京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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現在、京都古文化保存協会主催の秋の京都非公開文化財特別公開が行われています(10月30日〜11月8日)大蓮寺(だいれんじ)は、安産祈願のお寺として知られ、洛陽三十三観音霊場の第八番でもあります。仏像の一部は通常期も拝観できますが(但し、観光寺院ではありませんので、信仰のための参拝に限ります)、今回は特別に秘仏の薬師如来像が初めて公開されました。


さて、東山二条周辺には、これまでブログに掲載した妙伝寺、聞名寺、寂光寺等の五十以上の寺院が密集していますが、今回の大蓮寺もその中の一つです。(以下、寺のホームページと古文化保存協会発行「拝観の手引」から引用)

大蓮寺(京都市左京区西寺町二条下る正住寺町)は、正式には、「引接山極楽院大蓮寺(いんじょうざんごくらくいんだいれんじ)」という浄土宗知恩院派に属する寺院です。
創建は、関ヶ原の戦いがあった慶長五年(1600)、専蓮社深誉(じんよ しんよ)上人が阿弥陀如来を祀る一宇を建立したことに始まります。寺は、元々は下京区の五条通西洞院下る毘沙門町付近にありましたが、戦時中に五条通の拡張工事のため、強制疎開に遭って廃寺寸前となって移転を余儀なくされ、寺域を現在の東山二条に移しました。
元々現在の地には、小川流煎茶の流祖・小川可進の墓(今も存在しますが、関係者以外は墓参禁止)がある浄土宗寺院・常念寺がありましたが、同寺の住職は戦死していました。そこで、法類関係だったこともあって戦後は共存し、昭和四十年代に合併して現在の大蓮寺となりました。その後、平成四年(1992)から本堂改築等の境内整備を行っています。


新しい本堂(平成五年(1993)完成)には、正面中央に本尊阿弥陀如来像、脇侍千手観音像と不動明王像が祀られ、右に薬師如来像、日光・月光菩薩像、十二神将、夜叉神明王像等の諸仏。
中央の右脇壇には、かつての常念寺本堂の本尊阿弥陀如来と脇仏の観音・勢至両菩薩、後光明天皇やその皇女女一宮(孝子内親王)の位牌等が安置されています。
また、本尊の左前には、洛陽観音霊場第八番の十一面観音像が祀られています。

本堂中央に安置されている本尊阿弥陀如来像は、慈覚大師円仁の作と伝わる端正な顔立ちの仏様で、大蓮寺が「安産の寺」と呼ばれる由来となった尊像でもあります・・

寺の縁起によると、平安時代初期、慈覚大師円仁は、晩年に比叡山の念仏堂に篭って念仏三昧に修行し、一体の阿弥陀如来像を彫りました。その仕上げに掛かっていると、夢の中にこの阿弥陀如来が現れ、「比叡山から京都へ下りて、女人の厄難(出産の苦しみ)を救いたい」と告げました。そこで円仁は、お告げに従って女人禁制だった比叡山を下りて、真如堂にこの尊像を安置したところ、忽ち京の女性達から圧倒的な信仰を集めるようになり、阿弥陀如来を信仰した多くの女性達が、出産の苦しみから救われたということです。しかし、その後、応仁の乱で真如堂が荒廃すると、阿弥陀如来像も行方不明になってしまいました。

さて、それから百数十年が経った慶長五年(1600)、後に大蓮寺の開山となった深誉上人が京都伏見の町を歩いていると、一軒の荒れた御堂に光眩い阿弥陀如来があるのを発見しました。上人は誰もこの阿弥陀如来をお守りしている様子が無いことに心を痛め、この年、大蓮寺を建立してこの阿弥陀如来を安置しました。一方、真如堂は元禄年間に復興し、失った阿弥陀如来を探し始めましたが、やがて大蓮寺の阿弥陀如来がかつての真如堂の本尊であることが分かりました。幕府から阿弥陀如来像を真如堂へ返還するように命じられた上人が、二十一日間念仏を称え続けたところ、成満の二十一日目の朝、不思議にも阿弥陀如来像が二体に分かれていて、結局、大蓮寺と真如堂で一体ずつ安置することになったということです(尚、本尊阿弥陀如来像、千手観音像と不動明王像を脇侍とするのは真如堂と同形式ということです)

また、慶安三年(1650)には、後光明天皇の典侍庭田秀子が懐妊し、大蓮寺二世・霊光和尚に安産祈願の勅命が下り、秀子は皇女女一宮(孝子内親王)を安産しました。以降、後光明天皇の勅願所となり、夭折した天皇の後は、有栖川宮家が継承して念仏道場として信仰したことで、安産の寺として知られるようになり、多くの人々に信仰され親しまれることになりました。



さて、大蓮寺には、現在の八坂神社の前身で、京都の祇園という名前の由来にもなっている祇園社(祗園感心院)の遺仏が安置されています。
明治の神仏分離、廃仏毀釈前は、日本の多くの寺社は神仏混交が一般的でしたが、祇園社境内には、本殿(天神堂)の西側に観慶寺(祇園寺とも)という寺院がありました。
大蓮寺開山・深誉上人が、観慶寺(祇園寺)の勧進をつとめた縁から、江戸時代には大蓮寺と観慶寺(祇園寺)は深い関係があったようで、明治の神仏分離、廃仏毀釈によって観慶寺(祇園寺)が廃寺になった際、全ての仏像や仏具は大蓮寺に移されたということです。

そして、この観慶寺(祇園寺)の本尊(祇園社本地仏)が現在大蓮寺本堂内に安置されている薬師如来像です・・元祇園社本地仏の薬師如来像は、像高百九十二.四センチ、ヒノキ材の寄木造りの漆箔の像で、元々観慶寺薬師堂に祀られていました。伝教大師最澄の作と伝えられてきましたが、実際は延久二年(1070)の火災で祇園社が焼失した直後に定朝の流れを汲む仏師によって造られたものと考えられていて、国の重要文化財に指定されています。この像は祇園社に祀られていた時から秘仏で、今回が一般初公開ということです。

その他の祇園社の遺仏・・・脇侍の日光・月光菩薩像、十二神将像、夜叉神明王像は秘仏として普段は公開されていませんが、十二神将像と夜叉神明王は、毎年の元日〜五日の間のみ公開されています。
尚、この夜叉神明王(やしゃじんみょうおう)は、洛陽十二社中の一つとされ、「洛陽十二社霊験記」によると、祇園社薬師堂中の厨司に安置された秘仏だったようです。そして、かつては、志願成就の為に十二社参りが行われていたことから、大蓮寺では、現在も夜叉神明王の御札を授与しているということです。

また、洛陽観音霊場第八番の十一面観音菩薩像は、十世紀の作で、祇園社諸仏中で最古の像と考えられています。平成十七年(2005)に洛陽三十三所観音霊場が復興して、大蓮寺も札所入りしてからは、観音信仰の熱心な信者も参拝に訪れるようになり、祇園社の遺仏中、この仏像のみは年中拝観することが出来ます。


他に、平成二十年(2008)に製作された藤野正観筆の「走り坊さん」の掛軸も展示されています。
明治大正時代には、大蓮寺には、墨衣にずた袋を提げて京都市中を走り回る「走り坊さん」と呼ばれた僧侶がいました。
名前は籏玄教(はたげんきょう)といって、明治二十三年(1890)、十八歳で大蓮寺に仕え、寺男として寺の使いや安産のお守りを妊婦に配って市内を走っている内に、「走り坊さん」と市民の人気者になりました。

玄教は、身長約百四十三センチの小男でしたが、一日に十五里(約六十キロ)を駆け抜ける脚力の持ち主で、歩行が困難で寺に来られない妊婦に安産の御守りを届け、米や菓子などもらったものは、貧しい人に配ったということです。そして、大正七年(1918)に病気で亡くなると新聞は大きく報じ「今一休」と称え、葬儀には多くの参列者があったということです。
大蓮寺では、この「走り坊さん」の存在を広く知って欲しいとして、籏玄教の走る姿を絵にして掛け軸にし、「走り坊さんの足腰健常」の御守りを作り授与しています。


その他、本堂の前にあるのが、大蓮寺名物の樹齢百年程と推定される松の巨木です。
「大王松(だいおうしょう)」という京都市内でも個体数の非常に少ない松の種類で、平成十八年(2006)三月に、京都市の保存樹に指定されています。また、境内には大蓮寺の名前にちなんで、鉢植えの蓮が育てられています。十九世慧誉上人が大切にしていた「藤壺蓮」など、二十数品種約三十鉢があり、毎年夏には美しい花が咲くということです。

また、年間行事の中で大蓮寺の特徴のあるものとして、十一月第二土曜日の「お十夜法要」があります・・十夜法要自体は浄土宗寺院で広く行われている恒例法要ですが、後光明天皇の一子、皇女女一宮(孝子内親王)が大蓮寺に安産祈願をして無事誕生し、その後、内親王は念仏信者として天授をまっとうして十夜の正当日の十月十五日に亡くなったことから、大蓮寺では、内親王にあやかって十夜法要の日を安産祈願の縁日としています。そして、この日に安産阿弥陀如来の御腹仏を一年に一度開帳し、十夜法要後には、安産の特別祈願・子供成長祈願を行っています。 

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現在、京都古文化保存協会主催の秋の京都非公開文化財特別公開が行われています(10月30日〜11月8日)今回の特別公開二十一社寺の中でも、特に目玉として注目されるのが初公開の西方寺(さいほうじ)です。

西方寺(京都市左京区東大路通二条下ル北門前町)は、前にブログに掲載した「関西身延」こと妙伝寺(妙傳寺)の南西に位置し、東大路通沿いに建つあまり目立たないお寺です。しかし、今回初公開された秘仏の本尊の重文阿弥陀如来坐像は、丈六のボリューム感のある仏様で、仏像ファンには必見といえます。
一部の観光寺院だけが注目されている観光都市京都ですが、西方寺のような一般には全くと言って良いほど知られていない小寺院に、このような優れた仏像が秘蔵されていることには驚かされ、改めて京都の文化的な奥深さを感じます。(以下、古文化保存協会発行「拝観の手引」より引用)



さて、西方寺は、正式には、「願海山法性覚院西方寺」という浄土宗知恩院派に属する寺院です。
元々、現在寺院のある東山二条や岡崎の地は、平安時代末期の院政期に、六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)と呼ばれた六つの大寺が建ち並んでいた地域で、現在も町名(法勝寺町・最勝寺町・円勝寺町・成勝寺町)が残っています。そして、西方寺の本尊阿弥陀如来坐像も法勝寺の遺仏と伝えられて、西方寺もこの地域の歴史を今に伝える寺院の一つといえます。


さて、寺院の開基は、平安時代の関白藤原師実の孫、左大臣藤原経宗(大炊御門経宗 1119〜1189)とされます・・・藤原経宗は、大納言藤原経実の子で、母の藤原公子が鳥羽天皇の中宮、待賢門院(藤原璋子)と姉妹だったこともあって、久寿二年(1155)に、従兄弟に当たる後白河天皇が即位すると出世を重ね、さらに姉の藤原懿子(後白河天皇妃)が産んだ守仁親王(後の二条天皇)が立太子されると、春宮権大夫に任じられ、二条天皇の外戚としての地位を得ます。

保元三年(1158)、二条天皇が即位すると、朝廷では後白河院政派と二条親政派との対立が起こりますが、二条親政派の中心人物となった経宗は、台頭してきた後白河法皇の側近、少納言藤原通憲(藤原信西)を失脚させるために、通憲(信西)の政敵で、院政派の権中納言藤原信頼らと結んで「平治の乱」を起こしました。そして、「平治の乱」の結果として、後白河法皇側近の通憲(信西)と院政派の信頼が滅んだことによって、経宗ら二条親政派の勢力が強まることになりました。

その後、後白河法皇へ圧力をかけ過ぎたこともあって、永暦元年(1160)、経宗は後白河法皇の怒りをかって、信西殺害の責任者の一人として阿波に流刑にされました。しかし、応保二年(1162)に帰京を許されると、左大臣に就任して、後白河法皇、平家一門双方に信頼される存在となり、平家一門の都落ち、源義仲(木曽義仲)や源義経と頼朝の対立期には法皇を補佐して難局を乗り切りました。そして、文治五年(1189)二月に、病により官職を辞して法然上人のもとで出家して法性覚と称し、同月二十八日に七十一歳で死去しました。

西方寺は、出家して亡くなった経宗の邸宅を寺院に改めて創建したと伝えられ、初めは一条新町(上京区)にあり、その後、両替町竹屋町通上がる西方寺町(中京区の烏丸丸太町)を経て、桃山時代に豊臣秀吉の命によって、御所に近い寺町椹木町東(上京区)に移転し、江戸時代の宝永五年(1708)の宝永の大火により現在地に移りました。藤原一門の大炊御門家(開基藤原経宗の父藤原経実を祖とする)や、宇多天皇の一門の綾小路家と五辻家の菩提寺でもあり、公家の寺院として知られた寺院だったようです。



さて、西方寺は、山門を潜ると地蔵堂があり、その先に本堂、本堂の左には書院、奥には新しい茶室があります。一見して極ありふれた小さな寺院といった印象で、境内の鎮守の稲荷社の鳥居等は少し荒廃しているようです。そこで、あまり期待もしないで本堂に上がってみると、そこには、意外にも(失礼ながら)狭い本堂には似つかわしくない見事な仏像が安置されています・・・

この今回初公開された秘仏の本尊阿弥陀如来坐像は、平安時代の木造寄木造り、像高二百三十六センチの丈六の量感ある堂々とした坐像で、平安時代の承保二年(1075)に白河法皇が建立した法勝寺の遺仏とも伝えられ、国の重要文化財に指定されています。
また、光背は、十三個の化仏の他に、さらに小さな無数の化仏で隙間無く覆われた円光背です。多くの化仏で覆われた光背は「千仏光背」といわれますが、西方寺のものは、さらに多くの化仏を有する「三千仏光背」になります。(尚、宝永の大火の際、この丈六の仏様は、真下に空けられた大穴にすっぽりと収まって火難を逃れたということです。)また脇侍として観音菩薩、勢至菩薩を配し、他に、本堂左手には、西方寺が寺町にあった時代からの豊臣秀吉の坐像が納められています

また、本堂の正面には地蔵堂があり、衣通姫地蔵(そとおりひめじぞう)が祀られています。
寺伝によると、古代の第十九代・允恭天皇の妃の妹、弟姫(衣通姫)が七歳の時に疫病で亡くなり、冥土で生身の地蔵を拝して蘇生し、その報恩のために作られたのがこの地蔵尊と伝えられ、古来より疫病除け、安産守護の信仰があり、洛陽四十八地蔵願所の二十五番霊場となっています。

その他、墓地内にあるため、今回は公開されませんでしたが、赤穂義士の小野寺十内招魂碑があります。墓石の表面には、小野寺秀和(十内)と、その甥の小野寺秀富(幸右衛門)、同じく甥の岡野包秀(金右衛門)、同じく甥で秀富(幸右衛門)の兄・大高忠雄(源吾)の名が刻まれています。この招魂碑は、西方寺が小野寺十内の母の菩提寺だったことから、十内の妻の丹女が供養塔として建立したものと伝えられているということです。

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左京区八瀬(やせ)は、上高野と大原の間に位置し、比叡山山裾の山里といった風情の残る地域です。京都では、八瀬といえば、まず、かま風呂温泉や比叡山頂へのケーブルの乗り場として知られています。
また、かつては、京福電鉄系の「八瀬遊園」という屋外プールやスケートリンクを備えた京都では数少ないレジャー施設があったことでも知られ、昭和三十九年(1964)の開園以降、一時は年間二十万人の入場者がありましたが、その後低迷、「スポーツバレー京都」、さらに「森のゆうえんち」と改称して存続を図りますが、ついに平成十三年(2001)閉園しました。(現在、跡地には会員制ホテル「エクシブ八瀬離宮」があります)
「八瀬遊園」が人気だった頃は、毎週、地元の子供連れの家族で賑わった八瀬ですが、元々、有名な観光名所が少ないこともあり、北の大原、南の修学院や一乗寺に比べて他府県からの観光客にはあまり知られていない地域といえます。


今回は、八瀬の数少ない史跡の一つ、「源義朝公の源家再興発願所」とされる碊観音寺(かけ観音寺)を採り上げます。(尚、「かけ」は、「銭」の「金」を「石」に置き換えた変換不能文字ですが、お寺のホームページでは、「碊」を用いているので、「碊観音寺」としておきます)


さて、高野川沿いに国道367号線(通称、鯖街道・若狭街道)を大原方面に向けて北上する途中、旧国道と交差する手前の左の崖上に小さな寺院が見えてきます・・これが碊観音寺です。
碊観音寺は、山号を真山という真言宗泉湧寺派の寺院で、創建は昭和八年(1933)というかなり新しいお寺ですが、本尊碊観音大士(観音菩薩)は、かつて源義朝が源氏再興と東国への道中の安全を祈願して、石に鏃で刻んだ観音像と伝えられています。


さて、「平治物語」によると、平安時代末期の平治元年(1159)十二月下旬、「平治の乱」に敗れた源氏の棟梁・源義朝は、戦場で討ち死にしようと覚悟を決めますが、義朝の乳母子で第一の郎党・鎌田兵衛政清に、諸国の源氏を勇気付けるためにも一旦落ち延びて再起を図るべきであると強く諌められ、都を脱出して八瀬・大原から近江に逃れようと、この八瀬の千束ヶ崖を通過しました。
「平治物語」等によると、この時従う者は、義朝の長男悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男右兵衛佐頼朝(十三歳)、叔父の陸奥六郎源義隆、一族の佐渡式部太夫源重成と平賀四郎義宣、乳母子鎌田兵衛政清、斉藤別当実盛、波多野次郎義通、三浦荒次郎義澄、岡部六弥太忠澄、猪俣小平六範綱、熊谷次郎直実、平山武者所季重、足立右馬允遠元、金子十郎家忠、上総介八郎広常、渋谷金王丸、鷲津玄光等三十余名だったようです。

しかし、義朝達が大原方面に逃亡したという噂を聞きつけた比叡山の山門大衆が、落人狩りのため、二、三百人で千束ヶ崖で義朝一向を待ち伏せしていました。「平治物語」によると、これを知った義朝が、「都でどうにかするつもりが、鎌田のつまらぬ意見など聞いたばかりに、ここまで来て山門大衆の手に掛かって無駄死にするとは口惜しいことだ。」と嘆くと、家来の斉藤別当実盛が、「私がお通ししましょう。」と馬から降りて甲を脱いで手に下げ、乱れた髪を顔に振り掛けながら衆徒らに近寄って言うには、「右衛門督藤原信頼殿、左馬頭源義朝殿その他の人々は、皆、大内裏や六波羅で討死なされた。我等は諸国から駆り集められた武者に過ぎず、恥を忍んで妻子と会うために本国に落ち延びようとしているところである。それを討ち取って罪作りに何をなさろうというのか。武具をお望みなら差し上げましょう。どうかお通し願いたい。」

衆徒らは「確かに大将達ではないようだな。木っ端武者を討ち取っても仕方がない。武具さえ脱いで渡せば通してやろうか。」と詮議したので、実盛は再び、「法師は大勢おられるが、我々は小勢なので武具の数が足りません。そこで、我らが武具を投げるので、皆さんで奪い取り合っていただきたい。」と言うので、正面の若法師達は、「お前が言うのももっともだ、そのようにせよ。」と集まり、後陣の老僧達も負けまいと押し寄せ競い争うところに、源氏の三十二騎の武士達が、この隙に、刀を抜いて兜の錏を傾けて、どっと法師の群れの中へ駆け入って蹴散らして通ったので、衆徒達は慌てて長刀を持ち直し一人も逃すまいと追いかけて来ました。

そこで、実盛は髪を振り乱し大童(おおわらわ)になって、大きな矢を取ってつがえ、「敵も相手によるぞ。わしは源義朝の郎等の、武蔵国の住人、長井斎藤別当実盛という者だ。捕らえるつもりならば寄ってくるがいい。手柄のほどを見せてくれよう。」と、取って返すと、これを見た衆徒達の中に弓矢の使い手はいないので、これは敵わないと皆引き上げて帰ったということです・・・

この斉藤実盛が機転を利かせ、山門大衆の中に鎧兜を投げ入れ、衆徒が奪い合いをしている隙に、源義朝一行が一気に駆け抜けた川の淵は、「甲ヶ淵」、「斎藤実盛甲ヶ淵」と呼ばれ、昭和十年(1935)六月二十八日の水害や近年の河川改修工事等によってその場所は不明となったようですが、現在も京都バスの停留所「甲ヶ淵」にその名を残しています。
(「山州名跡志」は、「甲ヶ淵」を「甲淵」と記し、その位置は、蓮華寺の北西四町、碊観音寺のある「千束碊(せんぞくがかけ)」の南半町としているので、「山州名跡志」の記載が正しいとすれば、現在の京都バスの停留所「甲ヶ淵」からはもう少し川下ということになりそうです。)

尚、「山州名跡志」は、碊観音寺のある崖について、この地は古来、「千束碊(せんぞくがかけ)」と称し、「甲淵(甲ヶ淵)」の北半町に位置するとし、矢背川(八瀬川=高野川の一部)に臨んで岸高く、左は山で道幅は八尺の坂道であると記しています。そして、物語ではこの崖道で戦いがあったように記載しているが、この道は大変狭く物語に記される所と違っているので、土地が広く千騎が並ぶほどである半町南の「甲淵(甲ヶ淵)」の地が戦場だっただろうと記しています。


また、京都バスの停留所「甲ヶ淵」から少し下流、碊観音寺の前の八瀬川の東岸には、幅十メートル、高さ五メートルの巨岩(バイパス道路の橋下)がありますが、この大岩は、この脱出の際、源義朝が騎乗のまま飛び越えた岩と伝わり、「義朝駒飛石(駒止岩)」と呼ばれています。(また、大石の上のバイパスの橋は「駒飛橋」と名付けられています。)




さて、碊観音寺に戻ります・・
寺伝によると、千束ヶ崖での叡山大衆との戦いの際、源義朝は、戦の疲労で駒諸共に数十尺の断崖を真逆さまに転び落ちましたが、不思議にも、まったく怪我をする事も無く、無事に再び崖をよじ登ることが出来たということです。
義朝は、これは日頃信仰している観音菩薩の御慈悲だと感激して、峠の大岩に弓の鏃で観音菩薩を線刻し、源氏の再興を主従一同で願ったということです。以降、碊の観音様と呼ばれ、観音様の御慈悲にすがって祈願すれば何事にも成就する霊験あらたかな観音様として現在も信仰されているということです。

この絶壁の上の自然石に線彫りしたこの観音像は秘仏で、現在は、回りの岩盤が砕け落ちているために立ち入り禁止ですが、正面の本堂から参拝するようになっています。(尚、「山州名跡志」は、この像について、元々川岸にあって、自然石に仏像を刻んだもので地元の者は「観音石」と称しているが、実際は阿弥陀仏であると記しています。)

その後、昭和の初め頃、八瀬村の人々が発願して、この千束ヶ崖に寺を起こそうとしていたところ、昭和八年(1933)の秋彼岸中日に、開山善湧上人が、たまたま大原の里での托鉢行却から帰る途中、この村に立ち寄って村の長老達十数名と話しをする内に、長老達の希望を聞き入れて寺の創建を決意します。そして、この山に住居を定め山の岩盤を砕いて今日の寺域とし、源義朝が鏃で線刻した観音菩薩尊像を本尊としました。そして、終戦直後の昭和二十一年(1946)三月に歴代天皇御菩提所である真言宗泉涌寺派に属して現在に至るということです。

本堂、庫裏等の並ぶ狭い境内には、当山鎮守の碊大龍王、碊大辨財天女 水子地蔵尊の諸堂があり、他に白狐大岩 稲荷大神も祀られているということです。 年中行事としては、一月十八日の初観音・諸願成就護焚、毎月十八日の観音様護摩焚祈願法要、二月三日の節分星まつり(おでんを頒布)、三月春季彼岸法要、八月 のお盆施餓鬼法要・墓回向(そうめん流し供養)、九月の秋季彼岸法要・墓回向があります。



尚、最後の写真三枚は、「義朝駒飛石」と「甲ヶ淵」停留所付近の八瀬川(高野川の八瀬流域)になります。

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今回は、左京区大原で最も知られている神社、江文神社(えふみじんじゃ)を採り上げます。

左京区の静市と大原の境界には、標高五百七十三メートルの金毘羅山(かつては江文山と呼ばれていました)が聳え立っています。クライミングの練習場としても知られるこの山の南東の山裾にひっそりと佇んでいる神社が江文神社(京都市左京区大原野村町)です。
山裾の神社らしく境内は自然林に溶け込んで広がりますが、本殿は山間の郷社にしては立派で、江文のスギといわれる杉の大木等に囲まれ、周囲に厳かな雰囲気をもたらしています。


さて、江分神社は、中央の正殿に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、右殿に級長津彦神(しなつひこのかみ)、左殿に軻過突智神(かぐつちのかみ)を祀っています。倉稲魂神は、稲荷神として知られる穀霊神、級長津彦神は風・水の神、軻遇突智神は火の神で、合わせて豊饒・衣服・生産の神として広く崇敬されてきたということです。(また、末社が三社ありますが祭神は不明です。)

江文神社の創建年代は不詳ですが、大原八ヶ町の産土神として古くから崇敬されてきた神社で、元々は、背後に聳えている江文山(現在の金毘羅山) の頂上の朝日の一番早く登る場所に祀られていた神々を、平安時代の後期に、住人達が山裾の現在地に社殿を創建して鎮座させたと伝えられています・・元々は、江文山(現金毘羅山)を御神体としていたことを伺わせます。

また、この江文山(現金毘羅山)を御神体とする伝承に関連しているのが、「山州名跡志」や「都名所図会」に記される江文山(現在の金毘羅山)についての記述です。
「山州名跡志」は、古くから江文山(現金毘羅山)山頂に火壺、風壺、雨壺という自然に出来た三穴で石の蓋がある石壷があって、鎮風祈雨の信仰からこの三壷の前で読経修業したとし、地元住民には魔所として怖れられていたと記しています。また、 「都名所図会」にも江文神社の図会中に、山上に塔形の風壺を中央に、左右に火壷、雨壺の絵を画いていて、山上の三壷が神社の奥の院的な意味を持っていたことを示しています。
江文神社の風・水・火を司る祭神や創建伝承との関連が興味深く、一説では、これら神社の創建当初の祭神にして三壷神は、自然崇拝の太陽信仰から天之御中主神(あめにみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の造化三神とも考えられています。ただ、現在の神社が倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を主祭神としていることとの関連は不明で、他の全国の神社と同様、時代を経て農耕神を主祭神としていったのかもしれません。

また、「山州名跡志」は、神社名を「江文明神社」とし、大原井出村の西南の山下平林中に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祀っていて、大原郷人の産土神であり、例祭は三月三日で、二基の神輿がありと記します。また、「都名所図会」には、小川に架かる石橋や鳥居、石段と拝殿・本殿等、現在とほとんど変わらない境内の様子が画かれていますが、当時は、三体の本殿に江文大明神を祀り、その右に本蔵、左に宝形造の本地堂があったようで、神仏混交だったことが伺えます。


そして、江文神社は「大原雑魚寝」でも知られています。
「大原雑魚寝」は、節分の夜に、大原の里の老若男女が江文神社の拝殿に参籠した風習です。
井原西鶴の「好色一代男」にも滑稽に面白く描かれているように、かつては、節分の夜通しの参籠は男女の雑魚寝の場でもあり、暗闇の中での男女の行為が公然化していて、これを縁に結ばれる者もいたということです。しかし、男女が灯りを消した一ヶ所に集まるのは風紀上良くないとして、明治には廃止されたと伝えられています。現在の静かな境内の雰囲気からは想像出来ませんが、神社の拝殿(現在のものは老朽化して立ち入り禁止中)は、里人の年に一度の愛欲の場でもあったのでしょう。
また、元々「大原雑魚寝」は、近くの村の大淵という池に大蛇が棲んでいて、度々里に出て村人を襲ったので、一ヶ所に集まって難を逃れたのが始まりとも伝えられています。


また、毎年九月一日には「八朔祭」が行われ、午後の神事の後、夜は境内で、「大原八朔踊(おおはらはっさくおどり)」が行われます。
 京都市登録無形民俗文化財に登録されているこの踊りは、江文神社に伝わる宮座行事として行われるもので、神社に豊作を感謝し踊りを奉納するものです。夜七時ごろ、大原八ヶ町の青年団を中心に町名を記した提灯を掲げて神社境内に集合し、宮座に加入間もない青年(長男は十五歳、次男以下は十七歳)達を中心に、絣の着物、菅笠姿で(女性は大原女衣装)、楽器を一切用いない独特の「道念(どうねん)」と呼ばれる音頭に合わせ、輪になって踊ります。また、江戸時代は三月三日だったという例祭(江文祭)は、現在は五月四日に行われます。

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京都市左京区静市静原町にある静原神社(しずはらじんじゃ)を採り上げます。

静市地域の観光名所といえば、小町寺(補陀洛寺)程度しか無いために、今回の静原神社も余り知られていませんが、例えば、貴船の貴船神社、鞍馬の由岐神社、大原の江文神社、八瀬の八瀬天満宮、上高野の三宅八幡宮、岩倉の石座神社等々と並んで左京区北部を代表する神社の一つと言えるでしょう。開放的な境内には、巨大な御神木の大杉が何本も聳え立っていて、山の神社らしい清々しさを感じます。また、社殿も素朴ながら厳かで味わいがあります。

さて、静原神社の祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)です。
社伝によれば、静原神社は、古代の成務天皇十二年(142)三月午日に、山城国愛宕郡志津原(現在の左京区静原)に創建されたと伝えられ、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が高天原に坐し、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向の高千穂に天降り、初めは静原楢小川の上流「河合谷意美和良川」に鎮座したということです。そして、古来、本社に伊弉諾尊、奥御前に瓊瓊杵尊を祀っていたため、合わせて「二宮社」と呼ばれていました。

また、天武天皇が逆徒に襲われてこの地に臨幸し、心体を安らかにできたことから「志津原」を「静原」と称するようになったということです。そして、天武天皇は、刀や弓・矛等を奉納して江州浅井郡の地三三〇石を寄付し、和銅四年(711)三月三日より祭祀を始めたと伝えられます。そして、現社地を「真路山」、御旅所を「天皇社山」と称していたということです。(御旅所は、前回に掲載した天皇社を指すと思われます)
その後、応仁の乱以降の戦乱で、明応年間(1492〜1502)、静原城を拠点とした岩倉山本氏の対馬守資幹が管領細川政元と戦った際に、兵火によって社殿が焼失、古記録も失いました。また、豊臣秀吉の天正検地で三三〇石を没収されますが、秀吉より下鴨神社社領として三〇石が定められ明治に至るまで続いたということです。(江戸時代の「雍州府志」には、上賀茂神社の末社とありますが、実際には近年まで下鴨神社の末社だったということです)

この下鴨神社との関係から、静原沙汰人と称して、御蔭祭・葵祭に奉仕する活動が現在も氏子を中心に続いていて、古くから静原周辺に自生する葵を採取して下鴨神社に奉納し祭に備えていましたが、現在は数も少なくなったため、静原では葵を栽培して葵祭に備える活動を行っているということです。
尚、延喜式の愛宕郡二十一座(大八座 小十三座)の須波神社を想定する説もありますが、証拠に乏しく不明。末社として、本殿の右に天満宮社、比賣宮、豊受神社。 左に貴船神社、天照大神宮、八幡宮社、惣山神社、香取神社、猿田彦社を祀ります。


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