京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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笠置寺その3

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笠置寺の続きです・・・


さて、前回に写真を掲載しましたが、本堂「正月堂」への途中、頭上に巨大な巨岩が突き出ていて、周囲の紅葉とよくマッチしています。
この岩は、「薬師石」と呼ばれる高さ約十二メートル、幅約九メートルの大岩で、その姿形から戦前は「軍艦岩」とも呼ばれていたそうです。「笠置寺縁起」が記している、天智天皇の皇子が岩から転落しかけた場所は、この「薬師石」の上部付近とされます。(あくまで後世の伝説に過ぎませんが、薬師石には、岩から転落しかけた時の馬の蹄の跡が残っているともいわれます。)
また、「薬師石」の右には、文殊菩薩像が刻まれていたという伝承もある高さ約七メートル、幅約十三メートルの「文殊石」があります。(実際に線刻を刻んだ形跡は無いので、文殊菩薩が刻まれたというのは後世の伝説のようです。)
さらに「薬師石」と「文殊石」の間に挟まれて載っている石(高さ一メートル、幅二メートル以上)は、天智天皇の皇子が再度この地を訪れる際の目印として笠を置いた石と伝えられ、「笠置石(かさおきいし)」と呼ばれています。そして、「文殊石」の奥にあるのが、高さ十二.四メートル、幅五.七メートル人形の光背が残る「弥勒石」です。



さて、いよいよ、笠置寺の本尊、弥勒大磨崖仏についてです。
正月堂の横にある高さ約十五.七メートル、幅約十二.七メートルの花崗岩の巨大な「弥勒石」に刻まれたこの弥勒菩薩像は、元弘の戦乱などの数度の火災に遭って、現在では後背を残すのみとなっていますが、古来多くの人々の信仰を集めてきました。特に、平安時代には末法思想の流行もあって天皇や貴族による「笠置詣(笠置詣り)」がしばしば行われました。

「笠置寺絵縁起」によると、この弥勒大磨崖仏の発願は天智天皇の皇子(大友皇子と推定)とされますが、実際にいつ頃彫られたのかについては諸説あるようで、元々は、古代の巨石信仰に始まると考えられています。花崗岩の加工技術は、仏教と共に渡来人によって大陸から伝来したとされるため、これら渡来人の子孫たちが大磨崖仏を彫刻したと考えられています・・実際、笠置山のある南山城の地域は、高麗系の狛氏族が多く住み着いた地域でした。

一説では、奈良時代に、東大寺の大仏殿建立のための用材が木津川を下って運搬できるように笠置寺の千手窟で祈願したとされる東大寺の開山・良弁(ろうべん)和尚や、その弟子で、笠置寺の千手窟より弥勒菩薩の住む兜卒天の内院に入って第一回の「お水取り」の行法を行った実忠(じっちゅう)和尚の指導の下で渡来人の石工が彫刻したともいわれますが、より前の白鳳時代に遡るという説もあります。ともかく、弥勒大磨崖仏は、元々は優雅な線彫りによって刻まれていて、平安時代には彩色が施されました(本朝世紀)が、元弘の兵火によって剥落して線刻を失い、今では後背を残すのみとなっています。
しかし、かつての厳かな弥勒像の姿は、「笠置曼荼羅(大和文華館所蔵)」からも窺われ、それによると、当時は現在のものよりも巨大な礼堂が本尊の前に建てられていたようです。また、大野寺(奈良県室生)の弥勒磨崖仏や当尾の辻の弥勒仏(京都府加茂町)は、この弥勒大磨崖仏弥勒菩薩像を模写したものと伝えられます。



「文殊石」の前にあるのが、国の重文に指定されている十三重石塔です。
この石塔は、高さ約四.七メートルあり、鎌倉時代から室町時代の作と推定されています。元々この場所は、笠置寺中興の祖・貞慶上人(解脱上人)が建久九年(1198)に木造本瓦十三重塔を建立した場所とされ、元弘の戦乱で木造塔が焼失後に建てられたもののようです。貞慶上人(解脱上人)が母のために建立した塔とも、元弘の戦乱で戦死した武将たちの供養塔であるともいわれていていますが、詳細は不明です。また、十三重石塔の両側にある五輪石塔は、元弘の戦乱で天皇方として奮戦して亡くなった石川義純と錦織俊政の墓という言い伝えもあります。

さて、本堂正月堂の下の道を下ると、正面に巨石が並んでいます。伝承では、この二つの大石には、かつては金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が描かれていたということですが、その真偽は不明です。
この二つの石の間が笠置寺の修行場「千手窟」で、現在は土砂の堆積によって入口は埋もれていますが、弥勒菩薩の住む兜卒天の世界に通じる龍穴といわれ、弥勒菩薩石像と並んで笠置寺で最も重要な史跡の一つとされています。

天武天皇の白鳳十二年(684)には、役行者がこの千手窟に詣でたという伝承があり、奈良時代の天平十二年(740)年頃、聖武天皇の命を受けた東大寺の開山・良弁(ろうべん)和尚が、大仏殿建立のための用材が木津川を下って運搬できるように、千手窟で千手の秘法を用いて祈願したとされます。「笠置寺縁起」によると、この時、秘法によって現れた雷神が、筏の運行を妨げていた笠置山山麓の岩山を破壊して通路を開いたということです。そして、以降はこの故事に倣って大仏殿の修理の際は、必ずこの場所で無事完成を願って祈願法要が行われたとも伝えられます。さらに、天平勝宝三年(751)には、良弁の弟子、実忠(じっちゅう)和尚が、千手窟より弥勒菩薩の住む兜卒天の内院に入って、そこで行われていた行法を伝えたのが、有名な東大寺の「お水取り」の起源であると伝えられます。この行法は、天平勝宝四年(752)正月、笠置寺の正月堂で始めて行われ、翌二月に東大寺二月堂での行法(お水取り)へと受け継がれることになったとされます。



また、千手窟の右側、「金剛界石」「胎蔵界石」と並んで、おむすび形の高さ約十二メートル、幅約七メートルの花崗岩の巨石があり、美しい磨崖仏が彫られています。これが「虚空蔵石」です。

描かれているのは、伝・虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ、一説では如意輪観音、弥勒菩薩とも)で、像の高さは、約六.七七メートルあります。この辺りが本堂から離れていたために、元弘の戦乱の際にも戦火に焼かれず、当時と変らない美しい姿をとどめていて、笠置寺で最も完全な形で残るたいへん貴重な磨崖仏といえます。

この伝・虚空蔵菩薩磨崖仏は、「笠置寺縁起」によると、平安時代初期の弘仁年間(810〜24)、弘法大師空海が、この巨石に登って求聞持法を修した時、明星が巨石を照らして、その光跡で一夜にして彫ったと伝えられ、実際の作成年代も、奈良時代後期、平安後期等諸説あるようです。本尊の弥勒大磨崖仏の方があまりに有名だったためか、この伝・虚空蔵菩薩磨崖仏に関しては、文献上の記述が少ないようですが、日本屈指の最も美しく巨大な磨崖仏という評価もあるようです。(近年、笠置町町政五十周年の記念事業の一環として拓本が採られ、大掛軸が作成されています。)



さて、「虚空蔵石」からさらに進むと、笠置修行場の入口にあたる「胎内くぐり」があります。「胎内くぐり」は、人一人がなんとか通れる程の約十メートルの石のトンネルです。
一般的に、修行場に入る前には滝で身を清めるというのが普通ですが、笠置山には滝が無いために、この岩を潜り抜けることで身を清めたといわれ、一度母の胎内に戻って再生するという浄化の場所とされています。かつては天井となる石があったようですが、安政の大地震によって天井岩が落下して谷に落ち、それ以降は人工の切石の天井となったということです。
また、「胎内くぐり」から少し先に進むと、「太鼓石」があります。
上から落下した大岩に挟まれて道が通り抜けていて、上の大石を叩くと石の間の隙間から反響して太鼓のような音がするとされます。

さらに暫く進んで周回路が登りとなると、眺望が開けた場所に出ます。眼窩に木津川を見下ろすこの場所には、高さ約一.五メートル、幅約二メートル程の丸い石が大きな平石の上に載っています・・これが「ゆるぎ石」です。
この場所は、元弘の戦乱の際、後醍醐天皇軍が下から攻めてくる幕府軍に対して岩を落としたとところと言われていて、「ゆるぎ石」は、武器として使用された石の名残で、使用されないでここに置かれたままとなったようです。重心が中央付近にあって、今でも手で押すと動くことから「ゆるぎ石」と名付けられています。


「ゆるぎ石」の辺りから斜面下って進むと、再びたいへん見晴らしの良い場所があり、「東ののぞき」と呼ばれています。江戸時代にはここは月見の場所として用いられていたということです。また、側には「平等石(びょうどういし)」や幾つかの大石が重なるように置かれています。

「平等石」は、修行場で最も巨大な扁平な石で、「平等石(びょうどういし)」の名は、御堂の中を回って修行する行道(ぎょうどう)から転じたものともいわれています。また、平等石と巨石の間の、人が何とか通れる程度の傾いた通り抜けの部分は、「蟻の戸わたり」と呼ばれ、平等石の周りを回る行道の一部です。また、「平等石」の背後には小さな洞窟があり、奥には修験道の名残らしく不動明王の石像が祀られています。尚、この平等石の中を潜るトンネルや、石の上に登るための鎖場は、現在は危険なため公開されていません。

「平等石」から石段を下ると、「二の丸跡」があります。
元弘の戦乱当時は、後醍醐天皇の仮皇居として正式な築城はなされなかった笠置山ですが、その後、戦国期に笠置山が要塞化してから、山頂付近の後醍醐天皇行在所を本丸と見立てて、一段下がったこの場所が二の丸になるということから、このように呼ばれるようになったということです。この場所も見晴らしがよく、現在は小さなあずまやがあるだけですが、昭和三十年代までは茶店もあったということです。

この「二の丸跡」から少し進むと広場になります。
この広場には貝を伏せたような巨石があって、「貝吹き岩(かいふきいわ)」と呼ばれています。元弘の戦乱のとき、この石の上で連絡のためのほら貝を吹いたとされることから、このように名付けられています。尚、この見晴らしの良い広場では、江戸時代には要人が笠置を訪れた際には、幕を張った休憩所が作られていたということです。また、この広場には、戦前に設けられた紀元二千六百年記念の国旗掲揚台の基壇の残骸が残っています。



次回に続きます。


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