京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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京都市東山区清水四丁目、東大路通から清水寺に続く清水坂を約百メートル東へ向かった所にある小さな寺院、日體寺(日体寺 にったいじ)を採り上げます。
日體寺は「洛陽十二支妙見めぐり」の「巳」の寺になりますが、他の「洛陽十二支妙見めぐり」の多くの寺院が、境内に入って直ぐの目立つ場所にに大小の妙見宮を持つのに対し、日體寺の場合は境内にはそれらしき建物は見当たらないので、山門脇に洛陽十二支妙見と記されていないと通り過ぎてしまうかもしれません。


さて、日體寺は、情報の少ない小さな寺院ですが、元々は創建年代不明の観音寺という浄土宗寺院だったということです。その後、江戸時代中期の享保六年(1721)に、当時の住職が常照院日體上人に帰依して日蓮宗に改宗し、この日體上人を開山と仰ぎました。日體寺の北辰妙見尊は、元々は祇園石段下にあった妙見宮に祀られていたといことですが、地所建物が取り払いになったため、祇園白川末吉町の元芸妓・藤井四十吉という女性が自宅で祀っていましたが、その後、四十吉が亡くなって日體寺の墓地に埋葬された縁から、妙見尊も日體寺で祀られるようになったということです。この妙見尊は、水火の災を除き、怨敵の難を退け、家を修めるとして「清水の鎮宅妙見」として知られるということです。


尚、「洛陽十二支妙見めぐり」についてはこれまでも何度か書いていますが、以下再掲載します。

妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。

「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。明治時代の廃仏毀釈の影響で妙見信仰は一時衰退しますが、その後、昭和になって再び妙見講として信仰は受け継がれることになりました。
そして、昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。


「洛陽十二支妙見めぐり」の十二ヶ寺・・・いくつかはこれまでにブログパート1にも登場しています。

●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日體寺(日体寺))

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)

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京都市東山区清水二丁目、清水寺の山門まで約二百メートルという辺りで産寧坂と清水坂と五条坂という三つの坂が交差する場所があります。
京都観光をした人なら必ず一度は通ったと思われるこの場所の北東角に、小さなお堂が建っています・・・これが、現在は清水寺の境外塔頭となっている来迎院(らいごいん)という小さな寺院で、経書堂(きょうかくどう、きょうしょどう)の名前で知られています。


さて、経書堂こと来迎院の創建年代は不明ですが、中世に成立した清水の花見を主題とした謡曲「熊野(ゆや)」に、「御法の花も開くなる 経書堂はこれかとよ」と謡われていることから、古くから清水寺の参詣道にあって親しまれてきた事が伺われます。

また、江戸時代の天明七年(1787)刊行の「拾遺都名所図会」や元治元年(1864)刊行の「花洛名勝図会」にも記載されていて、それによると、経書堂は、院号を来迎院という真言宗の寺院で、聖徳太子の開基と伝えられ、太子がこの地に来た時に、阿弥陀、観音、勢至の三尊仏が空中に影向するのを拝して草創したということです。
また、この来迎院の僧が、小石を集めて、僧俗(僧侶や俗人)男女の参詣者に法華経や大乗経等の一字を一つの石に書かせて水を注いで諸霊を供養したので、お経を書くお堂という意味の「経書堂」と呼ばれるようになったと伝えられます。本尊は、三尺(約九十センチ)程の聖徳太子自身が彫ったとされる十六歳の太子像で、脇檀に三尊像を安置しているようです。

また、御堂の内部正面、手前に置かれている丸い石は、「願掛け石」、「占い石」とされる「重軽石(おもかるさん)」という玉石で、「疑わしい事があれば信心をこめて伺って、軽く持ち上がれば万事よし。もし持ち上がらなければ明日また、上がるように自ら考えること。」と言い伝えられているということです。

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京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町、商店やビルの立ち並ぶ三条通から一筋北(京阪三条から約三百メートル東)にあるのが、要法寺(ようほうじ ようぼうじ)です。
要法寺は、京都のメインストリートでもある東大路通や三条通から僅か一筋離れている所に位置していますが、これらの大通からまったく遮断されているので、交通量の多い三条京阪付近の市街地にこのような大寺院(境内は一万三千五百平方メートル)があるということはあまり知られていません。通りを一筋入ってみれば、思わぬところに・・という史跡密度の高い京都らしい風景といるかもしれません。


さて、要法寺は、山号を多宝富士山というる日蓮本宗の本山で、本尊は十界曼荼羅です。
この寺院は、元々、鎌倉時代末期〜室町に創建された上行院(じょうぎょういん)と住本寺(じゅうほんじ)という二つの寺院が、室町時代末期に合併して誕生しました。
尚、日蓮本宗では、宗祖日蓮(にちれん)、二祖日興(にっこう)、三祖日目(にちもく)、そして、要法寺の開基となった日尊(にっそん・にちぞん)を第四代としています。

要法寺の開基である日尊上人は、奥州出身の元天台僧で、奥州に布教に来た日目(日蓮の高弟日興の弟子)上人に出会って法華宗に帰依し、さらに日目と共に身延山に伸登って日蓮上人の高弟、日興上人に師事しました。しかし、正安元年(1299)秋、日興上人の重要な講義中に、舞い落ちる梨の葉に一瞬気を取られて集中力を欠いたことを激しく咎められ、師より破門されることになりました。日尊上人は一念発起して、諸国を修行行脚し、延慶元年(1308)に、京都の山城に法華堂(後の要法寺の起源でもあります)を開きました。

その後、日尊は、日興から破門を解かれ、正慶二年(元弘三年 1333)には、師の日目(にちもく)上人に従って京に向かいますが、その途中で日目が入寂(死去)したことから、その意志を継いで入洛し、翌年(1334)後醍醐天皇に天奏を行いました。そして、その功によって六角油小路に寺地を寄進され、延元元年(建武三年 1336)に六角油小路に、法華堂(後の上行院)を開きました。

やがて、上行院は弟子の日印(にちいん)上人に継承され、興国六年(1346)に、日尊上人は八十一歳で入寂します。一方、日尊の別の弟子、日大(にちだい)上人は、 正平十七年(1362)に、二条堀川(冷泉西洞院)に後の住本寺となる法華堂を創建しています。その後、比叡山衆徒による天文五年(1536)の天文法華の乱(天文法乱)によって、他の法華宗二十一本山と共に、上行院と住本寺も焼失し、堺へ避難しました。

天文十七年(1548)に帰洛が許可されて寺を再建することになりますが、この際、住本寺の日辰上人が、上行院と住本寺を合併することとなり、天文十九年(1550)、新たに五条坊門(綾小路)堀川に要法寺を建立しました。
その後、天正十一年(1583)に、豊臣秀吉の命により、京極二条(寺町二条)に移転し、さらに、宝永五年(1708)の大火で焼失して、東山三条の現在の地に移転、再建されました。宝暦九年(1759)の大火で再び焼失し再建されています。
その後、要法寺は、明治九年(1876)に、日蓮宗興門派(明治三十三年(1899)に宗名を本門宗(日蓮本門宗)と改称)に属し、昭和十六年(1941)に日蓮宗、顕本法華宗と三派合同して日蓮宗を結成した後、昭和二十五年(1950)に要法寺(末寺五十ヶ寺共に)は、日蓮宗から独立して日蓮本宗を称して現在に至ります。

現在の主な建物は宝暦の大火後の再建で、大きな本堂(間口(桁行)5間、奥行(梁間)5間)瓦葺)は、安永三年(1774)に建造されたもので、他に、本堂の西に釈迦堂、東南に鐘楼、東に庫裏・本坊等がありますが、いずれの建物も規模の大きなものです。他に伏見城の遺構とも伝わる表門、西門があり、境内塔頭は九寺を数えます。
また、要法寺といえば、慶長年間(1596〜1615)に、要法寺十五世・日性上人(1554〜1614)を中心に「沙石集」等数種の銅活字版の書物を刊行したことでも知られ、それらは「要法寺版」といわれて、近世初期の版本として文化史的にたいへん貴重なものとされます。

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今回は、数年前にブログパート1に採り上げた熊野神社の写真を増やして再掲載します。

京都市左京区聖護院山王町、丸太町通東大路交差点の北西角にある熊野神社は、それ程大きな神社ではありませんが、熊野神社前というバス停留所があることや、交通量の多い交差点に位置していることもあって、地元の左京区南部では、例えば、平安神宮や吉田神社とそれ程変わらない高い知名度があるように感じます。
また、熊野神社は、新熊野神社、熊野若王子神社(共にブログに採り上げています)と共に「京都の熊野三山」の一つとして知られ、(尚、熊野神社は熊野速玉大社に相当、熊野若王子神社は熊野那智大社に相当、 新熊野神社は熊野本宮大社に相当します)、京都の有名中堅神社が揃った「京都十六社朱印めぐり」の神社でもあります。


さて、熊野神社は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を主祭神とし、相殿に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、天照大神(あまてらすおおかみ)、速玉男尊(はやたまおのみこと)、事解男尊(ことさかのおのみこと)の四神を配祀しています。

創建は、平安時代初期、嵯峨天皇の弘仁二年(811)修験道の始祖・役小角(えんのおづぬ)の十世という僧日圓が、平安京の国家護持のために、紀州熊野から熊野大神を勧請したのに始まると伝えられ、熊野神社と改称することになった明治の神仏分離令までは、白川熊野社とか熊野権現社と呼ばれていたということです。

寛治四年(1090)に白河上皇の勅願により、この地に聖護院を創建した増誉僧正は、嘉承年間(1106〜1108)に、この熊野社を聖護院の鎮守社として別当職を置いて管理させました。
さらに、平安時代末期の後白河法皇は、熊野詣を三十四回も行ったと伝えられるほど熊野信仰に熱心で、京都に熊野神を勧請し熊野若王子神社や新熊野神社を創建しましたが、この熊野神社も法皇の篤い信仰を受け、熊野若王子神社や新熊野神社と共に「京都の熊野三山」として社殿が新たに修造され、当時は金彩を鏤めた豪華な社殿がそびえていたということです。また、承治二年(1178)には、高倉天皇の中宮徳子(建礼門院)の安産祈願として、この熊野社にも勅旨が遣わされ、その結果、無事に安徳天皇が誕生したということです。以後、歴代天皇の厚い崇敬を受け、さらに、熊野信仰の高まりと共に庶民の信仰も集めていきました。


その後、室町時代の応永三年(1396)には、将軍足利義満から、広大な土地を寄進され、当時の社域は、東西南北約六百メートル四方を誇ったと伝えられます。(南北は、近衛通付近〜東竹屋町通。東西は現在の熊野神社境内のさらに東一町=約百十メートル東から鴨川河原まで)しかし、応仁の乱で社殿は焼失して荒廃、社地も徐々に侵食されて私有地化し、その大部分は畑地に変わってしまったようです。

小さな社殿が残るのみとなっていた神社は、ようやく江戸期の寛文六年(1666)、聖護院の宮道寛法親王(後水尾天皇皇子)により再興されますが、かつての盛時に比べるとかなり規模が縮小することとなりました。その後、天保六年(1835)に大修造が行われましたが、この際、賀茂御祖神社(下鴨神社)の式年遷宮の年(二十一年毎に社殿を造営)に当たることから、旧社殿が熊野神社に下げ渡されました。これが現在の熊野神社の代表的な流れ造桧皮葺の本殿になり、礎石は全て白川石材を重積しているということです。


江戸時代末期の元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」では、「聖護院の森」に囲まれた神社の境内は、一の鳥居が、鴨川河原の丸太町條川端にあると記し、そこから長い参道が本社まで続いていた事がわかります。そして、二の鳥居を潜った境内には、行者堂、稲荷社、准胝観准堂、本社の西に富士権現と浅間権現、本社の東に金毘羅権現や神倉権現・満山護法神が祀られていた様子が記されています。
また、二の鳥居の前には、梅林に囲まれた茶店等もあったようで、四季の花を楽しんだり納涼のために多くの庶民が集まっている様子が図会に画かれています・・こうして、鴨川の東では、京都屈指の歓楽地になっていたようです。また、幕末には、孝明天皇もこの熊野社に国家治安を祈願したといわれます。
こうして、徐々に復興していった熊野社ですが、明治以降は神仏分離令によって、熊野権現社等と呼ばれていた神社は熊野神社と改称されました。


その後、明治二十六年(1893)の丸太町通の従断工事により、境内南側に道路が貫通することになり、全社域の約三分の一を失います。さらに、明治四十五年(大正元年 1912)〜大正ニ年(1913)にかけての市電丸太町線の開通で、残った社域のさらに約三分の一を失い、昭和ニ年(1927)の東山通の道路拡張で、さらに、当時の社域の四分の一を喪失し、明治維新直後に比べて約三分の一の面積まで縮小しました。(社域は、現在約二千平方メートル(六百坪)で、聖護院門跡の八分の一程度の面積)
こうして、現在は、かつての広大な社域を想像できないような小さな神社となっていますが、アクセスが良く、神社前には祭事の際等には露店が並んで、庶民的な地域のシンボル的な神社として親しまれています。

また、境内には、末社として春日大神、須賀大神、神倉大神、稲荷大神、金毘羅大神を祀り、梅原猛氏の筆による「八ツ橋発祥の地」という石碑、「京に八ツ橋あり」と八ツ橋を全国的に広めた西尾為治の銅像があります。その他、社宝として、聖護院宮雄仁親王から寄進された太刀壱振、光格天皇寄進の神輿を所蔵し、祭礼としては、四月二十九日の神幸祭、五月十六日の例祭が知られます。

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今回は、数年前にブログパート1に少しだけ採り上げた御辰稲荷神社(おたついなりじんじゃ)の写真を増やして、バージョンアップ版として再掲載します。 

京都市左京区の平安神宮の北にある聖護院という地域一帯には、江戸時代末まで、聖護院門跡を中心に「聖護院の森」と呼ばれる深い森に覆われていました。
今回採り上げた御辰稲荷神社(おたついなりじんじゃ 京都市左京区丸太町通東大路東入ル聖護院円頓美町)は、熊野神社のある丸太町通東大路の交差点を東へ三百メートル、錦林(きんりん)小学校の隣にある小さな稲荷神社ですが、この「聖護院の森」に住んでいたとうお辰(御辰)白狐の伝説で知られていて、特に芸能上達のご利益があるとされています。


さて、御辰稲荷神社の祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ=稲荷大明神)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、天宇受賣神(あめのうずめのかみ)です。
創建は、江戸時代の宝永二年(1705)に、第百十三代東山天皇の典侍、櫛笥賀子(新崇賢門院)が霊夢を見て、東山天皇に願ってその勅許を得て、創建した神社と伝わります・・ある時、櫛笥賀子(新崇賢門院)の夢の中に白狐が現れ、禁裏御所の辰巳(東南)の方角に森があるので、そこに自分を祀るように言って消えました。翌朝、不思議に思った賀子が訪ねてみると、そこには確かに「聖護院の森」があったので、森の中にあった小さな祠を整備して社殿を建て、白狐の「辰巳の方角」というお告げに因んで、「御辰稲荷」と名付けたということです。
また、その後、「辰」が達成の「達」に通じるということから所願成就にご利益があるとして、特に芸能上達や商売繁盛の神様として信仰を集めました。


江戸時代末期の元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」では、飯成社(いなりのやしろ)としてこの神社が掲載されていて、聖護院の森の辰巳(東南)の田圃の中にあり、聖護院門跡に仕える家臣の川上氏が社を管理していて、俗にお辰稲荷と呼ばれていると記しています。
そして、霊験著しいことから常に参拝するもの多く、社地は樹木が鬱蒼として神さびている(荘厳で神秘的である)とも記しています。また、同書掲載のこの神社の図会には、現在の狭い境内とは違って、本社の他に末社や神木がある広い境内が画かれています。


さて、櫛笥賀子(新崇賢門院)の夢に現れたのは、有名なお辰狐でした。
お辰狐は、琴の上手な洒落た京都の風流狐として知られ、碁の好きな宗旦狐(相国寺内の宗旦稲荷神社に祀られています)と並んで、江戸時代の京都を賑わせた有名な狐でした。
聖護院の森に住んでいたこの狐は、琴など芸事が得意な牝の白狐で、昔は、夜更けに聖護院の森を歩いていると、どこからともなくお辰狐が琴を弾いている音色が聞こえたと伝えられます。
そして、この有名な狐は、「岡崎のお辰狐」として歌舞伎にもなりました。そして、江戸時代以降、現在でも、芸に秀でたお辰狐にあやかろうと、芸事の上達を願ってこの神社にお参りする人が多いということです。


また、境内の東には、末社として、「御辰稲荷」の「辰」にかけた辰年生まれの守護神「初辰大明神(はつたつだいみょうじん)」や、秘石を祀る福石大明神社(ふくいしだいみょうじん)が祀られています・・この「福石」と呼ばれる高さ一メートル程の石は、昭和三十年(1955)頃に、当時の神社の宮司が、信者の家にあった願い事が叶うといわれる不思議な石を譲り受けたもので、それが神社に伝わる福石伝説と重なって信仰を集めるようになったということです。

福石伝説についてです・・その昔、白川橋の辺に貧しい夫婦が住んでいて、夫は野菜を売り、妻は子供の子守をして家計を維持していました。ある日、御辰稲荷を深く信心していた妻が、お百日参りの満願の日、境内で居眠りをしてしまいます。やがて冷たい風が吹いて、妻が目を覚ますと、右手に黒い小石を握っていたということです。妻はこの小石を家に持ち帰って神棚に祀ったところ、直ぐに妊娠して女の子を産みました。その後、この女の子は美しく成長し、ある大名の側室となりました。そして、貧しい夫婦は幸せに暮らしたということです・・この話が人々の間に広く伝わり、福石大明神に黒い小石を持って参拝すると、願い事が叶い幸福になれると信仰を集めてきたということです。その他、側には、長寿で知られる亀に似た大石を祀る亀石大明神も祀られています。


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