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白峯神宮その2
上京区
[ hiropi1700 ]
2009/9/26(土) 午後 3:42
[ hiropi1700 ]
2009/9/24(木) 午前 7:01
[ hiropi1700 ]
2009/8/27(木) 午前 3:52
[ hiropi1700 ]
2009/8/27(木) 午前 3:50
ご質問ありがとうございます。私は妙見信仰について詳しくは無いので、山城国の家苗妙見が、現在の岩戸妙見であるという確かな根拠については不明です。
京都では、妙見信仰は江戸時代に民衆の間にも広く流行しますが、平安遷都の際に、王城の四方に妙見大菩薩を祀ったのが妙見信仰の基礎とされます。現在の岩戸妙見(圓成寺)は、この王城の四方に置かれた妙見信仰の聖地の一つ、霊巖寺(北山の船山南山麓にあったと推定)を江戸時代初期に再建したものとされています。
この霊巖寺という寺院は、平安時代に王城鎮護のため置かれた妙見聖地の中で、後世の資料にも散見されることから、京都で最も栄えた妙見信仰の霊地であったようです。そのため、それを再建した岩戸妙見(圓成寺)が、最も由緒ある妙見信仰の地の一つとして、山城国の家苗妙見といわれた可能性が高いとは思います。
[ hiropi1700 ]
2009/7/10(金) 午前 0:44
[ hiropi1700 ]
2009/7/10(金) 午前 0:37
[ hiropi1700 ]
2009/7/3(金) 午後 10:15
また、後醍醐天皇が、生前に延喜天暦の聖代」の醍醐天皇を理想として自らの号を定め、後村上天皇も同じく「延喜天暦の聖代」から村上天皇に因んで号が採られ、後亀山天皇も、大覚寺統の血統から亀山天皇に因んで諡号が定められたのに対し、長慶天皇のみは、なぜかこれらの例に当てはまらない点に着目します。元々「長慶」とは、中国の長楽府西院の禅院、長慶に由来すると考えられ、日本でも、これに因んで長慶寺、長慶院といった禅宗寺院が建てられました。そして、長慶上皇も、長慶院という禅宗寺院に居住したことから長慶天皇と称せられたと考えます。南朝の拠点の畿内南部(南北合一時も後亀山帝と共に入京した形跡が無いことからもその可能性が高い)で、南朝と最も関係深い禅宗・法燈派寺院の可能性が高いとし、和泉国大雄寺などの当時の大寺院内の一塔頭に、当時、長慶院という寺院があり、長慶帝はこの院で晩年を過し、或いは崩御したのではないかと推測しました。
[ hiropi1700 ]
2009/7/3(金) 午後 10:12
例えば、村田正志は、長慶上皇の崩御後、比較的早い段階から「長慶院」、「慶寿院」という二つの称号が資料上存在していることに着目し、応永十四年(1407)の河内「観心寺文章」中で、海門承朝(承朝王)が、「長慶院御遺命」と記していることから、慶寿院はこの時点では創建されず、「蕉富岡本新葉集」の奥書から、応永三十二年になって初めて資料上「慶寿院法皇」という名称が見出されることから、応永元年(1394)に崩御した長慶上皇の菩提所として、海門承朝が慶寿院を創建したのは応永年間後半とします。そして、「長慶院」とは、元々の天皇の住所に基づく称号で、長慶上皇の死後に、室町幕府を憚って「長慶院」の称号から、菩提所となった「慶寿院」の院号を用いるようになったと考えました。(長慶帝のことを「長慶院」と記しているのは、南朝関係者であることにも着目)つまり、嵯峨の慶寿院は、長慶帝の在世中に建てられていた寺ではなく(住居や終焉の地ではなく)、帝の崩御後に海門承朝が父帝の菩提所として創建した寺院であり、実際の帝の在所、終焉の地は別にあるとします。





