京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

上京区

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前回に掲載した般舟院から、嘉楽中学校を挟んで西側にあるのが、般舟院陵(上京区般舟院前町)です。

この地もかつて般舟院の寺地でしたが、明治以降、宮内庁所管の皇室陵墓になっています。
贈皇太后源朝子(後土御門天皇の典侍で、死後、子の後柏原天皇の即位によって、永正元年(1504)に皇太后を追贈)の御陵で、後花園天皇・後土御門天皇・後奈良天皇の分骨所でもあり、他に江戸期の十一人の皇子皇妃の墓になっています。(尚、この御陵は、土日は門が閉ざされて見られません。東山七条の後白河天皇陵等と同様、門のある皇室関係の陵墓は平日のみの公開です。)


般舟院陵には、以下の皇室関係者の埋葬地とされています

○後土御門天皇後宮・贈皇太后朝子・般舟院陵

○後花園天皇分骨所

○後花園天皇後宮・嘉楽門院藤原信子墓

○後土御門天皇分骨所

○後奈良天皇分骨所

○後土御門天皇皇子・尊伝親王墓

○後柏原天皇後宮・豊楽門院藤原藤子墓

○後水尾天皇皇子・高仁親王墓

○後水尾天皇皇女・菊宮墓

○後光明天皇皇女・孝子内親王墓

○後西天皇皇女・女二宮墓

○後光明天皇皇女・孝子内親王墓

○桜町天皇皇女・盛子内親王墓

○光格天皇皇子・礼仁親王墓

○光格天皇皇女・寿賀宮墓



さて、般舟院陵の西側の片隅には、石仏が立ち並んでいて、その奥に小さな円墳(塚)があり、その上に小さな五輪塔が建っています・・この五輪塔は、式子内親王(のりこないしんのう、しきしないしんのう)塚(墓)とも言い伝えられていて、藤原定家とのエピソードから別名「定家葛の墓」とも言われています。

小倉百人一首の「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」の和歌でも知られる式子内親王は、平安時代末の後白河天皇の第三皇女で、若き日に賀茂の斎院を務め、後には藤原俊成を歌の師として多くの和歌を残しました。また俊成の子の藤原定家が式子内親王の身近に接していたことから、後に定家が式子内親王に恋慕の情を抱いていたという伝説が生まれました。

その伝説を基にした物語に、能「定家」があります。
あらすじは、以下のようなものです・・・旅の僧一行が荒れた邸跡で雨宿りをしていると、一人の里の女が現れて、ここはかって定家の建てた時雨亭だと教え、ある墓に案内します。そして、女は、この墓は式子内親王の墓で、蔦葛(つたかずら)がびっしりと纏わりついているのは、定家葛(ていかかずら・ちなみにこのエピソードから、テイカカズラという花の名前にもなりました)で、深い契りを交わした内親王の死後も、定家の深い想いは蔦葛となって墓石に纏わりついて、内親王の魂は安まることがないのです、と語ります。そして自分こそが内親王であると告げて、僧に読経を頼んで消えていきます。僧が墓前で読経すると、今度は年老いた姿で現われた式子内親王の霊は、読経の中で舞いながらまた墓の中に消えていくのでした・・
墓の真偽はともかく、室町時代末以降に記された「応仁記」にも、大聖歓喜寺にある「定家葛の墓」として記されているようで、古くから式子内親王の墓と呼ばれていたようです。(尚、大聖歓喜寺は前に採り上げた雨宝院の前身となったお寺です。)


大聖歓喜寺境内から、桃山時代に伏見から移転してきた般舟院境内へ、そして明治に整備された御陵内へ・・と周辺の環境が変っても、この五輪塔は、ただこの地にポツンと残ってきたのでしょうか?
土塀で囲われた隣の皇族陵墓から外れて、石仏と共に塚だけが残っているのがなんとも不思議な感じ・・どう扱ってよいのか迷った末に、御陵の横にそのままにしているといった印象です。
また、側の大きな鎌倉時代の石仏も良い感じです。


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