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前回に続いて、笠置寺を採り上げます。
(尚、今回の写真は、最大の見所の正月堂と巨大な磨崖仏弥勒菩薩や虚空蔵磨崖仏を中心に掲載してみます。)
さて、笠置寺の歴史について続けます・・・
江戸初期の元和五年(1619)五月、笠置一帯のある山城国一部は、津藩藩主・藤堂氏の領地となり、笠置寺も藤堂氏の支配下に置かれます。
寛永十一年(1634)、二代藩主藤堂高次は、笠置寺に参詣し寺領として十五石を寄付しました。さらに高次は、慶安元年(1648)には、寺の弥勒堂(現・正月堂)を再建しています。以下、歴代藤堂藩主も参詣してその援助を受けますが、江戸中期頃から経済的に疲弊して荒廃し、安政元年(1854)の安政の大地震でも被害を受けました。
さらに、幕末には離反して寺を捨てる住職が相次いだことから、寺は実質的に笠置山麓の南笠置村の富裕な庄屋・大倉一族等の管理下にあったようです。こうして、明治初年には無住の寺となっていた笠置寺ですが、明治九年(1876)に大倉一族出身の大倉丈英和尚が入山し、約二十年に渡って笠置寺の復興に尽くしました。
さて、江戸時代中期以降の尊皇思想の高まりによって、笠置山は、奈良〜鎌倉時代に栄えた弥勒信仰の霊地としてでは無く、後醍醐天皇ゆかりの「元弘の乱」の史跡として知られるようになっていましたが、明治十九年(1886)には、笠置山山中に、小松宮彰仁親王の書による約五メートルの「行宮遺址」碑が完成し、明治三十三年(1900)には、笠置山元弘彰址会によって後醍醐天皇の行在所を示す石垣が整備されました。大正六年(1917)五月には東宮(昭和天皇)が笠置寺に参詣し、昭和七年(1932)には、笠置山一帯が国の史跡に指定されています。
戦前には、鉄道網の整備や国家主義の高まりによって、笠置を訪れる観光客は急増し、大阪近郊では、軍人の団体や学生達が「元弘の乱」の遺跡を訪れるために押し寄せました。また、当時は、南朝史跡に親しむ課外活動として小学生の遠足でも笠置を訪れるのが一般的だったということです。
その後、戦後の農地改革により一時経済的に困窮しますが、昭和三十二年(1957)四月には本堂、昭和三十八年(1963)に鐘楼堂を改修し、昭和四十九年(1974)春に舎利殿が完成。さらに、昭和六十三年(1988)大師堂を改築しました。平成三年(1991)には、NHK大河ドラマ「太平記」の影響で観光客も増え、平成九年(1992)頃には、餌をねだって観光客に寄り添って境内を回ることから、「笠置山をガイドする猫」として「笠やん」という野良猫がマスコミの脚光を浴びました(現在、死んだ「笠やん」の墓が参道にあります)そして、平成9年(1997)一月に本坊庫裏を改築、平成十六年(2004)に毘沙門堂を改築して今日に至ります。
さて、JR関西線「笠置駅」から笠置山へと向います・・駅の改札口の前には、「元弘の乱」で天皇方として活躍した足助次郎重範や大和般若寺の僧・本性房の活躍シーンを描いたコンクリート像があり、道路沿いには「笠置元弘の乱絵巻」として、「元弘の乱」のてん末を看板にして掲示していて、観光客にアピールしています。今でも、笠置山は、弥勒信仰の聖地というより、南北朝時代の戦場跡という方が一般的にはわかりやすいのでしょう。
駅から五分程度歩くと、左手に笠置山登山口が見えてきます。(尚、右側の道「柳生街道」は、「柳生の里」に通じる街道として知られます。創建当時は、この柳生街道が表参道で、街道途中には、貞慶上人が建久五年(1194)に建立した般若台院六角堂の跡地があり、史跡公園として整備されています。)
笠置山の登山口としては、車道「新登山道」と旧登山道「史の道コース」がありますが、「史の道コース」は東海自然歩道になっていて、広く歩きやすい山道です。この「史の道」の途中には、後醍醐天皇軍と鎌倉幕府軍が戦った「元弘の乱」の際、天皇方の足助次郎重範が強弓で矢を放って幕府軍との戦端を開いた場所といわれる「一の木戸跡」があり、「足助次郎重範公奮戦跡」の石標があります。
一方、「新登山道」の途中の脇道には、崖の自然石に「行宮遺址」と彫まれた場所があります(後醍醐天皇の仮皇宮を置かれたのを記念して、明治時代に建立されたものです)。どちらの道からでも徒歩約四十分程度で笠置寺の山門前に到着します。(今回は旧登山道の様子を掲載します。)
さて、山門を潜ると、左手に本坊や鐘楼、収蔵庫、椿本護王宮、大師堂、右手の石段上には毘沙門堂、稲荷社、舎利殿等が立ち並んでいます。また、椿本護王宮の右には、修行場の入口があり、ここからは一周約八百メートル(所要時間三十〜四十分)の修行場となっています。この修行場には、弥勒磨崖仏、正月堂、石造十三重塔、虚空蔵菩薩磨崖仏、千手窟、後醍醐天皇行在所、二の丸跡等の史跡があり、「胎内くぐり」「太鼓石」「ゆるぎ石」「平等石」「蟻の戸わたり」「貝吹石」などと名付けられた巨岩が点在しています。
山門のすぐ側には、まず「笠置型灯篭」があります。
笠置型灯篭とは、平安時代に笠置寺参道に建てられていた灯篭と伝えられますが、現存するものや資料が無いことから、幻の灯篭といわれてきました。しかし、近年、愛知県岡崎市の石材業者組合が大正時代に発行した本に形式や寸法が記載されていたことが判明したことから復元されたものです。さらに、その左には江戸時代に手水鉢に転用された室町時代の大きな石製「本尊仏香炉」が置かれています。
山門の左手にある笠置寺本坊は、笠置山山内の一子院(塔頭)旧福寿院になります。
笠置山では、平安時代以降の全盛期には、四十九院の一子院(塔頭)があったと伝えられ、創建から明治までこれら山内子院(塔頭)を総称して笠置寺とし称し、笠置寺という建物自体は無かったようです。山内の多くの子院(塔頭)は、「元弘の乱」で焼失して衰徴し、その後幾つかが再建されましたが、江戸時代初期には、福寿院、知足院、不動院、文殊院、多門院の五院があったようです。さらに、安政の大地震を経て、江戸末期には福寿院、知足院、文殊院、多門院の四院が無住のまま残存していました。そして、明治九年(1876)に大倉丈英和尚が入山した際に、福寿院を笠置寺本坊と定め、多門院は本堂を毘沙門堂として残し、他の子院は取り壊されました。
本坊の側には、コンクリート製の鐘楼があります。鐘楼の鐘は、「解脱鐘」と呼ばれ、国指定文化財に指定されています。
鐘の基底部は六つに切り刻まれていて「六葉蓮弁」蓮の花をイメージした日本で他に類の無い中国風の独特な意匠となっています。この「解脱鐘」は、東大寺の俊乗坊重源(ちょうげん)上人の作と伝えられ、鎌倉時代の建久七年(1196)、重源上人は、この鐘と中国から持ち帰った紺紙金泥の大般若経六百巻を笠置寺の貞慶(じょうけい、解脱上人)上人に寄進しました。しかし、その後、大般若経とそれを納めていた六角堂や鐘楼は元弘の戦乱で焼亡し、この鐘のみは幸い無事だったということです。この鐘は現在は除夜の鐘でのみ撞かれています。また側の庫裏は平成九年(1997)一月に改装されたもので、同じく側の笠置寺収蔵庫には、笠置寺に伝わる寺宝を納め、その一部は展示されています。
「解脱鐘」からさらに右手奥に進むと、「椿本護王宮」があります。
椿本護王宮は、笠置寺の鎮守社で、祭神として椿本護法善神を祀っています。「笠置寺縁起」によると、平安時代の延喜八年(908)に、日蔵(にちぞう)上人が、千手窟より弥勒菩薩の住む兜卒天の内院に入った際に、山神から御告げを受けて吉野金峯山の椿本大明神を勧請したものと伝えられます。
現在の社殿は、向拝の虹梁の木鼻、海老虹梁の木鼻の渦絵様を単円でなく、一、二回折って変化をつける等、安土桃山時代に豊臣氏が寺社建築の再興に用いた手法を合わせて用いているため、記録文書の裏付けは無いものの、元弘の戦乱で焼失した建物を、本堂等と共に豊臣氏が再興した可能性があると考えられています。
一方、本坊の方とは逆に、山門から右の石段を登ると、毘沙門堂があります。
毘沙門堂は、元々、笠置寺の子院(塔頭)多門院の本堂で、明治時代に毘沙門堂に改められました。本尊は鎌倉時代の像高五十センチの木造毘沙門天像です。伝説では、楠木正成の念持仏として、かつては信貴山の毘沙門天と並んで戦勝の神、福徳の神、財宝の神として多くの人々に信仰されてきました。建物の老朽化により、現在の建物は平成十六年(2004)六月に改築されたものです。また、毘沙門堂の前には稲荷社があり、側には、元弘の戦乱から六百五十年を記念して昭和五十六年(1981)十月に建立された慰霊の碑が建てられています。さらに奥に進むと舎利殿があります。
さて、「椿本護王宮」の側の修行場入口から進むと、左に「大師堂」へと続く石段があり、石段下には、「笠置山をガイドする猫」として知られた「笠やん」の小さな墓(笠坊之墓」)があります。また、右手の参道を進むと「正月堂」が見えてきます。
「大師堂」は、天平勝宝三年(751)に、東大寺の実忠(じっちゅう)和尚が建立した旧正月堂の跡地にあります。
現在の笠置寺は真言宗智山派に属していることから、室町時代の石仏弘法大師像を祀っています。有名な東大寺の「お水取り」の行法は、天平勝宝四年(752)正月、この笠置寺の旧正月堂で始めて行われ、翌二月に東大寺二月堂での行法へと受け継がれることになったともされ、また、この旧正月堂(笠置寺本尊礼堂)があることから、東大寺山内(二月堂・三月堂・四月堂等があります)には最初から正月堂は建立されなかったということです。この旧正月堂は、元弘の戦乱で焼亡して以降も復興されず、現在の正月堂は、明治三十年(1897)の関西鉄道の開通によって、現笠置駅にあった大師堂を笠置寺境内の旧大師堂跡地に移築したものです。
一方、現在の「正月堂」は、笠置寺の本堂です。
笠置寺の本尊である巨大な磨崖仏弥勒菩薩に相対して建てられていて、本堂ではあるものの、本尊磨崖仏弥勒菩薩が巨大なために礼拝堂にもなっています。また、右下の断崖に接しているため、懸崖造になっています。
また、正月堂の本尊として、堂内には天平勝宝三年(751)に、東大寺の実忠(じっちゅう)和尚が、千手窟で修行した際に感得したという十一面観音像を祀っています。この十一面観音像は、江戸時代初期の東大寺の公慶(こうけい)上人が笠置寺に寄進したもので、平安時代中期の作とされています。
元々、現在の「正月堂」のある地には古くから崖仏弥勒菩薩を拝礼する礼堂があり、鎌倉時代初期の建仁三年(1203)に貞慶(解脱上人)が鎌倉幕府の寄進を得て豪華な礼堂を再建しています。その後、礼堂は元弘の戦乱で焼失し、その後、室町時代末期の文明十四年(1482)頃に笠置寺の住職となった東大寺の貞盛(じょうせい)和尚が復興し、さらに津藩二代藩主・藤堂高次が、慶安元年(1648)に再建しています。そして、昭和三十二年(1952)に解体修理された際に、かつての礼堂様式を復元して、桟唐戸量開き開口を設けています。
次回は、巨大な磨崖仏弥勒菩薩や虚空蔵磨崖仏を中心に書いてみます。
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