京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、京都市北区等持院東町にある堀河天皇火葬塚を採り上げました。
この火葬塚の特徴は、巨大な松の木があることです。この大樹のおかげで、前にブログPart1で採り上げた帝の父・白河天皇の火葬塚よりも立派に感じます。ただ、この松は、残念ながら現在、松枯れ病によってか赤く変色してしまっています。


さて、第七十三代・堀河天皇(1079〜1107)は、白河天皇の第二皇子で、名を善仁(たるひと)といい、応徳三年(1086)十一月に八歳で天皇に即位しました。もちろん政治の実権は父の白河上皇が握って院政を敷きました。白河上皇が、急いで幼少の堀川帝に譲位したのは、亡父・後三条帝の遺命に背いて自身の皇統を守るために他なりませんでした・・・

白河上皇の父、後三条天皇は、宇多天皇以来十代を経てようやく現れた藤原氏を外戚としない天皇(母は三条天皇の娘・禎子内親王)で、歴代天皇を傀儡としてきた藤原氏の摂関政治体制を終わらせるという歴史的な役割を果たした天皇として知られます。
学才に極めて秀で、倹約を旨とした名君として後世讃えられた後三条帝でしたが、皇太子時代には関白・藤原頼通の圧力に耐えて二十四年もの長い不遇な時代を過ごしました。頼通は藤原氏と縁の薄い皇太子・尊仁親王(後三条)を追い落とそうとしますが、尊仁親王(後三条)は、唯一の味方の大納言・藤原能信(頼通の異母弟で頼通と対立していました)に支えられて危機を乗り越え、結局、兄の後冷泉天皇に、最後まで皇子が生まれなかったことから即位することが出来ました。
こうして登場した後三条帝の治世は、在位五年余の短いものでしたが、藤原能信の養子能長や下級公家を抜擢して親政を行い、荘園整理令を発布して藤原氏の経済的基盤に打撃を与えました。晩年の延久四年(1072)に第一皇子・貞仁親王(白河天皇)に譲位したのも、病気に因るものという説の他に、藤原氏を抑えるために院政を敷くことを意図していたという説もあります。



後三条帝が、いかに藤原専制政治の復活を警戒していたかを表すのが、第一皇子・貞仁親王(白河天皇)の皇太子として、異母帝の第二皇子の実仁親王(さねひとしんのう)を立て、さらに実仁親王が即位した後は、その弟・輔仁親王を皇太弟とするよう遺言したことです。
後三条の即位当時は、苦労を共にした唯一の皇子の貞仁親王(白河天皇)が皇太子に立てられましたが、貞仁親王(白河天皇)の母は、帝の皇太子時代の保護者・藤原能信の養女・藤原茂子でした。
藤原摂関政治を排除することを政治課題とした後三条帝としては、自分の死後も藤原勢力を復活させないためには、第一皇子・白河帝の子孫よりも、即位後に生まれた藤原氏と外戚関係の無い源基子を母とする実仁親王と輔仁親王に皇位を継承させた方がより安全だと考えていたようです。
そこで、延久四年(1072)の白河天皇の即位の際には、二歳の実仁親王が皇太弟と定められ、翌延久五年(1073)に後三条上皇が重態となると、後三条は、生後間もない輔仁親王を、実仁親王即位後にその皇太弟とするよう遺言しました。弟の血統に皇位を譲らなければならない白河は内心大いに不満でしたが、もちろん父帝の遺命に背くことは出来ないことでした。

さて、白河天皇には、承保元年(1074)に生まれた第一皇子の敦文親王がありましたが、承暦元年(1077)に四歳で夭折してしまいます。しかし、二年後の承暦元年(1077)に待望の第二皇子が誕生しました・・善仁親王(堀河天皇)です。そして、応徳ニ年(1085)に皇太弟の実仁親王が十五歳で疱瘡で病死するという絶好の機会が訪れると、白河帝は、翌三年(1086)、父帝の遺言を無視してもう一人の異母弟・輔仁親王を退けて実子の八歳の善仁親王(堀河天皇)を立太子して即日譲位を宣言、堀河天皇の即位に成功します。



こうして即位した堀河天皇の治世ですが、幼少期は、父白河上皇や摂政(後に関白)藤原師実(藤原頼道次男)が政治を行いましたが、その後、寛治八年(1094)に師実の子、藤原師通が父の後を継いで関白に就任すると、師通の補佐を得て堀河天皇の一時的な親政が始まります。

藤原師通は、白河院政期の貴重な同時代資料、日記「後二条師通記」の著者としても知られ、生真面目で道理を貫く気丈な人物でした。師通は、「(天皇ではなく)上皇の御所の門前に、(人々が)牛車をとめるなどということがあるのだろうか(今鏡)」と、白河院政に批判的で、度々、白河上皇や父師実を無視して独断で政治を行い(愚管抄)、白河上皇の寵愛する院近臣勢力を抑え、堀河天皇の親政を支えました。そして、その道理に基づいた政治は、「嘉保・永長の間、天下粛然(本朝世紀)」と高く評価されました。しかし、承徳三年(1099)、師通が病死すると、白河院政に異を唱えるものは無くなり、また康和三年(1101)に師通の父師実が亡くなると藤原摂関体制はさらに弱体化しました。そして、堀河天皇が病弱だったこともあって、白河上皇が再び政治の実権を握るようになっていきます。

こうして堀河天皇は次第に政治から離れ、文化面にその才能を発揮していきます。天皇自身は、和歌や管弦に秀で、中でも当代屈指の笛の名手として知られました。帝の周囲には学問や音楽に秀でた公卿達が近臣として仕え、管弦を中心とした貴族文化が最も栄えた時代でした。
在位二十一年は当時の天皇としても非常に長く、堀河帝は「末代の賢王也(続故事談)」、またその治世は「天が下治まりて、民安く世のどかなり(発心集)」と讃えられることになります。


このように文化面で才能を発揮し、穏やかで上品な人柄で周囲から慕われた堀河帝でしたが、当時の記録に因ると、帝は幼少期より常に病気や体調不良に悩まされていたようです・・・(以下、煩雑なため西暦は省略)
寛治六年六月
寛治七年六・八月
嘉保元年五・六・十一月
嘉保二年七・九〜十・十一月
永長元年三・七・九月
承徳元年十月
承徳二年三・五月
康和元年八月
康和三年八月
康和四年二・十一月
康和五年十月
長治元年八月
長治二年三・四・七・八・九・十月
嘉承元年一・二・四・六・九・十月と体調不良や病気の記述が続き、崩御の年の嘉承二年(1107)には、三月七日、五月十日〜二十五日、六月二十日と病気が悪化していったようです。
そして、ついに七月六日には重態となりました。(崩御の様子は乳母子の典侍藤原長子「讃岐典侍日記」が記しています)
こうして、嘉承二年(1107)七月十九日、堀河天皇は堀河殿(現中京区堀川通二条下る付近)で二十九歳で崩御し、同二十二日に納棺と葬儀の決定、二十四日に香隆寺(香隆寺については、以前に白河天皇火葬塚や二条天皇陵などで少し書いています)の付近で火葬され、翌二十五日に遺骨は香隆寺に納められました。
その後、永久元年(1113)三月二十二日、堀河帝の遺骨は仁和寺山陵円融院に改葬されています。尚、明治時代に地定された現在の堀河天皇後圓教寺陵(のちのえんきょうじのみささぎ)は竜安寺の北東(竜安寺は円融天皇ゆかりの円融寺が衰退した後に建立されました)にあり、一条天皇円融寺北陵に隣接しています。

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