京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

京都府下

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光明寺その2

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光明寺の続きです・・


さて、光明寺の境内ですが、光明寺には三十二棟の建築物があり、主要な建物は回廊で繋がれています。そして、御影堂 附棟礼三枚 渡り廊下(本堂・阿弥陀堂間)、阿弥陀堂 附棟礼三枚、釈迦堂、勅使門、経蔵、観音堂、總門鐘楼 不銘礼一枚、薬医門、御廟、御廟拝殿 附御廟門・石柵、勢至堂、納骨堂、大書院 附玄関棟礼(棟礼一枚)、講堂、食堂、衆寮門の十七棟が長岡京市指定文化財に指定されています。



重厚な総門の前には、法然上人が初めて念仏の教えを説いた地として「浄土門根元地」と記された石碑があります。永禄六年(1563)、正親町天皇から「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という綸旨を賜ったことに由来するものです。

天保十六年(1845)に建てられた高麗門形式の総門を潜ると、左右二手に石畳の道が分かれています。左側の道は、樹齢百五十年という紅葉のトンネルで知られる通称「もみじの参道(紅葉参道)」で、右側が本堂に真っ直ぐに続く表参道です。この参道は傾斜がゆるやかで、女性や年寄りでも楽に登れるように配慮されていて、通称「女人坂」と呼ばれています。

また総門を入ってすぐ左手には、閻魔堂があります。堂に安置されている閻魔像は、元々閻地院という寺院の本尊だったということです。さらに、表参道と紅葉参道との分岐点に新しい石碑があり、馬の背に逆さに乗った熊谷蓮生法師(熊谷次郎直実)の姿が描かれています。
これは、光明寺開基・蓮生法師が、阿弥陀様のいる西方を敬うばかり、布教のため関東に向う際にも、「阿弥陀様におしりを向けることは出来ない」として、馬に逆さに乗って西に向って拝みながら進んだという「東行逆馬(とうこうさかうま)」の故事を記念したものです。



参道を登ると、正面に巨大な御影堂(みえどう)が見え、その右奥には阿弥陀堂があります。また手前には観音堂や経蔵、鐘楼、勧化所等が点在しています。

また、参道を登った左手には、昭和初期の歌人、塩田紅果の句碑があり、「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」という句が刻まれています。参道右には、洛西観音三十三霊場の第七番目札所である小さな観音堂があります。この観音堂の本尊・十一面千手観音菩薩像は、約一メートル六十センチで、恵心僧都源信の作ともいわれ、また、西山の浄土谷の奥深い田の中から発見されたという伝承もありますが、重要文化財に指定されてからは京都国立博物館に寄託されています。
代わりとして、現在は、洛西観音三十三霊場の第八番札所・粟生観音寺(長岡京市粟生清水谷 光明寺の竹林を抜けて隣接)の十一面千手観音菩薩を祀っています。この観音寺という寺院は、子守勝手神社の境内にあるという神仏習合時代の信仰の伝える社寺ですが、長らく無住になっているので、その本尊を光明寺が守っているということです。



また、鐘楼にある梵鐘は、「遣迎鐘」(けんこうがね)と呼ばれ昭和二十四年(1949)に鋳造されたものです。また、御影堂の左側には、高さ約五メートルの「法然上人立教開宗の像」があります。この像は、法然上人誕生八百五十年を記念して、昭和五十七年(1982)に建てられたものです。

さらに、経蔵と「法然上人袈裟掛の松」が右手にあります。
光明寺に伝来する多くの経典や注釈書、その版木等を納める経蔵は、宝永四年(1707)に建てられたもので、以降も大規模な補修が行われてきたということです。また、「法然上人袈裟掛の松」は、法然上人が始めて念仏の教えを高橋茂右エ門夫妻に説いた際、この西山広谷の地に暫く留まろうと考えて袈裟を脱いで掛けた松の木と伝えられています。元々は、本山の裏山の奥深い谷の斜面に生えていたものを、昭和五十七年(1982)に株分けされて経蔵の前に移されたということです。
また、経蔵の隣には勧化所(かんげしょ)があります。勧化とは「仏の教えを説いて信心を勧める」という意味で、布教のための事務や参拝者に御札や御影を配布する場所です。現在の建物は、安政二年(1855)に建てられたものを基本にしていて、紅葉の有料期間は写真の展覧会や茶店などが開かれます。



さて、光明寺境内の中心となる御影堂(本堂)は、応仁の乱等で何度も火災に遭ってその都度再建されました。現在の建物は、宝暦四年(1754)に完成したもので、十八間四面(約三十三メートル四方)あり、建築様式は入母屋の総欅造りで、派手な装飾の少ない重厚で全体的な功績にすぐれた近世浄土宗本堂の典型とされます。

御影堂(本堂)内陣正面には、本尊「法然上人御自作の張子の御影」が祠られています。
「張子の御影」は、建永二年(1207)に起こった「建永の法難(承元の法難)」の際、法然上人が、母からの手紙を水にひたして自ら作ったといわれる像です。

「建永の法難(承元の法難)」は、後鳥羽上皇によって、専修念仏の停止と法然上人の四国流罪が決定された事件です。
「建永の法難(承元の法難)」の直接のきっかけは、法然上人の弟子だった住蓮坊と安楽坊という二人の僧の礼讃を聴いた、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫が上皇の不在時に出家してしまったという事件でした。寵愛する女官が無断で出家したことを知った後鳥羽上皇は激怒し、住蓮坊と安楽坊は死罪、法然上人や親鸞その他の弟子達は流罪とされました。事件の背景には、旧仏教教団からの上皇への強い働きかけがありました。

さて、四国への流罪が決まった時、既に法然上人は七十五歳になっていました。
上人御も弟子達も、この世で再会することは出来ないと感じていました。四国への途中、弟子の湛空という人物が上人を訪ね、別れを惜しんで是非にと形見の品を請います。
そこで、法然上人は、上人が十三歳で比叡山に入るときに母から送られ、以来肌身離さず持っていた手紙を懐から取り出しました。そして、この手紙を水にひたして粘土のようにして、水面に映った自身の姿を見ながら肖像を作って湛空に与えました。喜んだ湛空は、この像を抱いて京都に帰り、漆を塗って仕上げました。その後、この「張子の御影」は二尊院に祀られ、時期は不明ですが、後に光明寺に移されたということです。



御影堂の右にあるのが阿弥陀堂です。
阿弥陀堂は、欅造の寛政十一年(1799)の再建された建物で、本堂より華やかな造りです。
本尊の六尺七寸(約二メートル)以上の阿弥陀如来像は、蓮生法師(熊谷直実)が、琵琶湖畔の堅田(滋賀県)の浮御堂から背負ってきたという伝承のある阿弥陀如来像(恵心僧都作)が安置されています。

また、御影堂の後ろには、法然上人の舎利(遺骨=分骨一部)を納めた御廟があります。
御廟は明暦二年(1656)の再建で禅宗様式を基調とした華麗な建物です。軒下の周りには邪鬼、龍、象、獏、等の多くの彫刻が施され、廟内部の板壁には飛天や雲、蓮の花等が極彩色に描かれているということです。さらに、御廟前の拝殿は、山内では最も古い承応二年(1653)の建物です。


御影堂の右手前には、「圓光大師御石棺」と刻まれた石棺があります。
前述したように、建暦二年(1212)に法然上人が入滅した後も旧仏教からの迫害は続き、嘉禄三年(1227)、叡山衆徒が東山大谷の上人の墳墓を暴いて、遺骸を鴨川に流そうという企てが発覚します。危険を感じた上人の弟子達は、遺骸を納めた石棺を嵯峨・二尊院、更に太秦・西光寺に移しました。翌安貞二年(1228)正月二十日の夜、上人の石棺から不思議な数条の光明が放たれ、粟生野の念仏三昧院を照らしました。そこで、同月二十五日、石棺をこの粟生野の地に移して遺骸を荼毘に付し、寺の裏山に遺骨を納める廟堂を建てました。これがその石棺とされます。



御影堂から左へ石段を下ると、元文元年(1736)建造の方丈(釈迦堂)、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。方丈は、「類焼の釈迦如来」「頬焼けの如来」と呼ばれる釈迦如来像を祀ることから釈迦堂と呼ばれます。
この釈迦如来像の頬には焼火箸で焼かれた跡といわれる傷跡があり、以下のような物語が知られています・・・昔、淀の水津村の漁師で、非常に乱暴なことから「悪次郎」と呼ばれていた男がいました。ある日、この男の元へ、見知らぬ托鉢僧が物乞いにきました。悪次郎は全く相手にしませんでしたが、その後も托鉢僧は、毎日物ごいに来ます。ついに腹を立てた悪次郎は、僧の左の頬に焼火箸を押しつけました。しかし僧は微笑んで何も無かったかのように去っていきました。
気味が悪くなった悪次郎が僧の後を追うと、僧は粟生の光明寺の辺りで姿を消しました。悪次郎が不思議に思って寺の住職に頼んで御堂の中に入ると、釈迦如来像の左の頬に火傷の跡があったのでした。驚いた悪次郎は、大変な事をしてしまったと後悔し、以後、お釈迦様を深く信仰して善行を心掛け、「慈悲の弥陀次郎」と呼ばれるようになったということです。


この釈迦堂(方丈)の前庭は、「信楽庭(しんぎょうてい)」と呼ばれる枯山水庭園です。
白州に大小十八個の岩を配していて、阿弥陀の慈悲に包まれながら生死の大海を渡る念仏行者の姿を現しています。一番大きな三つの石は弥陀三尊の姿を表し、また十八という石の数は、阿弥陀如来が衆生救済に関する四十八の願い(四十八願)を立てた内の、十八番目「念仏往生の願」を表しています。

講堂は天保四年(1833)に建立され、食堂と共に浄土宗寺院の中でも、壇林(仏教学問所)に関する類例の少ない遺構ということで、その他、大書院、小書院等が連なります。
また、玄関の右には、安貞二年(1228)正月、法然上人の十七回忌に遺骸を荼毘にふした「円光大師火葬跡」があり、跡地に祀られている石造得大勢至菩薩像は、紅葉によく映えます。
さらに、その前には、幹周三百八十八センチ、樹高十五メートル、樹齢は400年〜500年という柏槙(びゃくしん)の大樹があります。柏槙は「イブキ」ともいわれるヒノキ科の樹木で、この木は法然上人の火葬跡前に献樹されたものといわれていて、これほどの大樹は珍しく長岡京市の指定天然記念物や「京都の自然二百選」に選ばれています。

また、付近には法然上人が修行中に宿を借りた「高橋茂右衛門屋敷跡」石標、鎮守社、宝物庫などあります。尚、光明寺は、寺宝として千手観音像(重文)、四十九体化仏阿弥陀仏来迎図(重文)、二河白道図(重文)等の多数の寺宝を所蔵しています。



次回は、いよいよ「もみじの参道(紅葉参道)」です。

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