京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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京都市左京区黒谷町にある浄土宗大本山・金戒光明寺(ブログパート1に採り上げています)は、「黒谷(くろたに)」の通称で広く知られていますが、今回採り上げた西雲院(さいうんいん)は、この金戒光明寺の塔頭の一つです。
西雲院は、金戒光明寺の総墓地内の正面、石段上にある文殊塔から左へ少し歩いたところに位置していて、境内に法然ゆかりの霊石「紫雲石(しうんせき)」があることで知られる寺院です。
また、幕末に京都守護職会津藩の本陣が金戒光明寺に置かれた関係から、会津藩士の墓地を預かる寺院としても有名で、本堂脇には侠客・会津小鉄(本名・上坂仙吉)の墓もあります。さらに、本堂前には、鉢植えのハスが並び花の寺としても人気があります。



さて、平安時代末期の承安五年(1175)、後に浄土宗を開宗する法然上人は、比叡山を下って東山にある真如堂に参拝した後、念仏弘通の聖地を求めて真如堂傍「栗原の丘」に赴きました。この「栗原の丘」には、上人の弟子の信空上人の祖父、中納言・葉室顕時の別荘がありましたが、顕時は法然上人の師、叡空上人と親交があり、幼少の孫(信空上人)を叡空上人に預けると共に、この別荘を寄進していたのでした。 法然上人はこの別荘に一泊する予定でしたが、夕日の美しさに惹かれ丘上に登ると、そこにあった半畳程の大きさの白河石に腰をかけて、念仏を称えたといわれます。すると、たちまち紫雲が棚引き、光が四方に満ちました。この奇跡によって、法然上人は、大石を「紫雲石」と名付け、この地を念仏道場と定めて草庵(後に白河禅房・新黒谷と呼ばれます)を結んだのが、後に現在の金戒光明寺へと発展していきます。


さて、その後、江戸時代初期の元和二年(1616)、宗厳(そうごん)上人が、金戒光明寺から「紫雲石」を賜り、そこに一庵を結んだのが西雲院の始まりであるといわれます。

開山の宗厳上人は、元々、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜として連れ帰られた朝鮮人で、その後、北政所に献上されて、北政所の気に入りの羽柴下総守・滝川雄利の美しい息女の召使となりました。召使は息女にたいへん良く仕えましたが、慶長十年(1605)息女は十七歳の若さで亡くなってしまいます。父の滝川雄利は、娘の死を悼んで、金戒光明寺山内にその戒名「龍光院」から名を取った塔頭(龍光院)を建立して菩提を弔いました。

一方、朝鮮人の召使は、主人の若き死に世の無情を感じて出家して、宗厳と名乗り、十一年間各地で修行した後、元和二年(1616)黒谷の地に戻って、かつての主人、龍光院の墓前で、念仏をひたすら熱心に唱え続けたといわれます。その様子を見た本山金戒光明寺第二十七世・了的上人は、法然上人ゆかりの霊石「紫雲石」を宗厳上人に授けました。こうして、元和二年(1616)、宗厳は紫雲石の傍に草庵を結びました・・これが現在の西雲院の創建になります。
その後も、宗厳上人は、千日の日を区切って別時念仏を修し、多くの僧侶が上人を慕ってその下に集まり、西雲院は念仏道場として大いに栄えました。尚、宗厳は寛永五年(1628)に亡くなりますが、その後も弟子達によって継承され、万日念仏惣回向、三万日念仏惣回向、四万日念仏惣回向と続けられ、西雲院は、通称「萬日寺」「萬日念仏道場」と呼ばれるようになりました。

西雲院の境内には、本堂の南に「紫雲石」の額が掛かかる一堂があり、中には紫雲石が安置されています。また、本堂の前には、御住職が丹精込めて育てられた鉢植えのハスが多数並んでいます。また境内には楓も植えられていて紅葉も楽しめます。



さて、幕末に京都守護職となった会津藩の本陣が、金戒光明寺に置かれた関係から、西雲院の墓地には、鳥羽伏見の戦い等で戦死した会津藩士の墓があることでも知られています。(以下、金戒光明寺で購入した資料(同じものは同寺のホームページでも見られます)を参照)

西雲院境内の東には、「會津藩殉難者墓地」の石碑が建ち、敷地面積約三百坪の墓地内には、多数の墓が並んでいます。文久二年から慶応三年までの五年間で亡くなった約二百三十七人と、鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五人の墓があり、彼らを祀る明治四十年(1907)三月建立の慰霊碑があります。また、ここには武士以外にも、使役で仕えたと思われる苗字の無い者、婦人も同様に祀られているということです。その内、禁門の変(蛤御門の変)の戦死者は、一段積み上げられた台上、三ヶ所に分けられて二十二人が祀られています。尚、会津松平家が神道であった関係で約七割程の人々が神霊として葬られているということです。

また、会津墓地の西、西雲院の庫裡前には、幕末から明治に活躍した侠客・会津小鉄の墓があります。
墓の横の掲示板を参照すると、会津小鉄は、本名を上阪仙吉(こうさかせんきち)といい、天保四年(1833)大阪で元水戸藩士の私生児として生れ、間もなく父は帰藩し母も亡くなったため、六歳で孤児となりました。幼くして堅気の生活を捨て、江戸を経て京都下京区三ノ宮通に住居を持ち、京の顔役・大垣屋清八に見込まれて頭角を表し、やがて多数の子分を抱えるようになりました。

文久二年(1862)、小鉄は、京都守護となった会津藩主松平容保の知遇を得て若くして元締めとなり、表の家業は縄張りを治める口入れ屋として、裏では会津藩や新選組の密偵として影の協力者として活躍したことから、「会津小鉄」と呼ばれるようになります。また、禁門の変(蛤御門の変)や鳥羽伏見の戦いでは、兵糧方及び戦死者の収容の任務に就いて参戦し、禁門の変(蛤御門の変)後に、松平容保から感謝状を授かっています。

さて、小鉄も子分五百人を動員して参加した鳥羽伏見の戦いで会津藩が敗れると、賊軍の汚名を着せられた会津藩戦死者の遺体は、世人も後難を恐れ、そのまま鳥羽伏見の路上に無残に放置されるままになりました。小鉄はこれを知ると、子分二百余名を動員して、死を決して遺体を探索、収容し近くの寺で荼毘に付し供養したといわれます。また、その後も、小鉄は容保の恩義に報いるために、黒谷会津墓地を西雲院住職とともに守って清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っているということです。この会津藩への忠義の功により、明治十八年(1885)三月十九日に、洛北北白川の自宅で小鉄が五十三歳で亡くなると、西雲院に墓が造られました。
尚、西雲院では、六月の第二日曜日に会津藩殉難者追悼法要が、会津松平家第十三代当主松平保定(もりさだ)氏列席のもと盛大に勤められているということです。

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清水寺への参詣道として知られる五条坂の途中、清水寺の大きな駐車場の西にある安祥院(あんしょういん 京都市東山区五条通東大路東入遊行前町)は、通称「日限(ひぎり)地蔵さん」「日限さん」として親しまれている寺院です。
本堂の左にある地蔵堂に祀られる地蔵菩薩像(日限地蔵)は、参拝者が自分で日数を決めて祈願することが出来るお地蔵様として知られ、広く信仰を集めています。 それ程広い境内ではありませんが、清水寺周辺の観光寺院の混雑ぶりとは違う、静かな一時を感じられる寺院です。


さて、安祥院(あんしょういん)は、東山木食寺と号する浄土宗寺院です。
元々は、平安時代の天慶五年(942)に、朱雀天皇の勅願によって、天台座主尊意(そんい)僧正が乙訓郡大藪郷(現南区久世大藪町)に創建した護国院(ごこくいん)という天台宗寺院が起源と伝わります。その後、護国院は荒廃しますが、鎌倉時代の文永年間(1264〜75)、法然上人の高弟・勢観房源智(げんち 浄土宗総本山・知恩院の第二世)上人の弟子、蓮寂(れんじゃく)上人が再興して、浄土宗寺院に改め安祥院と称しました。その後は浄土宗の念仏道場として栄えますが、南北朝の兵火に遭って焼失。その後、再建されるものの、江戸時代に再び衰退します。そして、享保十年(1725 或いは十二年(1727))に、木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)上人が中興して、現在の地に移転しました。


木食正禅養阿上人については、前にブログパート1で松明殿稲荷神社(下京区七条通賀茂川西入稲荷町)を採り上げた際に書きましたが、少し再掲載しておきます

木食とは米穀を断って木の実を食べて修業することで、この苦行を修めた僧は、木食上人と呼ばれていました。木食正禅養阿(?(1687とも)〜1763)上人は、この苦行を修めた江戸中期の真言宗の僧侶で、特に社会事業に尽くしたことで知られています。

養阿上人は、丹波(京都府)桑田郡保津村の武士の子として生まれ、二十四歳で仏門に入って「朋厚坊正禅」と改名し、泉涌寺雲龍院で修業しました。高野山で木食行を修めた後、信濃(長野県)や美濃(岐阜県)を行脚し、京都に戻って七条大宮に「梅香庵」という草庵を結びました。そして、「南無阿弥陀仏」を唱えて念仏行脚するなど念仏聖として、一般寺院から敬遠された罪人や身寄りの無い不遇な人々の魂を供養するため、洛中洛外の無縁墓地を回りました。
当時京都には十一ヶ所の無常所(南無地蔵、大谷、西ノ土手、粟田口、最勝河原、元三昧の六つの墓地と、狐塚、阿弥陀ケ峰、中山、千本、七条金光寺の五つの三昧堂)があり、上人はこれら無縁墓地や刑場傍の墓地で墓参りを三年間続け、またこれらの内十ヶ所で死者の供養のための名号碑を建立しています。

そして、享保十年(1725)、五条坂の安祥院を再建し、その後も、様々な社会事業を行いました。
元文三年(1738)には、三年もの月日を掛けて東海道五十三次の難所といわれた京都への入口に当る峠道・日ノ岡峠(蹴上から山科へ抜ける旧国道1号線)の改修工事を完了、ここに峠道の管理所、休憩所として最初の庵と同名の梅香庵(木食寺)を建てています。
元文六年(1741)に「法橋」の位を授かって、「養阿」と号し、延享四年(1747)頃には、急坂のある渋谷街道(現・東山区から山科に抜ける渋谷道)の補修工事を行っています。そして、宝暦十三年(1763)に亡くなり安祥院に埋葬されました。



さて、安祥院の本尊・阿弥陀如来像は、木食正禅養阿上人の自作と伝えられ、安祥院は、「六阿弥陀巡拝(めぐり)」の第四番札所になります。
この「六阿弥陀巡拝(めぐり)」は、木食正禅養阿上人が阿弥陀仏の霊感を受けて発願したもので、功徳日(毎年の変動はありません)に当たる、正月十五日、二月八日、三月十四日、四月十五日、五月十八日、六月十九日、七月十四日、八月十五日、九月十八日、十月八日、十一月二十四日、十二月二十四日、春秋彼岸に、三年三ヶ月、この「六阿弥陀」に参拝すれば、無病息災、家運隆盛、諸願成就を得るといわれています。

尚、「六阿弥陀巡拝(めぐり)」の札所は、以下の寺院になります・・


一番・東山 真如堂(真正極楽寺) 阿弥陀如来

二番・東山 永観堂禅林寺 阿弥陀如来

三番・東山 清水寺阿弥陀堂 阿弥陀如来

四番・五条坂日限 安祥院木食寺 阿弥陀如来

五番・新京極さかれんげ 安養寺 阿弥陀如来

六番・新京極 誓願寺 阿弥陀如来



また、本堂の左にある地蔵堂に祀られている地蔵菩薩像は、木食正禅養阿上人が、享保十五年(1730)に作ったとされる高さ二・六メートルの金銅製の像です。
享保十三(1728)年に、霊元法皇に仕える女官が病気で亡くなった際、養阿上人がその供養しましたが、この時、上人の地蔵建立の願いを聞いた法皇は、鏡や白銀等を寺に下賜しました。そして、これら鏡等を鋳入してこの地蔵像が完成したと伝えられます。また、こうした伝承が伝えられるように、安祥院は皇室との関係も深かったようで、「拾遺都名所図会(天明七年(1787)刊行)」は、安祥院は零元法皇の勅願所で、後西院(後西天皇)の位牌を祀ると記しています。
そして、この地蔵菩薩は、明治時代に入ると、通称「日限さん」と称されるようになり、参拝者自身が一定の日数を決めて願い事をすると、諸願成就するとして信仰を集めることになりました。


また、境内には、木食正禅養阿上人の墓塔、上人が一条寺の狸谷不動尊(ブログパート掲載)に造立した後に、移したものとされる不動明王像、弁財天等が祀られ、木食正禅養阿上人が日ノ岡峠道の普請に使った車石、西京極の佃橋(旧天神川)に架けられていた橋桁石、上人自筆の大日三尊光明真言碑等があります。
また、境内にある山桜は、ヤマザクラとオオシマザクラの自然交配種で非常に珍しい貴重な品種(ヤマザクラ近縁種)で、平成十六年(2004)三月に、京都市の保存樹に指定されました。老木のため一時衰弱しましたが、不定根の発達で無事に再生し、毎年四月には綺麗な花を咲かせています。


また、安祥院は、境内墓地に勤王の志士として知られる梅田雲濱(うめだうんぴん)の墓があることでも知られます。(写真)
梅田雲浜(1815〜59)は若狭小浜藩の藩士の家に生まれ、儒学者として大津に湖南塾を開き、小浜藩の塾望楠軒の講主として迎えられますが、海防策の意見書を藩主に提出したのが藩政批判とみなされ版籍を剥奪されます。こうして浪人となった雲濱は、この一乗寺の葉山観音堂の堂守小屋に住むことになりました。妻を抱え、その日の暮らしも出来ないほど困窮していたようです。
その後、ペリー来航時には,尊皇攘夷を唱えて志士たちの精神的な指導者として活躍しますが、安政の大獄で捕えられ獄死しました。

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今回は、かなり前にブログパート1に採り上げた八坂庚申堂(やさかこうしんどう)の写真を増やしてバージョンアップ版として更新します。(尚、パート1とパート2に掲載している史跡は、原則として重ならないようにしているので、前記事は全て削除しています)

さて、京都市東山区金園町、東山の八坂の塔の坂道の下に、観光客の目を引く朱塗りの山門のある、いかにも庶民的なお寺があります。これが、地元で「庚申さん」と親しまれている八坂庚申堂です。
「庚申さん」こと、八坂庚申堂は、正しくは、大黒山延命院金剛寺という天台宗寺院で、この庚申堂は、大阪の四天王寺庚申堂、東京の入谷庚申堂(現存しません。現在は浅草の浅草寺が代わって三庚申といわれます)と並び日本三庚申の一つとされます。特に、この八坂庚申堂は、日本最初の庚申信仰の霊場ということで、本尊の青面金剛童子は飛鳥時代に渡来した秦河勝により秦氏の守り本尊として請来されたと伝えられます。


庚申信仰は、元々中国の道教の教えから来た信仰で、その後、仏教、神道、修験道等の様々な信仰と結びついて全国で流行しました。元々特定の本尊の無い庚申信仰は、神仏混交の影響から、日吉山王信仰(日吉大社の祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」は、神社が天台宗延暦寺の鎮守社となったことで、山王信仰へと発展しました)と結びついて山王権現、また仏教系では青面金剛や帝釈天、神道系では猿田彦神を祀ることが多かったようです。

この「庚申」とは、干支の「庚(かのえ)申(さる)」の日を意味し、六十日ごとに来る十干十二支のこの日の夜に、人の体中にいる三尸(さんし 三匹の虫)が、寝ている間に抜け出して、寿命を司る神である天帝にその人間の行った罪を告げに行くといわれ、これを知った天帝は、その罪の罰としてその人間の寿命を縮めると考えられていました。そして、これを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜するという「庚申祭」という風習があり、時代により「守庚申(しゅこうしん)」、「庚申待(こうしんまち)」等とも呼ばれています。

この風習は、平安時代初期頃より中国より伝来して貴族の間に、さらに仏教と結び付いてからは広く諸国に広まり、鎌倉から室町時代には武家に、さらに江戸時代には広く庶民の間でも信仰されました。特に、江戸時代には、村落全体で酒盛りをして一夜を明かすという寄り合い組織「庚申講(こうしんこう)」が全国で作られていました。八坂庚申堂の本尊・青面金剛は、抜け出した三尸(三匹の虫)を食べると考えられていたので、いつの頃からか「庚申待ち」には、青面金剛を拝むという信仰が広まり、青面金剛は庚申さんと呼ばれるようになったようです。

また、仏教系神道系に関係なく庚申信仰のシンボルと知られるのが猿です。
その由来は「庚申」の「申(さる)」=「猿」から来ているとも、山王信仰の神使である猿が採り入れられたとも、また三尸(三匹の虫)に告げられないために「見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)」が阻止するという意味である等と諸説ありますが、この三神猿は、世の諸悪を排除して開運招福をもたらすとして庚申信仰の地では必ずどこかに描かれているようです。


さて、八坂庚申堂こと金剛寺は、平安時代の中頃、役行者以来の修験道の大家といわれた雲居寺の僧、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が、庶民にもお参りできるように、八坂の地に青面金剛を祀る庚申堂を建立したのが始まりと伝えられますが、一説には聖徳太子の創建という説や、八坂の塔(法観寺)の末寺だったという説もあるようですが、実際は確かな事は不明のようです。

現在の御堂は、江戸時代の延宝六年(1679)に再建されたものといわれ、表門の屋根の上には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像があり本堂の周りには、たくさんの「くくり猿」が、参拝者により吊るされています。「くくり猿」は、猿が手足をくくられ動けない姿を現わしていて、猿を人間にたとえ、人間の心の中にある欲望が動かないように、庚申さんに括り止めてもらうという禁欲のおまじないです。また、こんにゃくを病人の頭の上に吊るすと病気が治るという「こんにゃく祈祷」、下着に祈祷印を受けると、家族に下の世話の面倒を受けないという「たれこ封じ」等の庶民信仰も伝えられ、現在も、八坂庚申堂は、これら病気や災難除けにご利益があるとして親しまれていて、八坂の小さなシンボルのひとつになっています。

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映画館祇園会館の西約百メートル、祇園のネオン街の真ん中(京都市東山区新橋南通東大路西入ル祇園町北側)にある小さな神社が、観亀稲荷神社(かんかめいなりじんじゃ)です。

すぐ北西の元吉町(新橋花見小路西入ル元吉町)にある辰巳大明神が、芸妓さんの守り神、祇園白川・新橋のシンボル的な神社として京都観光ガイド等に採り上げられるのに対し、こちらの神社は一般的にはほとんど知られていないでしょう。(祇園新橋を除くと、鴨川と四条通・東大路通に囲まれた祇園町北側一帯は、普通のネオン街と化していて、京都らしさはまったくといって無いので仕方ありません。)
しかし、観亀稲荷神社は、江戸時代の膳所藩ゆかりの歴史ある神社で、火伏せ(防火)の神として祇園の歓楽街を火災から守っているようです。(以下、神社にある由緒書を大部分引用します)



さて、観亀稲荷神社の祭神は、加具都智命(かぐつちのみこと)宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)です。元々、祇園町のこの地域は、江戸時代初期、京都御所警衛を担った近江国膳所藩第二代藩主・本多俊次(ほんだとしつぐ 1595〜1668)が、万治二年(1659)十月に幕府より賜った膳所藩京屋敷跡になります。
この当時の屋敷の区域は、東は今の東大路、西は花見小路、北は新橋町通、南は富永町通りに囲まれた約四千三百五十坪だったということで、現在の観亀稲荷神社をほぼ中心とした祇園町北側周辺一帯ということになります。

また、その約五十年後の宝永六年(1709)に、当時の膳所藩主、本多康慶(ほんだやすよし 1647〜1718)は、郡山、淀、 亀山(今の亀岡)藩と共に、将軍から京都御所の火の番(火元管理)のため京詰を命令され、この四藩が臨月交代で幕末まで御所の警備をしました。


さて、観亀稲荷社は、この康慶の子・康命(やすのぶ 1672〜1720)が、御所の火の番である膳所藩が火を発しては恐れ多いから、火伏せの神・遠州秋葉山の秋葉権現を藩邸に勧請するようにという父康慶の遺言によって、享保三年(1718)に、膳所藩内の茶臼山(ちゃうすやま)に秋葉権現を勧請し、更にその分霊を当地に移祀したものということです。

また、神社の創建当時は、この付近は竹薮で覆われていたため、これを伐り開くと、亀が出て歓んだということから、観亀、歓亀または歓喜神社と称し、その後、(恐らく稲荷神を合祀したために)観亀稲荷社と称するようになりました。そして、現在も飲食街の真ん中という場所がら火伏せ(防火)の神として崇敬者が多いということです。
また、現在の社地は、元々の膳所藩京屋敷の中庭に当たるとされます。

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京都市東山区粟田口鍛冶町、粟田神社と仏光寺本廟の間にある良恩寺は、通常非公開寺院の小さなお寺ですが、エピソード的に話題がある寺院でもあります。


さて、良恩寺は、山号を華頂山(かちょうざん)という浄土宗西山禅林寺(総本山は永観堂禅林寺)に属する寺院です。創建は永禄年間(1558〜70)とされ、元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」は、元々は天台宗寺院で、中世になって浄土宗に改め、その後青蓮院に属したと記します。また一説には、周辺地域にこの寺院に関連する名前が多いことや付近から金紋の瓦が出土することなどから、かつては広大な敷地を有する寺院だったという説を記しています。

本堂に祀られる像高三尺(約九十センチ)の阿弥陀如来坐像は、小野篁(おののたかむら)作と伝わり、地蔵堂(導引地蔵堂)に祀られる地蔵菩薩像は、伝教大師の作とも伝わり、「導引地蔵(みちびきじぞう)」の名前で知られています。

この「導引地蔵(みちびきじぞう)」という名前の由来ですが、「花洛名勝図会」も少し記していますが、かつて背後の華頂山(東山三十六峰の一つ)に火葬場があったことが関係しているようで、良恩寺はこの火葬場を管理し地蔵堂の前で葬者に引導を渡していたことから、この地蔵尊は導引地蔵と呼ばれるようになったといわれます。


また、良恩寺は、寺宝として豊臣秀吉ゆかりの「手取釜」を所蔵しますが、この釜には、以下のような伝承があります・・・
その昔、この良恩寺のある粟田口付近に、粟田口善法(あわたぐちぜんほう)という茶人がいました。わび茶の創始者として知られる村田珠光(むらたじゅこう)の弟子といわれ、この粟田口に草庵を構えて隠者として暮らしていました。善法は清貧を旨として、食事も茶の湯もただ一つの茄子型の手取釜を用い、時には往来の者を呼び入れてこの釜で茶を振舞ったということです。

さて、この釜が天下の名器だと知った豊臣秀吉は、早速、千利休を介して大金で釜を譲るようにと持ちかけました。しかし、善法は「この釜を献上してしまったなら、何で茶を飲めば良いのか?このような釜を持っているから所望されるのだ」と大事な釜を叩き壊してしまいました。
このことを聞いた秀吉は、自分が釜を所望したのは誤りだった悔やんで、これと同じ手取釜の写しを二つ鋳造させて、一つを善法に与え、もう一つは自分用にしたといわれます。そして、良恩寺には、この時、善法が拝領した茄子型の手取釜とされる釜が伝えられています。


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