京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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京都市左京区岩倉花園町にある三縁寺(さんえんじ)は、幕末の元治元年(1864)六月五日の池田屋事変で殉難した志士達の墓があることで、特に幕末ファンには良く知られているお寺です。(以前にPart1で少しだけ書いたのですが、書き直して写真数を増やしてみます)


三縁寺は、山号を法輪山という浄土宗寺院で、元々は、京都市東山区縄手通三条下る大国町、現在の京阪電車の三条京阪駅の東のバスターミナル付近にありましたが、昭和五十四年(1979)に現在の岩倉花園町に移転しました。尚、三条京阪付近には三縁寺の他に、三縁寺の北に西願寺、南側に養福寺と高樹院がありましたが、全て京都市の都市整備計画に協力して岩倉や八瀬等に移転しています。


有名な池田屋事件については割愛しますが、池田屋付近にあった三縁寺には、事件後に現場に捨てられたままになっていた志士九人の遺体が運び込まれて供養されたと伝えられます。
埋葬の際に遺体を確認したのは、池田屋の女中頭の清水うの、または三縁寺の側にあった旅館「小川亭(跡地は東山区縄手通若松下る)」の女将ていとも伝えられています。(小川亭は、肥後藩御用達「魚卯」の未亡人のていと、姑のりせが開いた旅館で、幕末には肥後藩士等勤王の志士たちに利用されました。ていは勤皇家でもあり志士の面倒をよく見たということです。)
その後、昭和五十四年(1979)六月に三縁寺が岩倉に移転する際に、旧墓地内の志士の遺骨も発掘され、岩倉の新墓地に改葬されました。


さて、山門脇には「池田屋事変殉難烈士の墓」という石標があり、境内の奥にある墓地には、鳥居の奥には志士の墓が五基あります・・正面と、その右の背の低い自然石の墓が、肥後の宮部鼎蔵と松田重助の墓です。右が古い墓で、正面の墓は後に立てられたもののようです。
正面左にある背の高い墓は、播州林田藩の大高又次郎の墓で、また、長州藩の吉田稔麿、杉山松助、廣岡浪秀の三名、土佐藩の北添佶麿、望月亀弥太、石川潤次郎の三名、計六名の合同墓があります。
他に、池田屋事件とは直接関係はないのですが、肥後の上松源友胤の墓もあります・・上松は、宮部鼎蔵の弟子で、文久三年(1863)七月に幕府派の公卿を切った際に自身も斬られて死亡し、後に三縁寺に葬られたということです。

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5月22日に幕末京都ポランティアに参加してみんなで合掌しました。

放置された、遺体を葬ったひとに感謝したい

2010/5/24(月) 午後 3:08 [ 中路正樹 ]

吉田松陰の友人でもあった宮部鼎蔵や、松陰の弟子で高杉・久坂と並ぶ逸材・吉田稔麿等、明治まで生きていれば首相大臣候補と言われた人物達の死は惜しまれますね。明治維新で多くの人材が亡くなりましたが、彼らに共通しているのは、武士として事に当るためには命を捨てる覚悟が必要であると自覚していたことで、危険を顧みず進んで死地に赴く気骨があったと思います。

2010/5/25(火) 午前 10:26 [ hiropi1700 ]

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池田屋事件のお逮夜にあたる6月4日、法要が三縁寺はんでありましたんえ。
島根出身の45歳の地理歴史マニア氏が焼香に際し、仏祭壇にお布施(読経料)を供えはった。
なんや知らん、お布施が逆に置いてるやおへんか。おかしおっせ、これって間違うてはらへん?
島根では知りまへんが、京都のお人は絶対こんな非常識はしまへん。
お寺さんに失礼この上もあらへん。
焼香も、シシャリ出んとご子孫が筆頭せになあかんのえ、ホンに礼を失して謙虚さに欠いてはるわ、このお宅せんせ。
それから上着を着用するか、黒っぽいネクタイをして来やはらなあかんえ。
浄土宗法要やのに、数珠の持ち方も作法に外れといやすな。
無教養な物書きはんで、これからも活躍おしやすんやったら、まず周りに礼を怠らんと付き合わなあかへん。

まあ、おきばりやすな。

2012/7/4(水) 午後 2:08 [ 園部の鳥姐さん ]

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先日、京都の自称歴史地理研究者N氏の講座を聴講した方と話をし、その感想を聞かされました。
京都で御陵案内や講座を語って、マメに小遣い稼ぎをしている著者の評判は、目線が上からで相変わらず良くないようです。
で、その講座でN氏が言うには、新しい資料に出会ったので、2011年に出した「池田屋事件の研究」の本は絶版にしたい、と。

おやおや、その本は「幕末史の空白を埋める決定版」ではなかったのでしょうか?

ちょっと無責任ですよね。
(多分、あとがきにある妻への感謝が、離婚により不要だからでしょう)

新しい資料が出たなら、増刷改訂版を出せばいい。

自身、学生時代、京都で龍馬暗殺を追った郷土史家N氏に散々資料で世話になったのに、説がよく変わるから(その著、幕末京都を歩く記載、同席写真あり)と、大学に入るや離れ、今、その古高書簡を利用して糧にするのもいかがなものでしょう。
ちなみに、この郷土史家が解読した古高俊太郎書簡が、「池田屋事件の研究」の基本資料になっているのは否めません。

こんな姿勢で、糧のために人権問題まで語られてはたまりません。

2013/10/24(木) 午後 1:43 [ 園部の鳥姉 ]

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自称歴史地理研究者N氏はこんな事も書いてます。
『新選組は長く学問的対象ではなかった。それが大きく変わったのは2004年のNHK大河ドラマ「新選組」放映である。土方歳三を組織者と見て…イメージが流布しているようだが、多くは作家司馬遼太郎の「新選組血風録」「燃えよ剣」などによる創作と言ってよい…』(TuwnMook新選組と土方歳三2013/2徳間書店)

長く学問的対象でなかったのは、事実でしょう。
が、土佐史学の歴史家平尾道雄氏による新選組史(昭和4年)があり、学問的に画期的名著です。

それ以前に、平尾道雄氏は井上道雄名で、史学誌に浪人論を著していますから、学問的対象はなくもありません。

多分、2004年前後にでた松浦玲氏が念頭にあったのでしょうが、だからと2004年大河ドラマからとは言えません。

芸術映像論としての学問的対象なら分かりますが、ドラマから学問的対象はおかしくもあります。
学問的対象となれば、やはり平尾道雄氏以降、同時期の子母澤寛氏箸「新選組始末記三部作」に触発されて、現在まで古資料、古文書発掘の学問対象が世に出ました。

2013/10/24(木) 午後 1:51 [ 園部の鳥姉 ]

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友人に誘われて、初めて参列させて頂きました。(参加ではなく参列)

30人程の方が150年前を偲びました。

その参列者に、梅田雲濱さんの縁者梅田昌彦さんのお顔がありました。

雲濱の師で義父になる上原立齊のお墓の寺に、碑を建立されました。

弟子縁者によって雲濱のお墓がある、京都の安祥院さんに年三回お参り、小浜にも墓掃除に行かれておられているそうです。

汚い竜馬もどきさんや、芸者さんみたいなお顔もありです。

そして、殉難縁者を差し置く法要筆頭者に、京都史跡に建碑して後世に名を残したい、石見人中村武生さんの顔がありました。

最近、雑誌で、最後の函館奉行だった大目付杉浦梅譚資料を紹介していますが、梅譚全集は随分前に刊行されていて、管見ですが、菊池明さん、松浦玲先生、高木俊輔先生くらいでしょうね、その存在を知るのは。

代官資料も知らずにいたのと共に、今頃、恥ずかしい事です。

その梅譚が京都で宿舎にした栄正寺も、多分ご存知ないでしょうね。

2014/6/6(金) 午前 9:25 [ 小橋正一郎(小正) ]


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