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今回から数回に分けて、京都府相楽郡笠置町にある笠置寺(かさぎでら)を採り上げます。
(今回の写真は、参道から境内一部のみです。暗い小雨の中での撮影のために写真が不鮮明ですが、次回以降に、見所となる磨崖仏や胎内めぐりの写真を掲載します。)
笠置寺は、浄瑠璃寺、岩船寺、海住山寺、蟹満寺などと共に南山城を代表する観光名所です。(但し、これらの寺院は、京都府に属しますが、地理・歴史的にも雰囲気的にも奈良の寺院といった方が正しいと思います。)笠置寺は京都や奈良からも少し遠いので、観光客はそれ程多くは無いようですが、巨石に囲まれた面白い行場めぐりや後醍醐天皇の行在所跡等もあり、巨大な大磨崖仏を見るためだけでも、訪れて損の無いお勧めレベルの観光名所といえます。
(笠置寺によると、笠置を訪れる人は年間七十万人で、その内、笠置山登山客が五万人。さらに、笠置寺を訪れて磨崖仏を拝んで修行場を巡る人になると年間一万五千人に過ぎないとして、もっと多くの方に笠置寺を知って欲しいということです。このブログで少しでもお寺をアピール出来ればと思います。尚、小林義亮氏の労作「笠置寺 激動の1300年―ある山寺の歴史―(文芸社)」を参照します)
さて、笠置寺のある相楽郡は、京都府の最南端にある郡で、その東部にある笠置町は南を奈良市に接している京都府内で最も小さい町(東西六キロ、南北六.五キロ)です。さらに、この狭い笠置町の中央を木津川が東西に流れ、川の両岸の大部分が山林で占められているため、街(僅かな店がある程度の鄙びた里といった風情ですが)は谷沿いの非常に狭い地域にあります。
この笠置町のシンボル的な存在が、JR関西線「笠置駅」の直ぐ東にある、標高二百九十メートルの笠置山です。笠置山は古くから巨石信仰が盛んな山岳霊場の地で、山を境内とする笠置寺には多くの遺跡が残っています。また、笠置山を中心とする周辺は、笠置山自然公園として整備されていて、桜や紅葉の名所としても知られています。
この笠置山の山頂にあるのが、「天武天皇勅願所」「後醍醐天皇行在所」として歴史有る古刹の笠置寺です。
笠置寺は、山号を鹿鷺山(ろくろうざん)という真言宗智山派の寺院で、本尊は巨大な磨崖仏弥勒菩薩です。寺の創建年代は不明ですが、室町時代成立の「笠置寺絵縁起」によると、本尊の弥勒菩薩の発願は天智天皇の皇子(大友皇子と推定されます)、笠置寺の創建は天武天皇によるとされます。(他に「諸寺縁起集」の「笠置山縁起」では「天智天皇の第三皇子」と記していて、川島皇子とも推定されるようです。)
「笠置寺絵縁起」や「今昔物語」によると、天智天皇の十年(671)、天智天皇の皇子(大友皇子と推定)が、笠置山に狩猟に来て、崖の先端まで鹿を追いつめた所、皇子が乗っていた馬が勢い余って崖下に転落しかけました。皇子は咄嗟に、「山の神よ、もし私の命を助けてくれるなら、この岸壁に弥勒仏像を刻んで奉ります」と念じたところ、馬は後ろに何とか退いて、危うく危機を逃れました。そこで皇子は、場所の目印として崖上に自分の被っていた笠を置いて帰ります・・これが「笠置」という名前の発祥とされます。
さて、その後、皇子は再び笠置山を訪れて弥勒菩薩を刻もうとしますが、あまりの絶壁のために悩んでいると、天人が現れて見事な弥勒像を刻んでくれたと伝えられます。そして、「笠置寺縁起」では、その後、白鳳十一年(683)天武天皇が笠置寺を創建したとしています。
また、「笠置寺縁起」とは別の伝承では、山号「鹿鷺山」の由来として、天智天皇の皇子が置いた笠を探していると、一羽の白鷺が飛んできて道案内をしたことから、弥勒菩薩発願の発端となった鹿と、道案内をした鷺との縁から、山号を「鹿鷺山」、寺号を「笠置寺」としたということです。
これらの伝承には、弥勒菩薩を発願したのは天智天皇の皇子(大友皇子と推定)で、一方、寺の創建者は、壬申の乱で大友皇子と敵対した天武天皇とされるなど関連の不明な点も多く、創建当時の文献が皆無なことから、全くの後世の伝説とする説もありますが、笠置山の大岩石の前から弥生式土器の有樋式石剣が発見されるなど、笠置山は古代から巨石信仰の地だったことは確かなようです。
笠置寺で最も重要な史跡の一つといわれる「千手窟」は、巨石に穿った洞窟ですが(現在は穴は通じていません)、天武天皇の白鳳十二年(684)に、役行者がこの千手窟に詣でたという伝承があります。また、奈良時代の天平十二年(740)年頃、聖武天皇の命を受けた東大寺の開山・良弁(ろうべん)和尚が、大仏殿建立のための用材が木津川を下って運搬できるように、千手窟で千手の秘法を用いて祈願したとされます。「笠置寺縁起」によると、この時、秘法によって現れた雷神が、筏の運行を妨げていた笠置山山麓の岩山を破壊して通路を開いたということです。
さらに、天平勝宝三年(751)には、良弁の弟子、実忠(じっちゅう)和尚が、龍穴(千手窟)より弥勒菩薩の住む兜卒天の内院に入って、そこで行われていた行法を伝えたのが、有名な東大寺の「お水取り」の起源であると伝えられます。この行法は、天平勝宝四年(752)正月、笠置寺の正月堂で始めて行われ、翌二月に東大寺二月堂での行法(お水取り)へと受け継がれることになったとされ、これらの伝承から、少なくとも奈良時代には、笠置山は大岩石に刻まれた仏を中心にした一大修験行場として栄えていたことが伺われ、その後、東大寺の末寺となっていったようです。
やがて、平安時代になると、笠置寺は弥勒信仰の一大霊場として栄え、天皇や公家の参詣の記録が増えてきます・・延喜年間(901〜23)には醍醐天皇(笠置寺縁起)、永延元年(987)十月に円融上皇(百練抄)、寛弘四年(1007)六月に藤原道長(御堂関白記)、万寿年間(1024〜28)に藤原頼通(笠置寺勧進状)、寛治四年(1090)六月に白河上皇(後ニ条帥通記)、元永元年(1118)九月に右大臣藤原宗忠(中右記)、安元ニ年(1176)十一月に後白河上皇(笠置寺縁起・一代要記己集)が笠置寺に参詣したという記録もあり、「枕草子」にも、寺の段に「寺は壷坂、笠置、法輪、霊山は、釈迦仏の御住みかなるがあはれなるなり」とその名が記されるように、笠置寺は畿内を代表する大寺院となっていたようです。また、天仁年間(1108〜10)には、笠置山の僧・永眞によって、現在の本堂の位置に礼堂が建立されますが、大治五年(1130)に焼亡して、その後は小さな草堂が礼堂として用いられていたようです。
その後、鎌倉時代初期に、笠置寺中興の祖・貞慶(じょうけい、解脱上人 1155〜1213)上人が登場して堂塔を整備し、笠置寺は全盛期を迎えます。
興福寺の貞慶上人(解脱上人)は、平治の乱で知られる少納言・藤原通憲(信西)を祖父とする名門の出身で、当時の旧仏教を代表する名僧の一人です。貞慶上人は、建久四年(1193)に、南都の仏教の退廃を嘆いて笠置寺に隠遁し、承元二年(1208)に笠置から近い観音寺(海住山寺と改名 以前にブログに採り上げています)再建のために笠置を去るまでの約十五年間を笠置寺で過ごしました。そして、その人脈を生かして後鳥羽上皇や九条兼実といった朝廷だけでなく、鎌倉幕府にも接近して、その援助を得て笠置寺を興福寺と並ぶ旧仏教の拠点として発展させました・・
こうして、建久五年(1194)八月に般若台院六角堂(大般若経を安置する六角形の御堂)、建久九年(1198)には木造十三重塔を建立、建仁三年(1203)二月には礼堂を改築しました。また、建久七年(1196)には、東大寺の重源(ちょうげん)上人が貞慶上人に解脱鐘を寄進しています。
一方、貞慶上人は、法然上人等による鎌倉新仏教に対しては厳しく対立姿勢をとり、元久二年(1205)に法然の弾劾を求める「興福寺奏上」を起草し、この奏上は、法然や親鸞の流刑の遠因となりました。(尚、貞慶上人は、建暦三年(1213)ニ月三日に入寂)
その後、寛喜二年(1230)に東大寺の僧、宗性(そうしょう 1202〜1278)上人が笠置寺に入って、多くの経典を整備し、文応元年(1260)十三重塔を修復する等寺の発展に努めています。
さて、鎌倉時代末期の元弘元年(1331)に「元弘の乱」が起こります。
後醍醐天皇の側近、前権大納言・吉田定房が六波羅探題に後醍醐天皇の倒幕計画を密告したことから、天皇の二度目の鎌倉幕府打倒の計画が事前に発覚したのでした。
この戦乱の様子は「太平記」や「笠置寺縁起」等に生きいきと描かれています・・それによると幕府は五月から七月にかけ公家や僧等の関係者を逮捕尋問します。八月になって後醍醐天皇は、中納言・万里小路藤房、季房兄弟を従えて三種の神器を奉じて御所を脱出、東大寺東南院、鷲峰山を経て、八月二十七日に笠置山に篭って挙兵しました。笠置山は、防御に適した急斜面と巨岩で守られた天然の要害だったのです。天皇は防備を固めると共に、二十八日には楠木正成を笠置山に招請する等周辺諸国から兵を募りました。しかし、九月に入ると幕府軍が笠置山に攻め寄せ、幕府はさらに諸国から増援軍を募りました。
九月一日には抜け駆けした幕府方の高橋一族、小早川氏が天皇方に撃退されて敗走。三日には天皇方の三河の住人・足助重範が強弓で寄せ手の将・荒尾兄弟を射殺し、大和般若寺の本性房という大力の僧兵が大岩を投げ落として幕府軍を苦しめるなどの活躍をしたと伝えられ、六日には幕府軍が三の木戸周辺で天皇方と激戦を展開して一旦退却しています。以後、近隣諸国の兵で増強された幕府軍は連日攻撃を繰り返しますが、天然の要害を攻めあぐんで膠着状態が続きます。そこで、幕府軍は天皇側に使者を派遣して、天皇の京都帰還を促しますが、天皇はこれを拒絶します。しかし、九月二十六日、東国から大佛貞直、金澤貞冬、足利高氏(尊氏)等の幕府増援軍が笠置に到着し、笠置山を包囲して総攻撃をかけます。幕府側の備中の住人・陶山義高、小宮山次郎が風雨の中で夜襲をかけ、ついに笠置山は九月二十八日夜、攻防一ケ月で落城しました。天皇側では石川義純、錦織俊政が奮戦して戦死、足助重範は捕らえられ、後に六条河原で斬首されました。
脱出した後醍醐天皇は、三十日に捕らえられ、一旦、宇治平等院に幽閉された後、十月三日に六波羅探題に預けられました。天皇は「今回の事は、自分の意思では無く天魔が勝手にやったものなので、どうか寛大な処置にして欲しい(花山院宸記)」と哀願しますが、元弘元年十一月、隠岐国への流罪と決定、翌元弘ニ年(1332)三月には隠岐の配所に送られました。この戦乱で笠置寺は、わずかに千手堂、六角堂、大湯屋、経蔵を残して全山焼亡し、本尊・弥勒磨崖仏も焼失し、貴重な古記録も失われてしまいました。
こうして、笠置寺は、幕府側の東大寺尊勝院の支配下に置かれますが、元弘三年(1333)天皇側が各地で再起すると、各地に散っていた笠置寺宗徒が呼応して立ち上がり、東大寺尊勝院の代官を追い払って支配権を奪回しています。
さて、鎌倉幕府が滅亡すると、天皇方への貢献から、元弘三年(1333)八月に笠置寺本堂再建の勅宣が出されますが、南北朝の戦乱が起こって再建途中で延期となり、永和二年(1376)三月にも再建が計画されますが実現しませんでした。ようやく、永徳元年(1381)三月に本堂が再建されますが、応永五年(1398)に籠所から出火して本堂が焼失しています。
そして、応仁の乱以降の戦国期には笠置山は山城として用いられ、笠置寺はかつての栄華を取り戻すこと無く、細々と存続していたようです。また、創建以来、興福寺や東大寺との繋がりが深かった寺は、経過不明ながら江戸時代初期には真言宗寺院となっています。
字数オーバーのために次回に続きます・・・
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