京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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左京区東大路通の二条、仁王門付近にある多くの寺院の中から聞名寺(もんみょうじ 京都市左京区東大路通仁王門上ル北門前町)を採り上げます。(数年前に、ブログパート1に採り上げましたが、写真を増やしてバージョンアップして掲載します)

聞名寺(もんみょうじ)は、正式には小松院聞名寺という時宗遊行派の寺院です。
小松院という山号を持つのは、聞名寺が、平安時代の第五十八代・光孝天皇が誕生から即位まで住居としていた小松殿跡地に創建されたことに因ります。光孝天皇の崩御後、小松殿は天台宗寺院に改められましたが、その後、この寺院も衰退したため、後に、一遍上人が跡地に時宗の念仏道場として創建したのが聞名寺で、当時は大炊道場(おおいどうじょう)と称していたということです。
また、当所の所在地は、現在の京都御苑の南西にあった大炊御門大路(竹屋町通の北・室町通の西 現在も道場町の名が残っています)付近にあったとされます。
その後、聞名寺は、時宗の念仏道場として栄えましたが、江戸時代の天明八年(1788)の「天明の大火」で焼失し、現在の地に移転再建したということです。


境内には、洛陽第十七番地蔵尊でもある明眼地蔵尊(めいげんじぞうそん)が地蔵堂に祀られています。
この地蔵尊は、平安時代に光考天皇が眼病を患った際に、その平癒祈願のため慈覚大師円仁が、建立したと伝わり、現在も眼の病気に効くといわれ信仰を集めています。
他に、本堂前には七重の光孝天皇塔があり、本堂裏の墓地には高さ約一.六メートルの阿弥陀石仏があります。(写真)


また、同墓地には江戸時代後期の歌人、香川景樹(かがわかげき 1768〜1843)の墓があります。
香川景樹は、因幡国鳥取藩士の家に誕生しましたが、歌道の道を志して寛政五年(1793)に上洛し、歌人の小沢蘆庵(おざわろあん)や香川景柄(かがわかげとも)に和歌を学びました。その後、二条派宗家の歌人・梅月堂香川景柄(ばいげつどうかがわかげもと)の養子となりますが、後に離縁されて独立します。そして、門弟千人を数えて明治時代まで続く、歌壇の主流となる桂園派(けいえんは)を創始しました。晩年は京都岡崎に住居を移して自邸を東塢亭(とううてい)、桂園(かつらのその)と称しました。天保十四年(1843)三月二十七日、京都木屋町で七十六歳で亡くなり、聞名寺に埋葬されました。その後、明治四十年(1907)に、正五位を追贈されています。

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前回の寂光寺をはじめ、京都市左京区東大路通の東山仁王門付近には多くの寺院が密集していますが、今回もその一つ、本妙寺を採り上げます。(数年前にブログパート1に掲載したものを、写真を増やしてバージョンアップしました)


さて、本妙寺(左京区仁王門通東大路東入ル北門前町)は、山号を祥光山という日蓮宗妙覚寺派の寺院です。
鎌倉時代の正和四年(1315)、日蓮上人の弟子で遺命により京都で布教を行った日像上人が、洛北岩倉の地に巡行の際、岩倉の代官、渡辺氏が帰依し、その邸宅を寺として創立したのが始まりと伝わります。しかし、程なくして中絶し、その後、安土桃山時代の天正二年(1574)本山妙覚寺の十八世、日典上人が再興しました。さらに、江戸時代の宝永五年(1708)の大火で類焼しますが、享保十三年(1728)に七世の日正上人が現在の重層造りの本堂を再建したと伝わります。
鎮守の鬼子母神像は、真言宗の僧から日像上人の弟子となった、大覚上人の自作で、日像上人が開眼したものと伝えられ、安産守護として信仰されているということです。


本妙寺はまた、赤穂義士ゆかりのお寺でもあり、通称「義士の寺」と呼ばれます。

浅野藩蔵奉行の貝賀弥左衛門友信は、松の廊下の刃傷にはじまる騒動により赤穂藩が断絶した直後に浪人となって、妻のおさん、娘のお百と共に、かねてから親しかった京都在住の赤穂浅野藩代々の御用商人で京染呉服商の綿屋善右衛門(天野屋利兵衛のモデルともいわれます)の邸に寄寓しました。
そして、弥左衛門は、元赤穂藩筆頭家老大石良雄(内蔵助)の討ち入りの本心を善右衛門に打ち明け、妻子の行く末を頼みました。また、弥左衛門は、貝賀家が元々日蓮宗だったことから本妙寺を菩提寺と定めました。

その後、貝賀弥左衛門等が討ち入りの本懐を遂げ、元禄十六年(1703)二月に自刃した翌年の宝永元年(1704)四月、その遺言を守って、綿屋善右衛門は、貝賀弥左衛門と、その実兄の吉田忠左衛門、忠左衛門の子の澤右衛門の三義士の遺髪と、さらにこの年に病死した貝賀弥左衛門の妻のおさんの四名を、一基の石碑を建立して合祀しました。

この義士の墓には、切腹したことを示す刃・劔の入った三義士の戒名がおさんの戒名と共に刻まれています・・・
刃仲光劔信士 吉田忠左衛門兼亮
刃當掛劔信士 吉田澤右衛門兼貞
刃電石劔信士 貝賀弥左衛門友信 元禄十六年二月四日命日
深信妙順信女 貝賀妻おさん 宝永元年一月二十五日命日


その後、貝賀の子孫九代目の斎藤トラという人が昭和五年(1930)に義士の遺品や遺墨を本妙寺に奉納したので、その機会に義士堂を建立し四十七士の木造を祀りました。
尚、宝永元年(1704)四月に建立された義士の石碑(墓)は、年月と共に破損が激しくなったため、現在のものは、平成五年(1993)三月に、当時と同じ形態で改修されたものです。
元の石碑は本妙寺の義士宝物館に収納されていて、本妙寺で毎年十二月十四日に行われる元禄義士追悼記念祭(義挙記念祭)で、義士の木像、義士の遺品遺墨と共に一般公開されています。

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今回は、数年前にブログパート1に少し採り上げた寂光寺の写真を増やして再掲載します。(前に掲載した際は、写真三枚しか掲載できませんでした)
左京区仁王門通東大路東入ル北門前町にある寂光寺(じゃっこうじ)は、山号を妙泉山という日蓮諸宗の一つ顕本法華宗寺院で、本尊は十界大曼荼羅です。


寂光寺は、安土桃山時代の天正六年(1578)に日淵(にちえん)上人が創建した寺院で、初めは久遠寺(久遠院)と号して、出水通室町(上京区)にありました。その後、豊臣秀吉の命により、天正十八年(1590)に寺町二条竹屋町に移転し、さらに、天正十九年(1591)頃に、法華宗十六本山の妙泉寺を寺内に移建した後に合併しています。その後、江戸時代の宝永五年(1708)の宝永の大火により焼失し、現在地に移転再建されました。


さて、日渕上人の甥で、寂光寺二代目住持となった日海上人は、堺の仙也に碁を学び、碁の才能に極めて優れていました。
当時敵手が無かったため、織田信長から「名人」の名を送られたとも伝えられ、その後、豊臣秀吉にも賞賛され朱印を与えられます。日淵から寂光寺を譲られた日海は、寺内塔頭の本因坊に住んで、本因坊算砂(さんさ)と号しました。その後、算砂は徳川家康からも官職を与えられ、その招きにより江戸に移住しますが、算砂以降、本因坊の名称は碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することとなりました。尚、二世算悦、三世道悦を経て、四世道策の時に本因坊は寂光寺から江戸に移りました。
(尚、二十一世の秀哉(しゅうさい)が引退して以降、世襲制は終わり、日本棋院が名跡を譲られ、現在の選手権タイトル戦へと移行しました)

境内墓地には、本因坊算砂、算悦、道悦の墓がありますが、普段は墓域への門は閉ざされているようです。他に、寺宝として、関白近衛家から拝領した碁盤や算砂の画像などがあるということです。

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今回は、数年前にブログパート1に採り上げた左京区聖護院にある須賀神社・交通神社を再掲載します。(以前に採り上げた際は、境内工事中のために写真は1枚だけしか掲載できませんでした。今回は再建後の本殿等の写真を増やしてみます)


さて、前回の積善院凖提堂の向かいにあるのが、須賀神社・交通神社(左京区聖護院円頓美町)です。
積善院と凖提堂という二つの寺院が合併した積善院凖提堂と同じく、この神社も一つの境内に二つの神社が祀られています。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその妻神、櫛稲田比売命(くしいなだひめのみこと)を主神に、久那斗神(くなとのかみ)、八衢比古神(やちひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)の五柱を祀っていましたが、昭和になって八衞比古、八衞比賣神、久那斗神を分祀し、境内に交通神社として独立させています。


須賀神社は、平安時代初期の清和天皇の時代、貞観十一年(869)に、現在の平安神宮蒼龍楼(そうりゅうろう)の東北付近に創建された西天王社(現在、跡地は西天王塚として現存)を前身とすると伝えられ、東天王社と呼ばれていた現在の岡崎神社(岡崎天王町 ブログパート1参照)と並んで、平安京の王城鎮護の役割を担った鎮守社の一つだったようです。
また、その後、平安時代末期の康治元年(1142)に、鳥羽上皇の中宮・美福門院(藤原得子)が建立した歓喜光院という寺院の鎮守社となったとも伝えられます。

元々あった現在の平安神宮の蒼竜楼東北の地から、鎌倉時代末期に北条高時が幕府軍を京へ派遣したことで起こった戦乱を避けて、元弘二年(1332)二月に吉田神楽岡に避難鎮座します。そして、江戸時代初期の慶安年間(1648〜52 慶安元年六月とも)に吉田神社の斎場所大元宮の西下へ社殿を造営しています。その後、大正十三年(1924)六月に、旧御旅所に当たる現在の地に移り、以降、この聖護院一帯の産土神として縁結びや厄除けにご利益があるとして信仰され、昭和三十九年(1964)に、交通神社を併祀して以来は、交通安全の神としても人気を集め、節分祭には参詣者で賑わいます。


それ程広くない境内には、近年に再建された新しい本殿が二殿に区分されていて、右殿が、縁結びや厄除けの神様として須佐之男神(すさのおのかみ)を祭る須賀神社です。また、左殿は、交通神社として、交通安全や旅行等の守神として八衢比古神(やちまたひこのかみ 全ての道を守る道祖神から転じて、交通安全神)を祀っています。その他、末社として白龍大明神・稲荷大明神を祀ります。また、五月十日の例祭は角豆祭といわれ、つる葉に多くのさや豆がつくように氏子の繁栄を祝う意味ということです(京都市の案内掲示板による)



さて、この神社で有名なのが、節分の際にのみ授与される須賀神社独特のお守り「須賀神社懸想文」です。この日、境内には、烏帽子・水干姿に覆面姿の懸想文売りが現れて、参拝者に懸想文を授与します。

この懸想文売りとは、元々、平安時代に金に困った貧乏貴族が、字の書けない庶民の代わりに懸想文(ラブレター)の代筆で小銭を稼いでいたことに始まるといわれ、貴族達が身分を隠すために覆面をしていたことから、現在も烏帽子・水干姿に覆面という独特の装束で登場します。
懸想文は、縁談や商売繁盛等の人々の希望を叶える御守りとして人気で、特に人に内緒で鏡台やタンスの引き出しの中等に入れておくと、美人になって良縁を得られるとか、衣装が増えるとか信仰され、平安時代には京の町で人気を博したといわれます。そして、現在も節分の日のみは、多くの女性参拝者で境内が賑わうことになります。

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今回は、数年前にブログパート1に採り上げた聖護院の塔頭、積善院凖提堂(しゃくぜんいんじゅんていどう)の写真を増やして掲載します。(尚、文章は以前のもの(削除済)をほぼ踏襲しています。)
積善院凖提堂は観光寺院では有りませんが、狭い境内にお堂や地蔵が並んでいてしたしみやすい雰囲気が漂っています。


京都市左京区にある聖護院という地域は、聖護院八つ橋、聖護院大根、聖護院蕪などでも知られるかなり広い地域で、地元では、大きな京都大学医学部付属病院があることで有名です。
この聖護院という地域名は、元々本山修験道大本山・聖護院門跡に因んでいて、周辺は明治時代までは聖護院村と呼ばれ、鴨川にかけて大きな森が広がっていたようです。そして、聖護院門跡も、天皇の仮皇居になった経緯から、森の中にある御殿として「森御殿」とも呼ばれていました。(尚、聖護院門跡は、普段は要予約、また特別拝観の際に公開 ブログパート1に少し掲載)


さて、この聖護院門跡の東隣にあるのが、聖護院の塔頭の積善院凖提堂(しゃくぜんいんじゅんていどう)です。長い名前ですが、積善院と凖提堂という2つのお寺が合併したものです。
積善院は、元々は熊野神社の西北、現在の京大医学部付属病院のある辺り(聖護院川原町)にあったお寺です。鎌倉時代初期の創建とされ、聖護院の下で山伏を統括代行し、栴(なぎ)ノ坊という名称で呼ばれていました。一方、凖提堂は、江戸時代に建立された準提観音を本尊とするお寺で、現在の熊野神社の東南(聖護院山王町)にあったようです。2つの寺院は、明治初期に合併し、積善院凖提堂と称するようになり、大正3年(1914)に現在地に移転したようです。
現在、元の準提堂を本堂として、準提堂の本尊だった準提観音と積善院の本尊だった不動明王(重文)を合祀しています。また、本堂の西側に建つのが元の積善院本堂で、役の行者像や阿弥陀如来像を祀ります。

さて、境内には、幾つかの石碑や石仏等が祀られていますが、特に知られるのが、元々は聖護院の森の西北(現京大付属病院)にあった「崇徳院地蔵」です。
保元の乱で讃岐に流され死去した崇徳上皇の霊を慰めるために京の人々が祀ったと伝えられる小さな地蔵様ですが、別名は「人喰い地蔵」と呼ばれています。これは、崇徳上皇が死後怨霊となったという恐ろしい話を背景に、崇徳院(すとくいん)→すとくい→人食い(ひとくい)へ転じたもののようです。

また、昭和二十七年(1953)に建てられた「お俊伝兵衛恋情塚」があります。
江戸時代中期の元文三年(1738)に、京都の釜座三条の呉服商井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女お俊が、この聖護院の森で心中した事件に因んで建てられたものです。お俊・伝兵衛の心中事件は、近松門左衛門の浄瑠璃「近頃河原達引」のモデルとして知られることになりました。

最後に、積善院凖提堂は、五大力さんとしても知られていて、二月二十三日には五大力尊法要が行われます。秘仏の五大力尊画像が開帳、大般若経転読法要や護摩供養が行われ、普段は人気の無い境内にも多くの参詣者が集まります。


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