京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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善峯寺その1

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今回から三回に分けて京都西山を代表する観光名所の善峯寺を採り上げます。
善峯寺は、秋の紅葉の他にも、春の桜や初夏のアジサイ等四季を通じて楽しめるという点で、文句の無くお勧めクラスの寺院ですが、特に国の天然記念物の日本一の松と称する遊龍松は必見です。(個人的には、特に春が好きです・・秋の西山の紅葉グラデュエーションより、春の枝垂れ桜と遊龍松のコントラストの方が優しげな風情で惹かれます。)


京都市西京区大原野小塩町にある善峯寺(よしみねでら)は、西国三十三ケ所観音霊場の第二十番札所、京都洛西観音霊場の第一番札所として知られ、また平成十六年(2004)からは、光明寺(京都府長岡京市粟生西条ノ内)や楊谷寺(柳谷観音 京都府長岡京市浄土谷)と共に「京都・西山三山」として連携し、自然豊かな京都西山を代表する三つの信仰の場として観光客にも広くアピールしています・・・(尚、観光ガイドでは、京都市内か市外かで扱いが違うことが多々ありますが、善峯寺は、光明寺や楊谷寺と違ってぎりぎり京都市内に属するという点で得をしています。市内中心部の観光名所で満足してしまっている京都市在住の方より、大阪方面の方の方が、意外とこの地域の寺院を知っていたりするのですが、西山三山はどれも魅力的なお寺で、このブログやPart1でも紹介しています。)



さて、京都西山・釈迦岳の東北中腹に建つ善峯寺は、山号を西山(せいざん)という天台宗系の単立寺院(善峰観音宗)で、西山宮門跡とも称しています。本尊は十一面千手観世音菩薩になり、寺院の創建は平安時代末期の長元二年(1029)、源算(げんさん)上人の開山と伝わります。
寺伝によると、開山・源算上人は、因幡国(鳥取)に生まれ、正暦二年(991)九歳の時に、比叡山横川の、「往生要集」を著したことで知られる恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)の弟子となって修行し、長徳元年(995)、十三歳で剃髪受戒しました。そして、長元二年(1029)、四十七歳の時、浄土は西方にあるという思想から都の西山のこの地に法華院という小堂を建て、十一面千手観世音菩薩像を刻んで本尊としたということです。伝説では、山の神である阿智阪明神の化身の老翁から寺院建立を頼まれ、(善峯寺の麓には阿智阪明神社が祀られています・・三鈷寺の記事を参照ください。)源算上人が険しい山を切り開く方法に悩んでいると、明神の使いの猪の大群が現れて、一夜で地面を均して平地にして助けたということです。

その後、観音信仰の高まりによって観音霊場として栄え、長元七年(1034)九月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ「良峯寺」の寺号と詠歌を賜りました。
以来、歴代天皇の崇敬篤く、長久三年(1042)に後朱雀天皇が洛東東山の鷲尾寺に祀られていた安居院仁弘法師作という本尊・十一面千手観音菩薩像をこの地に移して当寺の本尊として千手堂を建立して祀り、先の十一面千手観音菩薩像を脇立としたと伝えられます。
その後、天喜元年(1053)後冷泉天皇の時代には、皇太弟・尊仁親王(後の後三条天皇)の后、藤原茂子が懐妊して難産だったため、当寺で祈願したところ、皇太子(貞仁親王、後の白河天皇)が無事に誕生しました。この報恩に報いるために、白河天皇は、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、仁王門、鎮守七社の諸堂を建立したと伝えられます。さらに、治暦四年(1068)の大旱魃の際には、源算上人の祈祷と本尊千手観音の霊験によって無事に雨が降ったことから、朝廷より「良峰」の勅額が授けられたとのことです。


その後、承保元年(1074)、源算上人は、善峯寺山内の北尾と呼ばれる尾根に隠居所として草庵を建て、往生院(北尾往生院 後の三鈷寺)と号し、この地で百十七歳の長寿をまっとうしたと伝えられます。また、中納言葉室顕隆の孫、顕能の子に当るニ祖・観性(かんせい)上人(観性法橋(かんせい・かんしょうほうきょう)が、安元ニ年(1176)、境内の中尾と呼ばれる尾根の蓮華寿院の側に法華堂を建てています。その後、天台座主を四度務め、史書「愚管抄」の著者、歌人としても知られる三祖・慈円和尚((慈鎮和尚)じえん、じちん)が、観性上人の招きで当山の中尾蓮華寿院に住持し、さらに、鳥羽天皇の皇子・青蓮院門跡覚快(かくかい)法親王も晩年、善峯寺の住職となっています。
この頃(平安時代後期)の良峯寺(善峯寺)の境内は、南尾、中尾、北尾という三つ山の尾根に分かれ、現在の善峯寺の本堂(観音堂)付近に南尾法華院、現在の奥の院薬師堂のある中尾に蓮華寿院、北尾に往生院があったということです。

観性上人(観性法橋)や慈円和尚((慈鎮和尚))は鎌倉幕府や朝廷との繋がりを強め、良峯寺(善峯寺)の境内を整備しました・・「吾妻鏡」によると、文治五年(1185)、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立した際には、観性上人(観性法橋)は、天台座主の全玄僧正の代理の供養の導師として、六月三日から十八日まで鎌倉に滞在し、頼朝から大いに歓待されました。頼朝は、観性上人と終日談話して上人を深く崇敬するようになり、後に上人の希望に応えて、二十八部衆金剛力士等を、南都(奈良)仏師の運慶に作らせて善峯寺に寄進しています。また、慈円和尚も頼朝と親交があり、幕府と朝廷の良好な関係に努め、頼朝より越前国藤島庄を寺領として授けられています。さらに、建久三年(1192)、に天台座主に就任して、後鳥羽上皇より自筆の寺額を賜って「良峯寺」を「善峯寺」と改め、官寺に列せられています。また、法然上人門下で、浄土宗西山派開祖、四祖・西山上人証空(しょうくう 善慧房・善慧国師)も当寺の蓮華寿院に入っています。

承久三年(1221)後鳥羽上皇による承久の変の後、道覚(どうかく)法親王(後鳥羽上皇皇子、後に天台座主、青蓮院門跡)が難を逃れて密かに証空上人を訪ねて善峯寺に籠居しました。そこで、証空上人は、蓮華寿院を道覚法親王に譲って、自身は北尾往生院に退いて荒廃していた往生院を復興し、浄土宗西山派の祖となります。寛元元年(1243)、道覚法親王は、後鳥羽上皇が建立したという水無瀬の御堂・蓮華寿院を、善峯寺境内に移して、その側に青龍院という一寺を建立して境内を整備しました。

こうして、善峯寺蓮華寿院は、鎌倉時代初期の道覚法親王以降、室町時代にかけて、青蓮院宮慈道(じどう)法親王(亀山天皇皇子)、大乗院宮尊円(そんえん)法親王(伏見天皇皇子)、青龍院宮尊道(そんどう)法親王(後伏見天皇皇子)といった青蓮院関係の法親王の晩年の隠居所となり、西山宮門跡、西山宮、御所屋敷等と呼ばれました。(尚、江戸時代以降は青蓮院宮の尊證(そんしょう 尊証)法親王(後水尾天皇皇子)、尊祐(そんゆう)法親王(霊元天皇皇子)、尊真(そんしん)法親王(後桜町天皇皇子)、尊寶(そんぽう)法親王(伏見宮十八世皇孫)が入寺)

室町時代の第百二代後花園天皇が堂塔を改築し、応永二十五年(1418)十月に四代将軍足利義持から、永享四年(1432)十二月に六代将軍足利義教から、寺領同国散在する敷地や田畠、山林等を安堵されるなど、朝廷や幕府の庇護を受けた善峯寺は、僧坊五十二を数えるほど栄えましたが、その後、応仁の乱以降の戦乱で荒廃し、天文二十一年(1552)十〜十一月には、細川晴元と三好長慶の抗争により西岡近辺が放火され、善峯寺や三鈷寺が炎上焦土となっています。

荒廃した善峯寺は、江戸時代には、寛正四年(1792)六月、幕府から山城国内散在の寺領を安堵されるなど徐々に復興し、特に、現在の諸堂の多くは、五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の援助によって建てられたものと伝わります。桂昌院は、幼少時に親に連れられて善峯寺等洛西一帯の寺院に度々参詣していたとも伝えられ、善峯寺の復興のために多額の寄進をいって境内を整備しました。また、元禄十年(1697)十二月には、幕府は善峯寺と西岩倉の金蔵寺の二寺に対して寺田若干が加賜され、共に寺禄二百石の御朱印地を賜わっています。こうして善峯寺は、二百石及び山林四十二万五千坪を寺領とし明治時代に至りました。



さて、善峯寺は、約三万坪(十万平方メートル)という広大な境内に多くの堂塔が点在しています。次回は境内について書いてみます。

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