京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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光明寺その1

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京都府長岡京市粟生西条ノ内にある光明寺(こうみょうじ)は、西山浄土宗の総本山で、浄土宗開祖、円光大師法然上人が初めて念仏を唱えたとされる地(浄土門根元地)に建つ由緒ある大寺院です。
また、京都の西山を代表する紅葉の名所として知られ、平成十六年(2004)からは、善峯寺(京都市西京区大原野)や楊谷寺(柳谷観音 京都府長岡京市浄土谷)と共に「京都・西山三山」として連携し、自然豊かな京都西山を代表する三つの信仰の場として観光客にも広くアピールしています。
(普段は境内自由ですが、紅葉期間は特別拝観として有料となります。別名「もみじ寺」と呼ばれるように、紅葉の鮮やかさは西山屈指といわれるので、やはり紅葉期間に行くべきでしょう。)


(尚、今回訪問した日は十一月二十六日で、「西山忌」が行われていました。「西山忌」は、宗祖法然上人の教えを受け継いだ光明寺第四世、浄土宗西山派の祖・西山(せいざん)上人こと證空上人の忌日の法会で、今年は第七百五十八回目に当り、御影堂では仏賛歌奉納、法要等が行われました。)

光明寺は、洛西一の伽藍を持ち、境内五万六千平方メートル(約一万八千坪)という大寺院なので、三回に分けて写真を掲載してみます。(光明寺、長岡京市のHPを参照します。)



光明寺は、山号を報国山という西山浄土宗の総本山で、(正式名は報国山念仏三昧院光明寺)、本尊は阿弥陀如来です。
寺伝によると、鎌倉時代初期の建久九年(1198)、法然上人の弟子の蓮生法師(俗名・熊谷次郎直実)の開基とされ、法然上人を開山第一世としています。また、法然上人が念仏の教えを最初に説いた「浄土門根元地」「立教開宗発祥の地」ともいわれ、創建当初は、念仏三昧院と称していました。法然上人二十五霊跡十六番、京都洛西観音霊場七番札所でもあります。


光明寺のある西山の粟生野・広谷と法然上人との関係は、保元元年(1156)、法然上人が二十四歳(1157)の時に遡ります。
当時、比叡山西塔の黒谷で念仏修行を行っていた法然上人は、天台宗だけでなく諸宗の教学を学ぶため、京や南都(奈良)の高僧を訪ねて教えを受けていました。
この時も、嵯峨清涼寺に参籠した後、南都の学匠を歴訪する旅の途中、この粟生野の里の長者だった庄屋・高橋茂右衛門の邸に一夜の宿を借りました。茂右衛門夫婦は、民衆を救いたいという上人の求道の志に感銘を受け、教えを見出した後は、是非最初に自分たちに教えを説いていただきたいと願いました。上人は快く「我正しく、凡夫往生の道を開いた暁には、まず御身にその喜びを分かとう」と約束しました。

その後、二十年の時を経て、承安五年(1175)春三月、四十三歳の法然上人は比叡山を下りて浄土宗を開きました。そして、各地を説法して回る前に、二十年前の約束を思い出して、先ずこの地で茂右衛門夫婦に念仏往生の教化の第一声を挙げたと伝わります。こうして法然上人は、一時粟生広谷に住んだ後、間もなく東山吉水(知恩院御影堂付近)に移りました。


さて、文治元年(1185)頃、源平の戦いで知られる武将・熊谷次郎直実が、吉水の法然上人を訪ねます。直実は、一の谷の戦いで平敦盛を討ってから世の無常を強く感じ、戦の罪業を償う道を模索していたといわれます。法然上人の教えに感動した直実は、弟子入りして剃髪、法力房蓮生の名を授けられました。(出家は建久三年(1192)頃とも)
その後、蓮生法師(熊谷直実)は、数年の修行の後、建久九年(1198)、上人ゆかりの粟生広谷に一寺を建てました。そして、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営んで上人を開山第一世と仰ぎ、蓮生自身は二世となりました。この時、法然上人から「念仏三昧院」の寺号を授けられました・・これが光明寺の前身です。


その後、三世幸阿上人の時、建暦二年(1212)正月二十五日、法然上人は八十歳で入滅し、遺骸は東山大谷の地に埋葬されました。しかし奈良や叡山の旧教団からの迫害は続き、嘉禄三年(1227)、叡山衆徒が上人の墳墓を暴いて、遺骸を鴨川に流そうという企てが発覚します。危険を感じた上人の弟子達は、秘かに遺骸を納めた石棺を嵯峨・二尊院、更に太秦・西光寺に移しました。

翌安貞二年(1228)正月二十日の夜、法然上人の石棺から不思議な数条の光明が放たれました。驚いた弟子達が光を追って行くと、都の南西、粟生野の念仏三昧院にたどり着きました。
そこで、同月二十五日、石棺をこの粟生野の地に移して遺骸を荼毘に付し、寺の裏山に遺骨を納める廟堂を建てました。そして、この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称し、仁治三年(1242)正月九日、四條天皇から「光明寺」の寺額を賜り、これ以降、寺号を光明寺と正式に改めたと伝えられます。


さて、光明寺のある現在の長岡京市周辺は、京の都と西国を結ぶ交通の要所だったため、特に応仁の乱以降、度々戦乱の舞台となりました。そのため、光明寺も、応仁の乱、細川・三好氏の騒乱、織田信長の元亀・天正の戦乱等の兵火によって焼失・再建を繰り返したようです。
文明二年(1470)二月には、西軍の畠山義就が勝龍寺城を拠点として京を狙い、翌三年(1471)ニ〜七月にかけて光明寺のある粟生や善峰の麓、勝龍寺で合戦を繰り返しています。

一方で、光明寺は、永禄六年(1563)三月に、正親町天皇から「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という綸旨を賜り、以降、「浄土一宗の本廟」「浄土門根元之地」として称し、その権威を高めました。
また、翌永禄七年十(1564)二月には将軍足利義輝から寺領を安堵され、天正九年(1581)九月には正親町天皇から紫衣の綸旨を賜っています。豊臣政権でも寺領を安堵されて、江戸時代の慶長十六年(1611)四月には、浄土宗西山流派は光明寺と禅林寺(永観堂 現・浄土宗西山禅林寺派総本山)の両本山体制となっています。
正保(1645〜48)頃には、光明寺本堂(御影堂)が建立され、明暦二年(1656)八月に廟堂が建立、同三年(1657)五月には梵鐘が鋳造されたという記録があり、江戸初期には堂宇の整備がほぼ完成していたのでしょう。

しかし、享保十九年(1734)十一月に、光明寺の客殿から出火した火災により堂宇が全焼失し、その後再建が始まります。享保二十年(1735)一月に半鐘が鋳造され、寛保元年(1741)四月には高槻藩京屋敷から「円光大師石棺」を譲渡、宝暦2年(1752)四月に御影堂(本堂)が上棟、明和四年(1767)三月に殿鐘が鋳造、寛政十一年(1799)四月に阿弥陀堂が上棟しています。

その後、元治元年(1864)七月には、長州藩兵が勤皇派に協力した光明寺に進駐して方丈や本堂を宿所とし、十九日の禁門の変を起こします。そして、敗北した長州軍を追って、二十一日、幕府軍が山崎に進攻して放火したことから、光明寺では本尊や寺宝を避難させ、僧侶らが山奥で野宿したということです。明治維新後は、勤王派への献金による財政悪化や廃仏毀釈による影響で衰退し、末寺から補助を募るなど苦労しますが、徐々に再建し現在のような大寺院へと復興して現在に至ります。



字数オーバーのため、次回に境内の建物等について書いてみます。

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