京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は京都市右京区太秦(太秦安井池田町)にある皇室史跡として、JR嵯峨野線の花園駅の南約五百メートルにある後宇多天皇髪塔(ごうだてんのうはつとう)を採り上げます。
(付近の目印としてはすぐ東に大型スーパー「ライフ」、北には「ライフ」の駐車場を経て「右京ふれあい文化会館」があるので、比較的見つけやすい皇室史跡でもあります)


鎌倉時代末期の第九十一代・後宇多天皇に関しては、これまでも「後宇多天皇皇后姈子内親王(遊義門院)今林陵(嵯峨大覚寺門前六道町)」等の大覚寺統に関する諸史跡で何度か書いてきましたので、今回は少しだけ書いてみます。(いずれ、後宇多帝の御陵=蓮華峯寺陵(京都市右京区北嵯峨朝原山町)を採り上げる際に詳しく書きたいと思います)


さて、後宇多天皇は、一般に第九十六代・後醍醐天皇の父として知られますが、歴代天皇中でも傑出した才能の持ち主でした。
北畠親房は『神皇正統記』で「後宇多の御門こそゆゆしき稽古の君にましまし」と後宇多がたいへん学問熱心で、「大方この君は中古よりこなたにはありがたき御こととぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才聞えさせ給はざりしにや」と、歴代天皇でも平安時代の後三条帝以来の学才があり、例えば、醍醐、村上、後三条等の優れた天皇の治世に比べられる善政を行ったと絶賛しました。

さらに、ライバルだった持明院統の第九十五代花園天皇も、その日記(『花園天皇宸記』)で「天性聡敏にして経史を博覧す。詩句を巧みにし、また隷書を善くす」として、後宇多帝の在位期間「乾元・嘉元の間政理乱れず」とし、(晩年、後宇多上皇が期待をかけていた嫡子・後二条天皇が早世したことにより、一代限りのピンチヒッターとして即位させた第二子・後醍醐天皇が自身の子孫に皇位を継がせたいという野心を持ったことから、後宇多が寵愛し即位を期待していた皇太子邦良親王(後二条天皇皇子)と後醍醐との関係が悪化するという問題を引き起こしたものの)、その素質を認め「末代の英主なり。愛惜せざるべからず」と賞賛しています。

また、後宇多帝は、晩年、真言密教に深く傾倒し大覚寺を再興したことでも知られます・・徳治二年(1307)七月二十四日、寵愛する皇后遊義門院(姈子内親王)が赤斑瘡で崩御したに衝撃を受けた後宇多上皇は、二日後に嵯峨亀山殿の寿量院で、仁和寺真光院の禅助大僧正を導師として剃髪出家して法皇となりました(僧名は金剛性)そして、同年十一月二日に東大寺で受戒し、翌延慶元年(1308)正月二十六日に、東寺で灌頂を受け阿闍梨位を得ています。



さて、前回、嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓について書いた時に触れましたが、太秦安井の御室川沿いの地域には、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて、龍翔寺(りゅうしょうじ)という寺院がありました。
龍翔寺は、正式には「瑞鳳山萬歳龍翔禅寺」といい、現在は紫野大徳寺山内の一塔頭ですが、元々は、延慶二年(1309)三月、後宇多法王が、深く帰依していた南浦紹明(なんぽしょうみょう 円通大応国師 1235〜1309)禅師が入寂したために、その塔所(墓所)として安井の地に創建した寺院でした。

南浦紹明禅師は、嘉禎元年(1235)、駿河国安倍郡(静岡県静岡市)に誕生しました。
幼少時より仏教を志し、十五歳の時、鎌倉建長寺の蘭渓道隆(1213〜78)の弟子となって受戒し、正元元年(1259)に中国宋に渡って修行しました。その後、文永四年(1267)に帰国した後は、九州博多の崇福寺等の住持を務め、 嘉元三年(1305)には、後宇多上皇の招きによって入京して上皇の帰依を得ます。しかし、延慶元年(1308)十二月、住持を務めていた鎌倉建長寺で七十五歳で入寂しました。(尚、南浦紹明には大徳寺の開山となった宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう 大燈国師)等多くの弟子があり、日本の臨済宗は、すべて南浦紹明〜宗峰妙超〜関山慧玄(かんざんえげん 妙心寺開山)へと続く法系に属します。)


さて、南浦紹明禅師の死を惜しんだ後宇多法王は、「円通大応国師」と諡号を贈り、南浦紹明の弟子だった絶崖宗卓(?〜1334)禅師に、太秦安井にあった離宮柳殿御所を寄進して、南浦紹明(大応国師)を勧請開山として龍翔寺を建立しました。(実際の開山は二世絶崖宗卓)

また、龍翔寺境内の北側には、南浦紹明の遺骨を埋葬する塔所として普光塔(大応国師塔)という仏堂が建てられました。その後、元亨四年(1324)六月に後宇多法王が崩御すると、普光塔(大応国師塔)の左隣に、帝の遺髪(帝が出家した際に剃髪した髪が、龍翔寺に下賜されたものとも思われます)、納められた後宇多院塔(後宇多天皇髪塔)が造営されました。また、前回に採り上げた、龍翔寺創建以前からこの地にあった嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓も境内の南側に取り込まれていたようです。


こうして創建された龍翔寺は、三町四方に及ぶ広大な寺地を有し、至徳三年(1386)七月、五山十刹で京都十刹の第十位に列せられるなど栄えましたが、室町中期以降、特に応仁の乱後の戦乱に遭って衰退しました。そこで、大徳寺の末寺となってその支援を受け、天文八年(1539)、紫野大徳寺の西に移建再興されました。その後、江戸時代の文化十三年(1816)に焼失し翌年再建されました。明治の廃仏毀釈後は、大徳寺山内の塔頭の廃絶統合の影響を受けますが、大正時代に再興されています。


さて、江戸時代の『都林泉名勝図会』等は、龍翔寺の移転後も、旧地太秦安井には、普光塔(大応国師塔)や後宇多院塔が竹林の中に残されていたことを記します。またこの頃には、後宇多院塔は石塔だったということです。そして、明治十八年(1885)まで、龍翔寺の僧が、毎年七月にこれらの旧跡を廟参読経していたということです。その後、各地の皇室陵墓の整備が進められた結果、後宇多院塔のみが、宮内省(現宮内庁)管轄下で「後宇多天皇髪塔」として法華堂形式で整備され現在に至ります。

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今回は京都市右京区太秦にある皇室史跡として、JR嵯峨野線の花園駅の南約六百メートルにある後鳥羽天皇皇女・禮子(礼子)内親王墓(右京区太秦安井池田町)を採り上げます。


禮子(礼子)内親王(れいし ないしんのう 1200〜1273)は、鎌倉時代の正治二年(1200)に、第八十二代・後鳥羽天皇の第三皇女として誕生しました。母は後に内大臣となった坊門信清(後鳥羽帝の叔父)の娘、坊門局(西御方)です。元久元年(1204)六月二十三日、五歳の時に内親王宣下、賀茂斎院に卜定され、合わせて准三宮に准じました。
同二年(1205)四月二十八日、諸司(左近衛府)へ初斎院、建永元年(1206)四月十九日、紫野院(尚、現京都市上京区にある櫟谷七野神社の境内には、この斎院跡の石碑があります・・ブログパート1に掲載))へ入御。

しかし、建暦二年(1212)九月四日、十三歳で病気により退下します・・病気による斎院退下は前例の無い事態だったため、賀茂社に奉幣使を発遣して其由を告げ、同月十九日には斎院禮子内親王御祓が行われる等、当時の諸記録からは朝廷の狼狽した様子が伺われます。

その後、建保二年(1214)六月十日、院号宣下によって嘉陽門院(かようもんいん)と称しました。尚、当時の女院御所は四条殿と呼ばれ四条壬生にありました(寛喜2年(1230)五月二十三日には、この四条壬生嘉陽門院御所は焼失したという記録があります)また、承久二年(1220)五月二十一日には出家して、法名を真如性と称しました。

その後、世俗を離れたためか当時の諸記録にはあまり登場しませんが、承久三年(1221)の承久の乱で、父の後鳥羽、異母兄の土御門、順徳の三上皇が流刑となった際も、既に出家していた嘉陽門院はそのまま京に留まったようです。また、寛喜三年(1231)一月二十二日に八条堂で行われた鎌倉三代将軍・源実朝の十三年忌追善法要の際には、当時居住していた御室仁和寺の御所から御幸して供養を行っています。そして、文永十年(1273)八月二日、七十四歳で亡くなりました。
また、嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)は、最後の賀茂斎院としても知られます・・承久の乱等の騒動によって、以後、賀茂斎院が廃絶したからです。


さて、太秦安井にある嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓についてですが、嘉陽門院の終焉及び埋葬地について当時の諸記録は明らかにしませんが、この地は、鎌倉時代末期に、後宇多天皇が崇敬していた南浦紹明(大応国師)禅師の入寂後、国師を開山として創建された龍翔寺(室町時代の五山十刹の十刹の一つ)の旧地になり、龍翔寺はかつての嘉陽門院の御所が荒廃した跡地に建てられたと伝えられています。

江戸時代の「雍州府志」や「都林泉名勝図会」等によると、この地には、古くから嘉陽門院の墓と伝承され、嘉陽門院塔と呼ばれた五輪石塔が竹藪中にあったようです。
現在の宮内庁によって整備された墓は、正面前は駐車場化し、民家に囲まれてはいますが、京都市内の皇子皇女の墓としては面積も広く開放感があります。杉の木立が遠くからでも目立ち、側面からはっきりと五輪石塔を見ることができます。

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右京区太秦安井北御所町、JR嵯峨野線の花園駅の南東約二百メートルにある竹林寺(ちくりんじ 正式には竹林禅寺)は、山号を宝珠山という臨済宗妙心寺派の寺院です。

(特徴の無い小さな寺院なので、地元でランドマーク的な存在の京都市右京ふれあい文化会館(京都市右京区太秦安井西裏町)の東、数分の距離で探した方が発見できるかもしれません。掲載した最後の写真は、安井のランドマーク京都市右京ふれあい文化会館です。)



寺伝によると、現在の洛西安井村(右京区太秦安井)の地は、平安時代初期の嵯峨天皇の弘仁年間(810〜23)に弘法大師空海の弟子、真済(柿本紀真済)僧正によって地福寺(現上京区七本松通出水下る七番地)が建立されるなど早くから霊場として栄えた地域で、その後、霊夢のお告げによって恵心僧都源信がこの地に居住し、一刀三礼して地蔵菩薩像を刻んで寺に安置したと伝えます。

また、平安時代末期には、この地域一帯は、第七十七代後白河天皇の第一皇女・亮子内親王(りょうし・あきこ ないしんのう 1147〜1216)の御所安井殿(安井御所)の敷地となり、現在の「安井(拾遺都名所図会は「安居」と記す)」という地名は、この安井殿に由来するとも言われます。
(現在も北御所町、西裏町、東裏町、車道、二条裏町、馬塚町といった安井殿との関係を伺わせる町名が一帯に残ります)


さて、亮子内親王は、十歳の時に卜定により伊勢斎宮となり、野々宮へ遷りますが、その後、後白河天皇の譲位により退下し、寿永元年(1182)八月十四日、安徳天皇の准母として皇后に冊立されました。その後、文治三年(1187)六月二十八日、院号宣下により、殷富門院と号しました。
正治2年(1200年)十月十七日、殷富門院は、安井殿内に御堂を建立し蓮華光院と号し、養子にしていた道尊(どうそん 1175〜1228)僧正を寺の開基としました。尚、この道尊は、平家に対して挙兵して戦死した以仁王(もちひとおう)の遺児で、以仁王は殷富門院(亮子内親王)の異母弟になります。

こうして、蓮華光院は、道尊僧正以降、第二代道円法親王、第三代道融大僧正、第四代道性法親王と続き「安井門跡」と称しました。
その後、戦乱で衰退し嵯峨大覚寺門跡の支配下に入るなどしますが、延宝初年(1674)頃に九世性演大僧正が再興し、元禄八年(1695)に、東山安井付近に移建再興されました。
尚、明治維新の後、蓮華光院は廃されて大覚寺に合併され、残った鎮守社の金毘羅宮は安井神社と改称しましたが、第二次大戦後は安井金比羅宮と改め現在に至っています。
また、地福寺も衰退した後、江戸時代の享保十二年(1727)に、中興道空和尚によって西陣の現在の地に移建しています。(安井金比羅宮、地福寺はブログパート1に掲載しています)



さて、今回の竹林寺ですが、地福寺や安井門跡といった寺院が去った太秦安井の地で、これら寺院の平安以来の仏教遺産を継承して守り続けてきた寺院といえるのかもしれません。

本尊は、前述した恵心僧都源信作と伝わる平安中期の地蔵菩薩立像で、別名「長者地蔵」と呼ばれます。
この菩薩像は、像高約一メートル弱の寄木造、玉眼入りの尊像で、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、長寿延命のご利益があるとされます。

また、他に「竹林長者」と伝える小像を安置しています。
この像は、竹林寺に伝わる「長者地蔵縁起」によると、江戸時代、ある貧乏な男が竹林寺の長者地蔵を熱心に信仰していると、夢のお告げによって境内で宝珠を拾いました。それ以来、男は成功して竹林長者と呼ばれるようになったということです。そして、その後、地蔵菩薩像は長者地蔵として知られるようになり、現在も崇敬されているということです。(拝観は要予約)


また、竹林寺では、毎年の八月二十四日の地蔵盆の際、水子供養の法要の後、中堂寺六斎念仏保存会によって、重要無形民俗文化財の中堂寺六斎念仏が本堂で奉納され、一般に公開されます。



過去にも何度か書きましたが、この六斎念仏というのは、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能です。
今も京都各地の寺院及び保存団体によって伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されています。六斎念仏がいつ頃から始まったのかは不明ですが、平安時代に空也上人が、仏教の忌日である六斎日(八、十四、十五、二十三、二十九、三十日の六日)に、京都の市中で、念仏を唱え鉦や太鼓を叩いて「踊躍念仏(ゆうやくねんぶつ)」を広めたことが起源ともいわれ、現在は六斎日とは関係なく、京都各地でお盆をはじめとする行事の際に行われています。

尚、六斎念仏は、江戸時代になると念仏踊を中心とする従来の「念仏六斎系」の他に、浄瑠璃や歌舞伎等の要素を取り入れより風流娯楽化した「芸能六斎系」が登場して、今日までこの二系統に分れて伝承されています。また、六斎念仏には、空也堂の傘下の「空也堂系」と、光福寺傘下の「干菜寺系(光福寺)」の二つがあり、各六斎念仏団体はどちらかの寺院から免許を与えられその傘下に入っていました。
また、明治以前は「干菜寺系(光福寺)」が盛んでしたが、現在は「干菜寺系(光福寺)」は西方寺の六斎念仏が残るのみで、今回の嵯峨野六斎念仏をはじめその他の六斎念仏は全て「空也堂系」で、嵯峨野六斎念仏は、能や長唄・歌舞伎の要素を採り入れて、独自に発展した芸能的六斎になります。


他の主な六斎念仏として

○中堂寺六斎念仏(8月9、16日壬生寺)
○千本六斎念仏(8月15日千本ゑんま堂(引接寺)
○西方寺六斎念仏(8月16日西方寺)
○円覚寺六歳念仏(8月16日円覚寺)
○小山郷六斎念仏(8月18日上御霊神社・8月22日上善寺)
○上鳥羽六斎念仏(8月22日鳥羽地蔵(浄禅寺))
○桂六斎念仏(8月22日、23日桂地蔵(地蔵寺))
○嵯峨野六斎念仏(8月23日阿弥陀寺・9月2日松尾大社)
○梅津六斎念仏(8月25日梅宮大社)
○吉祥院六斎念仏(8月25日吉祥院天満宮)
○久世六斎念仏(8月31日蔵王堂光福寺)
等があります。

妙顕寺その3

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前回の続きです・・


これまで妙顕寺の歴史を中心に書いてきましたが、かなり長くなりましたので、今回は境内の様子を簡単に書いておきます(妙顕寺のホームページから引用させていただきます)

さて、「門下唯一勅願寺」の札が掲げられた山門を潜ると、参堂の先、正面に本堂があります。
本堂右手には、三菩薩堂(祖師堂)と尊神堂(鬼子母神堂)、そして、三菩薩堂(祖師堂)と尊神堂(鬼子母神堂)の間には、慶中大菩薩が祀られています。また、三菩薩堂(祖師堂)の裏には御真骨堂(鐘眞窟)、納骨堂があります。
(尚、天明期の図会によると、天明の大火以前は、本堂から、鬼子母神堂、祖師堂へと回廊で繋がっていたようです。また、現在は有りませんが、正面には楼門(仁王門)、境内東側には七面大明神、境内西側には五重塔が点在していました。)


現在の本堂は、妙顕寺の寺史「龍華年表」によると天明の大火後、天保元年(1830)九月の上棟ということで、瓦銘から同十年頃に完成したと考えられています。典型的な平面形式の日蓮宗本堂ですが、内部空間が平明で近世的な様式が取り入れられています。(尚、平成二十一年四月から屋根瓦葺き替え工事を行っています)
本堂の東にあるのが祖師堂で、日蓮、日朗、日像の三祖を合祀していることから「三菩薩堂(二世大覚上人の雨乞い功により、日蓮に大菩薩、開山日像とその師日朗に菩薩号の勅賜を賜ったことから)」と言われ、天明の大火後には、一時仮本堂として再建されました。


三菩薩堂の裏手にあるのが御真骨堂です。元々は鐘眞窟と言い、日蓮、日朗、日像各聖人の眞舎利を奉安する御堂で、明治初期、第五十二世福田日耀上人の代に再建されたものということです。また、その裏には納骨堂もあります。
本堂の直ぐ右にある尊神堂には、安産や子供の守護神、悪を除き福をもたらす鬼子母神が祀られていて、過去には天皇が参拝したことから天拝鬼子母神堂とも言われています。
その脇にある慶中大菩薩は、元々、京都御所鎮護の守護神として宮中の女官から尊崇された神で、当山が後醍醐天皇の勅願寺として建立された際に境内に祀られるようになったと伝えられます。


境内の西側には、鐘楼や妙見大菩薩、四海唱導跡地の碑等があります。
天明の大火後に再建された鐘楼は、元々は、境内の大門の東にありましたが、昭和四十年(1965)に、かつて五重塔があった現在地に移築されました。また、鐘は正徳3年(1713)の鋳造です。

他に本堂の裏には、庫裏、大玄関、客殿等があります。
客殿の正面右手奥には、戦前までは天皇専用の玉座の間があり、現在も客殿の正面には、勅願寺らしい勅使門が残されています。勅使門の傍の壽福院塔は十一重の石塔で、熱心な法華宗徒だった加賀藩主・前田利家の室、壽福院日栄の寿塔で、寛永五年(1628)の建立ということです。
傍には、他に八房大龍神が祀られています・・正平十三年(延文三年 1358)、大覚妙実上人が勅命で桂川の傍で祈雨の行を行った際、八大龍王の使者で八つの金角、八つの金房のある八房龍神が師を守護しました。そして、今尚この地に在住して大本山を守護していることから、大正六年にこの地に八房大龍神を祀ったものということです。

庭園は、天明の大火の焼失後は原形を失って本来の姿は不明ですが、客殿の前庭は「龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)」、書院の前庭は「光琳曲水の庭」と名付けられた枯山水庭園です。また、孟宗竹林が聳える美しい坪庭があります。これら庭園は、以前は公開されていましたが、現在は拝観中止のようです。他に、檀信徒や女性限定の宿坊も行っています。


また、江戸時代には境内に二十余の塔頭があったようですが、現在は九つの塔頭が残存しています。
特に、泉妙院には尾形光琳や乾山一族の墓があることで知られ、善行院は、「洛陽十二支妙見めぐり」の「子」に当たる「西陣の妙見宮」として親しまれています。(共に、ブログパート1に採り上げています)他にも、重森三玲作の御題目庭園(非公開)がある教法院、京の豪商、茶屋四郎次郎の霊像を祀る久本院、その他、實成院、法音院、本妙院、恵命院、十乗院があります。


寺宝としては、尾形光琳筆「松竹梅図」三幅、狩野永納筆「三幅對(天台大師、伝教大師、日蓮上人)、国の重文指定の妙顕寺文書(千六百五十六通 六十巻、七十四幅、千二百九十四通 重文)、神国王書(日蓮筆 重文)、強仁状御返事(日蓮筆 十二月廿六日 重文)、紙本墨書後小松天皇宸翰御消息(重文)、金字法華経(巻第五(巻首伏見天皇宸翰)重文)等多数を所有しています。


最後に、定例の年中行事としては、「新年祈祷祭(一月)」、妙顕寺鎮護の慶中大菩薩お火焚祭の「二の午 慶中様大祭(二月)」、後醍醐天皇より勅願論旨を賜った聖日を祝う法要「法華千部会(四月十四日)」、後醍醐天皇が妙顕寺に委嘱した宗門唯一の懺法法要「法華懺法会(後醍醐天皇聖忌会 六月十六日)」、開山日像聖人御生誕の聖日に行われる「盂蘭盆施餓鬼会法要(八月十日)」、開山日像菩薩の祥月忌の聖日の報恩法要「宗祖御会式(開山日像菩薩御会式)」(十一月十三日)、冬至の「除災祈祷会(12月冬至)」、「除夜の鐘撞(十二月三十一日)」があります。

妙顕寺その2

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前回の続きです・・

さて、興国二年(暦応四年 1341)に妙顕寺第二世となった大覚妙実(1297〜1364)上人は、妙顕寺及び日蓮宗(法華宗)の発展に努めました。

大覚妙実は、関白近衛経忠の子、また一説には、後醍醐天皇の皇子とも伝えられ、幼少時に出家して南朝と関係の深い真言宗大覚寺に入り真言密教を学びました。十七才の時に、街中で出会った日像上人の説法に強い感銘を受けて、七日の間、その説法を熱心に聞き、大覚寺門跡の地位を捨て、智覚、正覚、祐存といった供の僧達と共に日像の門下となりました。

その後、日像上人からその才を認められた大覚妙実は、師の遣いとして鎌倉の日朗上人の元に十二回も派遣される等、師に代わって畿南、中国、関東への布教活動を行いましたが、特に備中、備後、備前を中心に(この地方に三十一ヶ寺を建立したとも伝えられます)中国、瀬戸内地方に日蓮宗(法華宗)に初めて広めた功績は大きく、正平十三年(延文三年 1358)に備後に法華堂(現法宣寺 広島県福山市鞆町後地)を建立する等、現在のこの地域の日蓮宗(法華宗)寺院の多くが大覚妙実を開基としています。
また、畿内南部でも妙泉寺(大阪府和泉市和気町)、妙光寺(大阪府泉佐野市市場西)等、三十程の寺院を建立したとも伝えられます。


その後、室町幕府の初代将軍足利尊氏から荘園三ヶ所の寄進を受け、二代将軍義詮からも念珠等を賜るなど、尊氏や義詮の帰依を受けて、妙顕寺は足利将軍家の祈祷所として発展していきます。

妙顕寺と足利将軍家の関係を当時の諸記録(大日本資料より)から列挙してみると・・
正平五年(観応元年 1350)二月二十一日、足利義詮は、妙顕寺の他、実相寺、妙顕寺、桂宮院、恩徳院、備後浄土寺に天下の静謐を祈らせています。また、正平十年(文和四年 1355)八月二十九日、足利尊氏は妙顕寺に近江佐津河東方の地、備前宇垣郷内山条村及び備中河尻社を寺領として与えました。

正平十二年(延文二年 1357)一月二十二日、尊氏は京都祇園社と妙顕寺に天下静謐を祈らせ、義詮もまた妙顕寺に祈願させています。同年三月二十六日、義詮が、妙顕寺の他、東寺、実相寺、桂宮院に尊氏のために祈祷させ、同年八月二十五日にも、幕府は、妙顕寺に三千万部の法華経を読誦させ四海静謐を祈らせています。
そして、正平十三年(延文三年 1358)四月二十七日には、幕府は妙顕寺に、死期の迫った尊氏の為に祈祷を行わせています。(尊氏は三十日に死去)

正平十七年(貞治元年 1362)、京都に赤斑瘡が流行したため、六月十四日に、妙顕寺に法華経を転読させ、病魔退散を祈願させました。また、正平二十一年(貞治五年 1366)二月三十日、将軍義詮は、妙顕寺に天下静謐を祈祷させ、元中二年(至徳2年(1385)十月十一日にも、幕府は妙顕寺祈祷させています。

また、当時は南北朝の動乱期だったこともあり、妙顕寺も度々被害を受けたようで、正平七年(文和元年 1352)二月二十五日には、比叡山延暦寺衆徒が、当時延暦寺の別院だった祇園社(現八坂神社 当時は神仏混交でした)に妙顕寺法華堂を破却させる事件が起き、正平六年(観応二年 1351)九月二十二日には尊氏が、正平十年(文和四年 1355)五月二十日には義詮が、夫々、武士庶民に対し妙顕寺に乱入狼藉することを禁じています。



さて、妙顕寺の有名な逸話があります・・正平十三年(延文三年 1358)京都を大千魃が襲い、諸宗が請雨を祈祷しますが効果が有りませんでした。そこで、北朝の後光厳天皇は、大覚妙実上人に祈祷を命じます。六月二十五日、上人が桂川の傍で曼荼羅に祈り、法華経を読誦すると、たちまち黒雲が湧き起って雷鳴が轟いて雨が降り始めました。雨は数日間降り続き、朝廷以万民が喜びました。

そして、この功によって、朝廷は上人の願いを聞き入れ、宗祖日蓮上人に大菩薩号を、日朗、日像両上人に菩薩号を贈り、大覚上人自身も大僧正号を賜ったとされます。
また、現在まで妙顕寺の呼称となっている「四海唱導・・「四海(天下、国中)」に「唱導(教えを説き人を導く)」したという意味)」も、この功によって同年七月に許されたと伝えられます。(宜為四海唱導、被致一乗弘通云々・・)



尚、大覚妙実上人は、正平十九年(貞治三年 1364)四月三日に六十八歳で入滅したと伝えられ、妙顕寺は三世朗源僧都、四世日霽上人へと継承されますが、元中四年(嘉慶元年 1387)、比叡山延暦寺宗徒によって境内伽藍を破却され、日霽上人は若狭小浜へ逃れます。

その後、明徳四年(1393)七月八日、日霽が将軍義満から三条坊門堀川(押小路以南、姉小路以北、堀川以西、猪熊以東(現中京区堀川御池))の地を与えられ、寺号を妙本寺と改めて再建しました。
義満も妙本寺(妙顕寺)を祈願所とし、応永二年(1395)四月十六日に、義満が妙本寺日霽に祈祷を命じたこと、応永五年(1398)八月二十九日に義満が妙本寺に参詣したこと、翌応永六年(1399)十二月七日に、妙本寺日霽に四海安全を祈願させたことが記録されています。

四代将軍義持も、妙本寺(妙顕寺)を保護し、応永十八年(1411)四月七日に、妙本寺(妙顕寺五世)の具覚月明上人を権大僧都に任じ、同年七月二十八日には、義持は妙本寺を祈願寺としました。
さらに、応永二十年(1413)五月八日には具覚(月明)上人を僧正に任じましたが、この事が延暦寺の怒りを買い、同年六月二十五日、延暦寺衆徒等が憤って嗷訴し、犬神人(祇園社等の下級神官)等が、妙本寺(妙顕寺)の堂宇を破却し、具覚月明上人は丹波へ避難しました。

当時、南朝残存勢力の騒動が相次いで動揺していた幕府は、翌応永二十一年(1414)七月八日、延暦寺衆徒の要請を聞き入れ、妙本寺住持具覚(月明)に賜った僧正の任命を取り消し、同寺本堂を法勝寺五大堂に、住持の住坊を犬神人に、その他の堂舎及び寺地を十禅師社に寄進させています。
それでも、その後、応永三十年(1423)十月二十一日には、義持が月明上人に全国の諸末寺に命令し、朝家安全、武運長久を祈らせ、永享九年(1437)二月二十五日には、六代将軍義教が、妙本寺で祈祷を行わせるなど幕府との繋がりを深めていたようです。



この頃、宗門内部でも、法華経の内容に関する解釈論争が起りました・・・法華経の前半(第一から第十四の安楽行品まで)を「迹門」、後半(第十五の涌出品〜観発品第二十八まで)を「本門」と言いますが、この前半と後半の関係をどう見るか、本迹一致か本迹勝劣かという教義論争です。
元々、宗祖日蓮以来、「本迹勝劣」の立場を基本としてきましたが、宗派内部で「本迹一致」を採る異論が起こったことから対立と分派を生み、また、時の権力と関係を深める教団の姿勢でも内部批判が生まれました。

こうして、四世日霽上人の時代、天寿四年(永和四年 1378)、内部対立から妙顕寺から離脱した日実上人が、小野妙覚の外護を得て四条大宮に堂宇を構えました(妙覚寺の創建)
さらに、延暦寺宗徒によって妙顕寺が破却された後の明徳四年(1393)、日実上人は、三条坊門堀川に移った妙本寺(妙顕寺)に対し、四条櫛笥の旧地に妙顕寺を再建し本応寺(後の立本寺)と称しました。(尚、立本寺の創建に関しては諸説あり、上記したように、延暦寺の攻撃を受け、具覚月明が丹波へ避難している間、京都に留まった日実上人ら弟子達が、応永二十二年(1415)に四条櫛笥の妙顕寺旧地に本応寺を建立し、その後帰洛した月明と対立して分立したともいわれます)
妙覚寺や立本寺は妙本寺(妙顕寺)と同じ具足山と称して妙本寺(妙顕寺)と対立します。

さらに、具覚月明と対立し妙顕寺を去った中には、日慶、日隆等があり、応永年間(1420頃)、日慶上人は、かつての日像上人ゆかりの妙法蓮華寺(柳寺)を再興しました(妙蓮寺の再建)また、応永二十二年(1415)、日隆上人は、山本宗句の外護を得て、本応寺(後の本能寺)を創建しました。これらの寺院も妙本寺(妙顕寺)の弾圧を受けながらも発展していきます。



さて、その後、妙本寺(妙顕寺)は、日蓮宗(法華宗)洛中二十一本山の中心として栄え、室町時代後期には、法華宗徒は下京を中心に京都の人口の半分に達する程でした。
京都の上京を灰燼にした応仁文明の乱(1467〜1477)も、法華宗徒の多い町衆の集まる下京への被害は少なく、妙本寺(妙顕寺)は、応仁文明の乱の後に二条西洞院に移り、永正十一年(1514)十月十日には、流浪の将軍である十代義稙が、妙本寺に天下泰平を祈願させています。また、永正十六年(1519)、日芳上人の時代に元の妙顕寺に改名しています。
しかし、天文五年(1536)七月、六角氏等を味方にした比叡山大衆の攻撃を受け(「天文法華の乱(天文法難)」)、法華寺院の集まる下京は灰燼と化し、妙顕寺も他の本山とともに和泉堺の末寺へと逃れました。

そして、天文十七年(1542)に帰洛を許されて、旧地二条西洞院に再建されましたが、天正十一年(1583)九月、豊臣秀吉が、京都における政治拠点を築くために、妙顕寺を現在の寺之内通小川へ移転させました。
(尚、跡地には二条新第(妙顕寺城)が築かれ、天正十四年(1587)に聚楽第が築かれる前まで、豊臣政権の京都政庁の役割を果たしました。普段は秀吉の代理人として五奉行の一人、前田玄以が居住し秀吉の上洛時の宿舎となっていました。現在、二条城の東にある跡地には「豊臣秀吉妙顕寺城跡」の碑があります)

その後、天明八年(1788)の天明の大火により焼失しますが、天保五年(1834)前後に再建されていて、現在の建物はこの時に再建されたものです。また、江戸時代を通して、本圀寺(現山科区)と並び京都の日蓮宗の最大の拠点でもありました。
その後、明治時代に、分裂していた法華各宗派が大合同し、身延山を祖山と仰いで日蓮宗が結成されてからは、大本山として全国に三百余の末寺を統率しますが、昭和十六年(1941)の制度改革によって、全ての末寺を教団に解放しています。




後半は、かなり省略しましたが、それでも今回も書き過ぎて、字数オーバーとなりました。
次回は少しだけ、境内の建物等についでです・・


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