皇の院政推進派が共に後継者を得ることになりました。両者の対立はさらに激化することが予測されましたが、意外な事態で決着します。
長寛三年(1165)に二条を支えた太政大臣・藤原伊通が死去し、さらに、二条自身も病に倒れ2歳の皇子・順仁親王(六条天皇)に譲位し、翌月に23歳で崩御したのでした。二条の死によって、後白河は最終的に勝利をつかみました。後白河は平清盛と結んで、幼帝・六条天皇を在位二年数ヶ月、五歳で譲位に追い込んで、自身の子・八歳の高倉を即位させました。こうして、後白河は以後の高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇とさらに院政を続けることになります。




さて、二条天皇は亡くなると、遺骸は火葬にされて、遺骨は香隆寺の境内に造られた三昧堂に納められたと伝えられます。この香隆寺という寺院は、平安時代中期に創建された真言宗の寺院で、現在の京都市北区に位置したと伝えられます。かつて白河上皇が崩御した際も、火葬後に遺骨は一旦香隆寺に埋葬され、後に鳥羽離宮の御堂成菩提院が完成した後に改葬されているように由緒ある由緒ある寺院だったようですが、中世(鎌倉)以降に廃絶してしまったためにその跡地も、二条天皇の陵墓の所在も不明となりました。
平家物語には「香隆寺の東北、蓮台野の奥、船岡山にをさめ奉る」とあり、平安時代に葬送の地として知られた衣笠山から船岡山一帯にあったことは確実で、船岡山説や衣笠山説等諸説がありましたが、明治二十二年(1889)に香隆寺の跡地を推定して、等持院の東に位置する現在地に円丘の御陵が造られました。もちろん推定であり実際にこの地に陵墓があったかは不明です。尚、この陵墓から南西200m余りの地には堀川天皇の火葬塚があり、堀川天皇の遺骨も一時香隆寺に安置されていたとも伝えられます。

最後に、先程も書きましたが、衣笠山から船岡山にかけての付近一帯は平安時代には葬送地で、皇室の荼毘所となった地域でもありました。そのために多くの陵墓や火葬塚があります・・・二条天皇香隆寺陵の他にも、堀川天皇火葬塚、白河天皇火葬塚、花山天皇紙屋川上陵、後朱雀天皇火葬塚、一条天皇・三条天皇火葬塚、三条天皇北山陵、近衛天皇火葬塚、後冷泉天皇火葬塚等が点在しています。これらについても少しづつ採り上げてみたいと思います。

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