京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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返信: 97件

[ hiropi1700 ]

2009/9/26(土) 午後 3:42

尚、今回は地域的に離れるために、採り上げませんでしたが、東山区の祇園花見小路の甲部歌舞錬場の裏にある「崇徳天皇御廟」も白峯神宮が管理しています。崇徳天皇の讃岐の流刑地で崩御した後、帝の寵愛厚かった阿波内侍が遺髪を請い受けて塚を築いて亡き天皇の霊をお慰めしたと伝承されている場所で、毎月二十一日に、白峯神宮の神職が奉仕し、祇園の女将も参列して御廟祭が斎行されています。

[ hiropi1700 ]

2009/9/24(木) 午前 7:01

ご訪問ありがとうございます。少しずつですが更新していきますので、よろしくお願いします。

[ チャコ ]

2009/9/22(火) 午前 1:32

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はじめまして!非常にわかりやすい解説をしていただき、ありがとうございます!

[ hiropi1700 ]

2009/8/27(木) 午前 3:52

また、他に、平安京の東に祀られ廃絶した山科の妙見大菩薩を江戸時代になって祀ったのが、現在の妙見寺(山科区)とされるなど、江戸時代には妙見信仰の流行によって、各地に旧跡を復興させるなど信仰の場が乱立したようです。だから、山城国の家苗妙見という表現が、資料的にどの時代何時頃生まれたのかという点も関係してくるかもしれませんが、残存資料的には、岩戸妙見が最も可能性が高いというところでしょうか。

[ hiropi1700 ]

2009/8/27(木) 午前 3:50

ご質問ありがとうございます。私は妙見信仰について詳しくは無いので、山城国の家苗妙見が、現在の岩戸妙見であるという確かな根拠については不明です。
京都では、妙見信仰は江戸時代に民衆の間にも広く流行しますが、平安遷都の際に、王城の四方に妙見大菩薩を祀ったのが妙見信仰の基礎とされます。現在の岩戸妙見(圓成寺)は、この王城の四方に置かれた妙見信仰の聖地の一つ、霊巖寺(北山の船山南山麓にあったと推定)を江戸時代初期に再建したものとされています。
この霊巖寺という寺院は、平安時代に王城鎮護のため置かれた妙見聖地の中で、後世の資料にも散見されることから、京都で最も栄えた妙見信仰の霊地であったようです。そのため、それを再建した岩戸妙見(圓成寺)が、最も由緒ある妙見信仰の地の一つとして、山城国の家苗妙見といわれた可能性が高いとは思います。

グータン

2009/8/22(土) 午後 0:33

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初めてお邪魔します。まだ他記事を読んでいないので、掲載済みでしたらお許し下さい。
あることで、山城国の家苗妙見を捜しています。神奈川在住の研究者の方から、岩戸妙見宮の事だと指摘いただいたのですが、その根拠が今一つ不確かです。ご存じでしたらご教示願います。
因みに、家=国・苗=民の意味と解しています…。(^^)

[ hiropi1700 ]

2009/7/10(金) 午前 0:44

後亀山の胸中を示す資料として、よく引用されるのが信任厚い吉田神社の神官・吉田兼敦の日記「兼敦朝臣記」の以下の内容の記載です・・応永九年三月二十日、後亀山法皇は、吉田兼敦を院御所大覚寺殿に招き、日本書紀の講義を聴講しました。講義の後で後亀山法皇は、吉田兼敦に対し、元弘建武以来の世の中の変遷や、後醍醐天皇の遺詔、明徳の南北合体による上洛の次第等を語り、自分が南北合一を決断したのは、運命をただ天道神慮に任せて、南北対立による戦乱を終わらせて民間の憂いを除くためだったと、しみじみと当時の心境を述べて、兼敦を感激させています。

[ hiropi1700 ]

2009/7/10(金) 午前 0:37

字数オーバーで削除した記事を追加します・・後亀山への尊号問題では、北朝の朝廷の廷臣間で様々な詮議が行われ、草壁皇子(長岡天皇)、舎人親王(崇道尽敬皇帝)、施基皇子(田原天皇)、早良親王(崇道天皇)、敦明親王(小一条院)、守貞親王(後高倉院)、光厳天皇、後醍醐天皇といった過去の先例が出されるものの、天皇でない者(北朝側から見れば)に尊号を与える例など無い、後醍醐天皇の子孫を存続させるつもりなのか、後亀山は我々(北朝)にとっては皇子に過ぎないのに尊号を与えるとは奇怪な事等々の反対意見が大勢でした。

[ hiropi1700 ]

2009/7/3(金) 午後 10:15

また、後醍醐天皇が、生前に延喜天暦の聖代」の醍醐天皇を理想として自らの号を定め、後村上天皇も同じく「延喜天暦の聖代」から村上天皇に因んで号が採られ、後亀山天皇も、大覚寺統の血統から亀山天皇に因んで諡号が定められたのに対し、長慶天皇のみは、なぜかこれらの例に当てはまらない点に着目します。元々「長慶」とは、中国の長楽府西院の禅院、長慶に由来すると考えられ、日本でも、これに因んで長慶寺、長慶院といった禅宗寺院が建てられました。そして、長慶上皇も、長慶院という禅宗寺院に居住したことから長慶天皇と称せられたと考えます。南朝の拠点の畿内南部(南北合一時も後亀山帝と共に入京した形跡が無いことからもその可能性が高い)で、南朝と最も関係深い禅宗・法燈派寺院の可能性が高いとし、和泉国大雄寺などの当時の大寺院内の一塔頭に、当時、長慶院という寺院があり、長慶帝はこの院で晩年を過し、或いは崩御したのではないかと推測しました。

[ hiropi1700 ]

2009/7/3(金) 午後 10:12

例えば、村田正志は、長慶上皇の崩御後、比較的早い段階から「長慶院」、「慶寿院」という二つの称号が資料上存在していることに着目し、応永十四年(1407)の河内「観心寺文章」中で、海門承朝(承朝王)が、「長慶院御遺命」と記していることから、慶寿院はこの時点では創建されず、「蕉富岡本新葉集」の奥書から、応永三十二年になって初めて資料上「慶寿院法皇」という名称が見出されることから、応永元年(1394)に崩御した長慶上皇の菩提所として、海門承朝が慶寿院を創建したのは応永年間後半とします。そして、「長慶院」とは、元々の天皇の住所に基づく称号で、長慶上皇の死後に、室町幕府を憚って「長慶院」の称号から、菩提所となった「慶寿院」の院号を用いるようになったと考えました。(長慶帝のことを「長慶院」と記しているのは、南朝関係者であることにも着目)つまり、嵯峨の慶寿院は、長慶帝の在世中に建てられていた寺ではなく(住居や終焉の地ではなく)、帝の崩御後に海門承朝が父帝の菩提所として創建した寺院であり、実際の帝の在所、終焉の地は別にあるとします。


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