京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

北区

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今回は、京都市北区平野上柳町にある「後朱雀天皇火葬塚」を採り上げます。

この火葬塚は、金閣小学校という小学校の校門側にあり、以前に採り上げた白河天皇火葬塚(衣笠西馬場町)から八十メートル程南にあります。円形の塚は小学校の校舎二階から直ぐ下に見下ろせる位置にあるので、場所柄、あまり周囲をウロウロして怪しい人に間違われないようにした方が良い感じもします。


さて、第六十九代・後朱雀天皇(ごすざくてんのう 1009〜1045)は、寛弘六年(1009)十一月、第六十六代一条天皇の第三皇子として生まれ、名を敦良(あつなが)といいました。母は関白・藤原道長の長女・中宮彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)で、同母兄に第六十八代・後一条天皇があります。

敦良親王(後の後朱雀天皇)は、寛仁元年(1017)八月に兄・後一条天皇の皇太弟となりますが、この立太子の背景には、関白・藤原道長の強力な後押しがありました。
当時、道長は、娘の彰子が一条天皇との間に、敦成親王(あつひらしんおう 後の後一条天皇)、敦良親王(あつながしんのう 後の後朱雀天皇)を生んでいて、これら若い皇子を順番に即位させることで、今後二代の間にも揺ぎ無い権力を握ることを目指していました。道長にとって邪魔な存在は、一条天皇に代わって即位した第六十七代・三条天皇で、道長とは疎遠な関係でした。(前にブログPart1で「三条天皇北山陵」を採り上げた際に、より詳しく書いていますので、ご参照ください)

道長は三条天皇の意向を無視する妨害工作を繰り返し、この道長の圧力に加えて三条天皇には生来眼病があったことから、ついに、長和五年(1016)正月、三条帝は、道長の勧めを聞き入れて退位を決意します。そして、退位の条件として、第一皇子・敦明親王(あつあきらしんのう)を敦成親王(後の後一条天皇)の皇太子にすることを道長に認めさせました。しかし、三条上皇が寛仁元年(1017)五月に崩御すると、道長は、帝との約束を反故にし、敦明親王に対して圧力をかけます。こうして、敦明親王は皇太子を辞退したいと道長に申し出ました。喜んだ道長は、敦明親王に報いるために小一条院太上天皇の尊号を贈って准上皇として厚遇します。



さて、道長は、敦明親王の皇太子辞退によって、寛仁元年(1017)八月、九歳の敦良親王(後の後朱雀天皇)を兄・後一条天皇の皇太子に定めました。
その後、寛仁六年(1021)に道長の六女・嬉子(ふじわらのきし よしこ)が敦良親王に東宮妃として入内しますが、嬉子は万寿二年(1025)に第一皇子・親仁親王(ちかひとしんのう 後の後冷泉天皇)を出産して間もなく亡くなり、その後、三条天皇の皇女で、道長の孫(母は道長の娘・中宮妍子)に当たる禎子内親王(ていし・さだこ ないしんのう 陽明門院)が入内し、第一皇女・良子内親王、第二皇女・娟子内親王、そして、長元七年(1034)に第二皇子・尊仁親王(たかひとしんのう 後の後三条天皇)を生んでいます。
そして、長元九年(1036)四月、兄の後一条天皇が皇子の誕生を見ぬまま二十九歳で崩御したため、敦良親王(後朱雀天皇)はその後を受けて二十八歳で即位しました。


翌長元十年(1037)一月、関白・藤原頼通は、父道長に倣って外戚として自らの権力基盤を安定させるため、養女・嫄子(ふじわらのげんし もとこ嫄子女王、一条天皇皇子・敦康親王(後朱雀天皇の異母兄)の娘)を入内させて、三月中宮に冊立しました。(頼通は父道長と違って不運にも子女に恵まれなかったため、早くから養女としていた嫄子を入内させて中宮とし、皇子の誕生を期待したのでした。)

しかし、嫄子入内は、禎子内親王の心を深く傷つけ、後朱雀天皇と禎子の間に亀裂を生みます・・皇太子時代から天皇と禎子との関係は、三人の皇子皇女に恵まれるなど良好なものでしたが、強引に嫄子の中宮冊立を企てる藤原頼通の圧力を感じた禎子は、皇子・尊仁親王(たかひとしんのう 後の後三条天皇)を連れて宮中を出て、憎い嫄子が死去した後の長久元年(1040)十二月までの四年間、御所に参内しなかったと伝わります。(権力を握る頼通に気兼ねして、後朱雀天皇としてもどうすることも出来ず、この間、互いを慕う後朱雀天皇と禎子の間に交わされた和歌が残っています。禎子の返歌には恨みも感じますが)

一方、嫄子も後朱雀天皇の寵愛を受けて、長暦二年(1038)、翌三年(1039)に相次いで祐子内親王、禖子内親王の皇女二人を生みますが、長暦三年(1039)八月に亡くなりました。
頼通が入内させた嫄子が皇子を生むことなく亡くなったことは、頼通に代わって外戚の地位を得ようとするその弟達の野心を刺激し、長久三年(1042)三月には、頼通の異母弟・権大納言・藤原頼宗(ふじわらのよりむね)が娘延子(えんし)を、同年十月には頼通の同母弟・内大臣・藤原教通(ふじわらののりみち)が娘生子(しょうし・なりこ)を相次いで入内させますが、共に皇子を得ることはありませんでした。(延子は懐妊中に後朱雀天皇が崩御に遭い、その三ヵ月後に正子内親王を生んでいます。生子は子供を産むことはありませんでした。)
こうして、頼通・教通兄弟ら藤原一門が権力を巡って後宮対策に熱中する間、邪魔者扱いの皇后・禎子内親王とその皇子・尊仁親王(後の後三条天皇)は頼通らに冷遇されていましたが、藤原頼宗の同母弟の権大納言・藤原能信(ふじわらのよしのぶ)のみは、異母兄・頼通への反抗心もあって、中宮大夫として禎子内親王や尊仁親王の側に仕え彼らを支えました。



さて、寛徳元年(1044)正月から都では悪病が流行し、五月二十五日頃には後朱雀天皇も里内裏・東三条第で病にかかります。その後、帝は一旦は快復したようですが、十二月後半には再び重病となりました。悪性の腫瘍によって左肩が腫れて熱を持ち、冷水をかけて熱を抑えるなどの治療が行われました。(「栄華物語」では病名を「にきみ」と記します)
治療に当たったのは、当代一の名医で、後に(永承七年1052)後冷泉天皇(後朱雀天皇の子)の病気を治した功績から、各々従四位上・従四位下に任じられることになる典薬頭・和気相成(わけのあいなり)、権医博士・丹波雅忠(たんばのまさただ)でしたが、この時は二人の治療の効果も無く、帝の病気は快復しませんでした。翌寛徳二年(1045)正月十日には、後朱雀天皇の快復を祈願して大赦があり、皇太子の第一皇子・親仁親王(後の後冷泉天皇)も帝を見舞いました。そして、後朱雀天皇はついに危篤状態となり譲位を決断しました。


後朱雀天皇は、漢詩や和歌を好んだ才能ある天皇でしたが、政治の実権は藤原頼通が握っていたため、これまで大きな政治的決断をすることはありませんでした。しかし、死の間際に、その後の歴史に少なかざる影響をもたらす一つの決定を行いました。それは、頼通に圧迫されて日陰の身に置かれていた第二皇子・尊仁親王(後の後三条天皇)を、皇太子・親仁親王が即位した後の皇太子に決めたことでした。

この次期皇太子の決定過程については、真偽については明らかではありませんが、「今鏡」「古事談」「愚管抄」等に興味深いエピソードが記されています。
それらによると、危篤状態となった後朱雀天皇は、皇太子・親仁親王(後冷泉天皇)への譲位を宣言しますが、次期皇太子については決定に迷いました・・・・
天皇には皇太子・親仁親王(後冷泉天皇)と尊仁親王(後の後三条天皇)以外に皇子は無く、二十歳の皇太子(親仁親王)にも皇子はありませんでした。順番からいえば、第二皇子・尊仁親王が次期皇太子となるのが通例ですが、関白・藤原頼通が、天皇の提案に対して態度を保留し、今すぐ決める必要は無いでしょうと、決断の先延ばしを進言したからでした。

頼通が尊仁親王(後の後三条天皇)の立太子に賛成しなかったのは、親王の母が禎子内親王で、藤原氏と外戚関係に無かったことによります(禎子は三条天皇の皇女で、藤原道長にとっては孫(母は藤原道長の娘・中宮妍子)に当たりますが、頼通ら当時の摂関家との関係ではかなり傍系といえます)
頼通の立場からいえば、外戚関係に無い尊仁親王の立太子は、自身や次世代の権力基盤の安定という点から大変都合の悪いことでした。頼通は、外戚関係にある皇太子・親仁親王(後冷泉天皇)にいずれ自身の外孫となる皇子が誕生すれば、その皇子を皇太子にしようと考えていました。

さて、「今鏡」や「愚管抄」によると、頼通の意見を聞き入れ皇太子については決定を保留していた病の床の後朱雀天皇のもとに、頼通の異母弟・権大納言・藤原能信(ふじわらのよしのぶ)が参上します。
先に書いたように、能信は尊仁親王(後の後三条天皇)の保護者の立場にあり、尊仁親王の将来を心配する数少ない親王の味方でした。
能信は、後朱雀帝に「二宮(尊仁親王)の御出家についてですが、どの僧に師事を命じましょうか?」と尋ねました。これを聞いた後朱雀帝は、意外と感じたのか、「東宮(皇太子)にするつもりだ。どうして僧になどしようか」と言い、関白(頼通)が東宮(皇太子)については、急いで決めることも無いと言うので、後日決定しようと思っていると語ります。これを聞いた能信は、ここぞとばかりに、「今日すぐに、二宮(尊仁親王)を東宮(皇太子)になされなければ、もう実現できないと思います」と言うと、後朱雀帝も自身の病気を考え「それならば、今日すぐに」と、直ちに尊仁親王を立太子させるという遺詔を発したということです。
優れた才能を持ちながら頼通に気兼ねしてきた後朱雀帝が、生涯の最後に頼道に逆らって自身の意志を通したといえるでしょうか。こうして、尊仁親王(後の後三条天皇)は立太子され、藤原能信は東宮大夫となって引き続き親王を支えることになりました。
(尚、その後の尊仁親王については、「後冷泉天皇火葬塚」で書いてみます)



最後に後朱雀天皇の崩御についてです・・
寛徳二年(1045)正月十六日、危篤状態となった後朱雀天皇は、親仁親王(後冷泉天皇)に譲位して上皇となり、皇弟尊仁親王(後の後三条天皇)を皇太子としました。そして、十八日に出家し、同日崩御しました。(享年三十七歳)
遺骸は、二月二十一日に香隆寺の北西(香隆寺乾原)で火葬され、遺骨は一条天皇御願で、長徳四年(998)に創建した仁和寺塔頭・円教寺に納められ、その後、天喜三年(1055)十月、円教寺寺域の一部に円乗寺と称する御堂が建立され、後朱雀天皇陵とされました。(香隆寺については、白河天皇火葬塚や二条天皇陵等を採り上げた際に書いていますが、鎌倉時代以降に廃絶し、その正確な位置は不明となりました。明治時代に北区平野を跡地と推定し「二条天皇香隆寺陵」が造られました)


さて、円融天皇から後三条天皇の時代・・平安中期から後期にかけて、現在の仁和寺の周辺には、塔頭として円融寺、円教寺、円乗寺、円宗寺の、いわゆる「四円寺」と総称される天皇御願寺が相次いで建立されましたが、その後中世には全て廃絶してその位置も不明となりました。
この内、第六十四代・円融天皇の勅願寺として天元六年(永観元年 983)に創建された円融寺の跡地は、現在石庭で知られる龍安寺(竜安寺)境内と推定されています。そして、明治時代に、この龍安寺の裏山(右京区龍安寺朱山 龍安寺内)に、他の「四円寺」の円乗寺、円教寺、円宗寺を陵墓とした後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三条天皇の三代の天皇陵が一ヶ所に集められて整備されました。(「後朱雀天皇円乗寺陵」「後冷泉天皇円教寺陵」「後三条天皇円宗寺陵」)
しかし、「四円寺」の跡地自体の特定が困難な中で、これらの陵墓をまとめて地定するにはやはり無理があり、「後朱雀天皇円乗寺陵」についても、現在は、遺骨が納められた円教寺や円乗寺は、仁和寺の南東方面にあったと推定されることから、陵墓の信憑性には問題があるとされています。

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