京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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妙顕寺その1

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今回は京都の宗教史を語る上でも重要な寺院の一つ・・妙顕寺(みょうけんじ 京都市上京区寺之内通新町西入る妙顕寺前町)を採り上げます。

妙顕寺は、正式には四海唱導(しかいしょうどう)妙顕寺(南北朝時代に後醍醐天皇の勅願寺や足利氏の祈願所となって以来、「四海唱導」の呼称を有します)といい、山号を具足山、別名を龍華ともいう日蓮宗(一致派)の大本山です。鎌倉時代末期の元亨元年(1321)に、日蓮上人の孫弟子になる日像(にちぞう)上人(四海唱導師、洛陽開山、龍華院日像大菩薩)が創建した、京都における日蓮宗(法華宗)最初の寺院として知られます。


さて、鎌倉時代後期の弘安五年(1282)九月八日、日蓮宗宗祖日蓮上人は、年来の慢性の下痢の症状に加え、冬の寒波の到来で体調を崩し、約九年を過ごした身延山を降りて、同月十九日、武蔵国千束郷の門下、池上宗仲の館(現在の東京の池上本門寺)に入りました。
臨終を悟った上人は、十月八日、本弟子として日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の各上人を定めました(六老僧 その後、教団の中心となって各地で活躍し日蓮の法流を後世に伝える弟子達)。十日に形見分けが行われ、十一日、多くの弟子や信者の中で、日朗上人の弟子で十四歳の経一丸(きょういちまる 経一麿とも)を特に枕元に呼びました。この少年僧こそ、後の日像上人(1269〜1342)です。


日像上人は、文永六年(1269)八月十日、甲斐源氏の流を汲む豪族、平賀忠治の子と千葉氏の女との間に下総国平賀(現千葉県松戸市の本山本土寺の地)に誕生し、幼名を万壽麿といいました。
健治元年(1275)七歳で出家して弟(後の日輪上人)と共に異父兄に当たる日朗上人の弟子となりました。日朗上人(日蓮の高弟で、後の六老僧の一人)は、この子は将来教団を支える人物に成長するだろうとその才能を認め、身延山の宗祖日蓮上人に対面させました。日蓮上人も少年を、将来の京都での布教、天皇に法華経を伝えるという大任を担える逸材であると内心喜んで、以後、経一丸(経一麿)と名付け身近に仕えさせ教育を施しました。

さて、それから約五年の後、死期を悟った日蓮上人は、最後の遺命として、改めて帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)と宗義天奏(しゅうぎてんそう 天皇への布教)を経一丸(経一麿)に遺命しました。当時、まだ関東を中心にした地方教団だった日蓮の教団が全国的に発展するためには、何としても天皇のいる京都(帝都)での布教が必至でした。しかし、旧仏教有力寺院の多い京都での布教は大変な難事が予測されるものでもあり、十四歳の経一丸には教団の将来にかかわる非常に重い任務が託されたといえます。

こうして、弟子達に後を託した日蓮上人は、十二日の夕刻から大曼荼羅を奉じて随身仏の釈迦如来像を安置し、弟子や信者が読経する中で、十三日の辰の刻(午前八時)に六十一歳で入滅しました。
十四日から葬送が行われ、十五日に荼毘にふされた遺骨は、遺言によって身延山に運ばれます。十九日に池上を出発した遺骨は、二十五日に身延に到着し、その後、百日忌に当たる弘安六年(1283)一月二十三日、弟子達が集まり遺骨は廟所に納められました。


さて、その後、経一丸は、直ぐに名を日像と改め、日朗上人を師として修行に励みました。そして、永仁元年(1293)二十五歳の時、翌年の日蓮上人十三回忌を前にして、帝都弘通の大目標を決行することを決意し、この難事業に耐え抜くため、十月二十六日より、鎌倉比企ケ谷で寒中百日間の荒行を行って心身を鍛えました。残りの生涯を京都布教に捧げるため、翌永仁二年(1294)二月に鎌倉を出発、三月には佐渡の師(日蓮上人)の霊跡を巡拝しながら北陸道を京へ向かいました。
この旅の道中でも、日像上人は、能登や加賀、越前、若狭などで熱心に布教活動を行いました・・能登の妙成寺(石川県羽咋市滝谷町)、越前の妙泰寺(福井県南条郡南越前町)や妙勧寺(福井県越前市今宿町)、敦賀の妙顕寺(福井県敦賀市元町)、若狭の妙興寺(小浜市鹿島)といった諸寺院は、日像の北陸での布教活動の影響で創建(或いは改宗)されたと伝わります。


その後、いよいよ、四月に入洛を果たすと、まず、比叡山等の洛中洛外の寺院から南都の興福寺等までを巡り、いよいよ布教活動を開始します・・妙顕寺に伝わる「龍華歴代師承傳」によると、日像上人は、この年(永仁二年)の四月二十八日の早朝、御所の正門(東門)前で昇っていく朝日に向かって立つと、法華経の題目を高らかに唱え始め、一日中唱えて夕方になっても止めなかったと伝わります。

五月十三日、同二十一日にも街中の十字路で大声で題目を唱え続け、その後は洛中各所で毎日辻説法を続けて貴賎様々な人々を勧誘し、綾小路大宮に法華道場として法華堂(妙顕寺の前身)を建立し、布教活動を続けました。
また、この頃、五条西洞院の大商人、酒屋柳屋仲興(やなぎやなかおき)が上人に帰依して、自邸を提供し柳寺と称して支援します。そして、仲興の没後、未亡人妙蓮法尼が一宇を建立して妙法蓮華寺(妙蓮寺)と改めました・・これが後の妙蓮寺(本門法華宗本山 ブログパート1参照)です。


こうして、次第に上人に入門を求める者が増える一方で、既存宗教を邪宗と弾劾する日像の説法に対し、延暦寺等他宗派の迫害も起って布教活動の停止を朝廷に訴えました。
徳治二年(1307)五月二十日、日像上人は後宇多上皇の勅命で、京を追われ土佐国播多への流刑を命じられますが、洛西の乙訓付近に留まって布教活動を続けました・・流刑地の西国に向かう途中、向日神社付近で、祭神の明神が二羽の鳩や老人姿で現れて日像に教えを請いたいとして、上人をこの地に引き止めたという伝説が伝えられます。

この時、鶏冠井(かいで 京都府向日市鶏冠井町)の真言宗寺院・真言寺の住職、実賢が日像上人に帰依して改宗し、開山として日像を迎え、寺を真経寺(現向日市鶏冠井町大極殿)と改めましたが、真経寺は畿内最初の日蓮宗寺院(妙顕寺の前身法華堂を除いて)ともいわれます。(尚、真経寺は江戸時代に南真経寺と北真経寺に分かれました。)
また、この向日市鶏冠井地区の石塔寺に伝わる「鶏冠井題目踊り(京都府無形文化財指定)」は、日像がこの地を訪れた際、上辻三郎四郎という村人が上人に食事を提供しようと準備をしていると、炊煙が「南無妙法蓮華経」という題目の文字となったため、驚いた村人達が一斉に日像に深く帰依して、喜び踊ったことが始まりと伝えられます。


また、この頃、平安時代の関白藤原基経が発願し、「源氏物語」にも登場する真言宗の古刹、洛南深草の極楽寺の住職良桂とも出会います。良桂は、鶏冠井を偶然通りかかった際に日像と出会って宗論を行いました。その結果、感服して百人余りの門徒と共に帰依し、開山として日像を迎え、徳冶二年(1307)頃に極楽寺を日蓮宗(法華宗)に改めました。(延慶三年(1310)とも)
こうして極楽寺は、京都での日蓮宗(法華宗)の初期の拠点の一つとなりました・・現在の宝塔寺(伏見区深草宝塔山町)です(ブログパート1に掲載)
尚、以下に記すように、後に、日像の遺骸はこの極楽寺で荼毘にふされ、遺骨もこの地に埋葬され寺は廟所となりました。その後、一時鶴林寺とも号しますが応仁の乱で荒廃し、天正十八年(1590)に再興された際、現在の寺名・寶塔寺(宝塔寺)に改称しています)


また、同じく徳治二年(1307)頃、洛北松ヶ崎の地にあった平安時代から続く天台宗寺院・歓喜寺(創建時は松崎寺と称しました)の住職実眼も、日像の説法を聞いて感動して日蓮宗(法華宗)に改宗します。
そして、寺に招かれた日像が二夜三日説法をしたところ、五百人程の村人が感動して全員改宗しました。この時、実眼や村民が歓喜のあまり太鼓を打って「南無妙法蓮華経」と唱え踊ったことが、現在、湧泉寺に伝わる「松ヶ崎題目踊り(京都市無形文化財指定)」の始まりと言われています。
(徳治二年(1307)七月十六日のことだったと伝えられ、また、松ヶ崎にある「京都五山大文字送り火」の一つ「妙」の起こりとして、この歓喜寺が改宗した際、日像が歓喜寺のある西山に妙の字を書いたのが始まりとも伝えられ、歓喜寺もこの時、妙泉寺と改称しています。(尚、大正七年(1918)に、天正二年(1574)頃にこの地に創建された日蓮宗寺院本涌寺と、妙泉寺が合併して、現在の湧泉寺となりました。ブログパート1に少し掲載 )



さて、日像上人は、延慶二年(1309)八月二十八日に帰洛を許されますが、翌延慶三年(1310)三月八日、今度は、紀伊国獅子の背への流刑を命じられます。
これに対し、同月二十三日、上人は御所に天奏して熱心に法華経の法理を説いていますが、帝都弘通の達成のためには天皇の帰依がどうしても必要と考えたからでした。
翌応長元年(1311)三月七日、京都への帰還を許された上人は、綾小路の法華堂に戻って布教活動を開始します。正和二年(1313)法華宗旨問答、文保二年(1318)には曼荼羅相伝を著し、元応元年(1319)には本迹口決を注し、また、朝廷へも書をしたため熱心に教えを説く活動を続けたようです。

元亨元年(1321)十月二十五日、三度目の京都追放で備後尾張へ配流されますが、直ぐに十一月八日に赦免されて帰洛し(この三度の追放と赦免を「三黜三赦(さんちつさんしゃ)」といいます)、後醍醐天皇より洛内の御溝傍今小路(現上京区の「安居院(あぐい)」付近・・ブログパート1に掲載の、安居院(安居院法印房)=現西法寺(大宮通寺ノ内上る三丁目東入る新ン町)付近)に寺地を賜って、法華堂を移して妙顕寺を創立し、また尾張と備中に寺領を賜りました・・日像上人が入洛してから二十八年の月日が流れていました。

さらに、元弘の変から鎌倉幕府滅亡に至る騒乱の際、後醍醐天皇の京都帰還を祈願するなど天皇の信頼を得たことから、建武元年(1334)四月十四日、日像上人は、後醍醐天皇より、法華宗号と一宗弘通の綸旨を受けて、妙顕寺は日蓮宗(法華宗)初の勅願寺となり、洛中洛外の宗門の第一位と認められました。(「妙顕寺為勅願寺、殊弘一乗円頓之宗旨、宜凝四海泰平之精祈云々・・妙顕寺は勅願寺となす。殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜く四海泰平の精祈を凝すべし)」)
ここに、帝都弘通・宗義天奏という日蓮上人の遺命がついに達せられたのでした。


さて、その後、興国二年(暦応四年 1341)七月、日像上人は、遺誡六カ条を、弟子の大覚妙実(だいかくみょうじつ)上人に与え、妙実を妙顕寺第二世と定めています。また同年八月九日、妙顕寺(当時は、一般に法華堂の名で知られました)は四条櫛笥(現中京区四条大宮付近)に寺地を賜って移っています。
そして、翌興国三年(康永元年 1342)春、日像聖人は、故郷の東国へ向かい、身延、鎌倉、池上、平賀を訪問して帰洛した後、同年十一月十三日、七十四歳で妙顕寺で入滅しました。
遺骸は上人の遺言に従って極楽寺(現宝塔寺)で荼毘にふされ廟所が設けられました。



次回に続きます・・

八瀬天満宮その2

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前回の続きです・・・

さて、八瀬には古くから念仏堂があり、地域の人々の集いの場となってきましたが、平成四年(1992)に老朽化により取り壊されました。念仏堂に祀られていた十体の仏像には、木造十一面観音(平安時代中期 重文指定)、木造天部形立像(京都指定文化財)、木造毘沙門天立像(京都市登録文化財)、木造薬師如来像(京都市登録文化財)等の文化財クラスも含まれ、元々は延暦寺伝来のものと考えられます。文化財指定の仏像は、現在は京都国立博物館に寄託され、その他のものと位牌は、近くの妙伝寺に安置されています。

この天台宗寺院、妙伝寺(八瀬近衛町)は、八瀬童子の菩提寺で八瀬童子の仏事はすべてここで行われているということです。そして、元々念仏堂で行われていた念仏講も、現在は妙伝寺で行われているようです。毎月二十八日に行われる念仏講は、八瀬童子が歴史的に恩恵を被った人物を供養するもので、後醍醐天皇、明治天皇、照憲皇太后、大正天皇、貞明皇后、昭和天皇、近衛基熙、秋元喬知、近衛内前、近衛家久、近衛家熙、小堀邦直、板倉勝重、徳川家宣、岩倉具視、香川敬三、香淳皇后を供養しています・・・現在もこの地の歴史と伝統を守る八瀬童子らしい特徴ある行事といえます。



さて、ようやく八瀬天満宮についてです・・

京都バス「ふるさと前」のバス亭から数十メートル先にある朱の鳥居の潜ると、開けた田畑の中に砂利道の参道が山に向かって続いています。普段はほとんど参拝者もいないため、参道脇の畑で働いている人が、物珍しげに参拝者を眺めることも良くある光景です。
二の鳥居の傍には、弁慶が比叡山から運んだといわれる大石があり、「弁慶の背比べ石」と呼ばれています。この大石の原寸は、六尺三寸二分あったということです。この二の鳥居からは石段が続き、途中の下の境内には社務所があり、さらに石段を登ると末社に左右を囲まれた本殿が鎮座しています。

八瀬天満宮(京都市左京区八瀬秋元町)は、創建年代等不明な所が多く、社伝や「山州名勝志」等は、菅原道真の仏教の師だった比叡山の法性坊尊意阿闍梨が、道真の死後にこの地に天神を勧請したと伝えています。また、江戸時代までは天神社と呼ばれていました。
八瀬天満宮の境内は、比叡山への登り口「八瀬坂」の起点でもあり、境内には、道真が幼少期に勉学のため比叡山へ登る際、ここで休憩したと伝わる「菅公腰掛石」があります・・この道真の旧跡に天神を祀ったのか、天神信仰が道真の遺跡伝承を生み出したのかはともかく、その後、神社は地域の里人(八瀬童子)から産土神として信仰されました。

八瀬村の歴史史料集で、天保十一年(1840)成立の「後要用記録大帳」には、寛政元年(1789)頃の神社境内図が記載されていますが、それによると、本殿の梁行は一間半一尺五寸、桁行二間一尺五寸、縁高欄階段付きと記し、本殿の左右の幾つかの末社の他に、石段下右に、神仏混交時代らしく観音堂があったようです。前述した八瀬の念仏堂に祀られていた十一面観音像(現在は京都国立博物館寄託)は、元々は天神社(八瀬天満宮)の本地仏といわれていて、また、現在、妙伝寺に伝わる大般若経は、明治時代に同寺に伝わったもので、元々は天神社のものでした(経には応永八年(1401)八月の日付で、山城国八瀬宮御経と記されています。)


摂末社としては、本殿の右に八幡宮、幸神社、秋元神社、山王神社、十禅師社があり、本殿左には、若宮神社、六所神社、白井神社があります。また、社務所の傍にも一社があり、岩上神社・貴船神社・白髭社を合祀しています。また、本殿の左奥には、前述したように、道真が幼少期に勉学のため比叡山へ登る際、休憩したと伝わる「菅公腰掛石」があります。
また、境内の右端には、「後醍醐天皇御旧跡」と記した石標がありますが、これは建武三年(1336)正月、足利尊氏軍が京都へ侵入した際、その防戦に失敗した後醍醐天皇が、比叡山に逃れようと登った道=八瀬坂跡を示すものです。その他、後醍醐天皇遥拝所もあり、区民の誇りの木に選ばれている大杉の傍にも幾つかの石碑が点在しています。


さらに、天満宮の裏手、約二百メートル(二町)登った所に、御所谷(ごしょだに 愛宕郡八瀬村御所谷・・現八瀬秋元町)と呼ばれる場所があり、「御所谷碑」が建てられています。
元々、ここには天満宮の摂社の山王社(山王権現社)が祀られていましたが、足利軍から逃れた後醍醐天皇は、八瀬を経由しこの社の地で味方の集合を待ちました。そして、八瀬の村人(八瀬童子)は天皇の乗物を警護し、無事延暦寺に到着することが出来ました。この功績により、八瀬村は天皇から年貢免除の特権を与えられ、八瀬童子達は、この地を御所谷と呼んだということです。

その後、明治十一年(1878)、京都府は山王社を八瀬天満宮の境内に移転させましたが、八瀬童子達は、この移転によって建物が無くなった御所谷の地が荒れ、後醍醐天皇ゆかりの史跡が忘れられることを恐れ、この地に石碑を建てることを計画しました。こうして、明治二十六年(1893)、幕末明治の勤皇家で、京都府大参事等を歴任した宇田淵が碑文を表した「御所谷碑」が建立されました。
そして、現在も、毎年九月十六日には、八瀬童子による御所谷参拝が行われています。 これは、後醍醐天皇の命日(旧暦八月十六日)に御所谷に登って遥拝する儀式です。



さて、有名な八瀬赦免地踊(しゃめんじおどり)についてです。
毎年、十月第二日曜日には、天満宮社の例祭、秋元祭(あきもとさい)が行われます・・より正確には、天満宮社の境内社・秋元神社(本殿の右)の祭礼で、秋元神社の祭名としては燈篭祭になります。
秋元神社は、八瀬童子と延暦寺の山林境界争論に関与した老中秋元喬知(秋元大明神)を祀った神社で、赦免地踊はこの秋元神社の祭礼で奉納される民俗芸能です。別名、灯籠踊(とうろうおどり)ともいわれ京都市登録無形文化財に指定されています。

少し、秋元喬知を補足しておきます・・
秋元喬知(あきもとたかとも 1649〜1714)は、慶安二年(1649)、三河国田原藩藩主戸田忠昌の長男として誕生しました。母は甲斐谷村藩藩主秋元富朝の娘で、喬知は継嗣のいなかった秋元家の養子となります。そして、明暦三年(1657)に秋元富朝が死去すると、九歳で外祖父の跡を継いで秋元家一万八千石を領し、間もなく従五位下但馬守に叙任されます。その後、寺社奉行や若年寄を歴任して加増を受け、元禄十二年(1699)に老中となり、宝永七年(1707)まで務めました。宝永元年(1704)に川越藩五万石となり、正徳四年(1714)、六十六歳で死去しました。喬知は、学問に秀でた聡明な人物で、礼儀を重んじて公正な判断をしたと伝えられます。


さて、前回に書きましたが、八瀬童子と延暦寺の山林境界争論は、宝永七年(1710)七月に、幕府の配慮によって、従来からの禁裏御料を除く全ての賦役年貢が免除されるという結果となりました。これを喜んだ八瀬童子が賦役年貢の免除を記念して始めたのが赦免地踊といわれています。

境界争論が八瀬童子に有利な決着となった背景には、将軍徳川綱吉の死去によって幕府内の権力闘争で、新将軍家宣派が勝利したことや、家宣の妻の実家でもある近衛家がこの問題を新将軍に取り次ぎ働きかけた事がありました。大体、将軍や幕府内重臣とも関係が深い日光山輪王寺門跡で延暦寺座主を兼任する公弁法親王(こうべんほっしんのう)のような宗教界の実力者に対し、秋元喬知のような一老中の力だけではどうしようもなく、まして、八瀬童子がいかに必死で訴えても敗北は最初から決まっていました。

ところが、将軍の代替わりが、論争を奇跡的に八瀬童子に有利な裁定へと導いたのでした。もちろん、八瀬童子は幕府内の問題など知らず、ただ、八瀬にまで来て村人の意見を聞いてくれた秋元喬知に篤く感謝しました。そして、八瀬村に有利な裁定をしてくれた偉人として崇敬し、裁定の後、江戸の秋元のもとへ礼に出向いています。そして、正徳四年(1714)秋元喬知が亡くなると、天満宮の境内に秋元神社を建立し、その遺徳をいつまでも忘れないために喬知を神として祀ったのでした。


赦免地踊については、前にブログに写真を掲載しましたが、人や動物等の精巧な図柄を燈篭に貼り付けた切子灯籠(きりことうろう)を頭にのせた女装の男子(灯籠着=とろぎ 中学生)八人とその警護役、美しい化粧した花笠姿の女子の踊り子(小学校六年生が中心)十人程度、新発意二人、太鼓打ち一名、太鼓持ち二名、音頭取りの一段が、夜に行列を組んで天満宮社まで伊勢音頭を囃しながら集合して、秋元神社に向かいます。

神社の石段にかかると音頭取りが「道歌」を歌い、境内に到着すると女装の男子(灯籠着)が踊ります。そして、仮屋の舞台では、踊り子達が「潮汲踊」「狩場踊」といった幾つかの踊りを披露し、その合間には色々な演目が行われます。この室町時代の風流踊りの流れを汲む八瀬の里の伝統行事は、京都でも最も幻想的で美しい夜祭といえるでしょう。

八瀬童子による赦免地踊の披露は過去に何度かありましたが、近年では、平成十六年(2004)八月、天皇皇后両陛下の京都行幸の際に、京都御所の前庭で八瀬童子が赦免地踊りを行っています。そして、この夜の三日月の光のもと、御所の前庭で披露された赦免地踊をご覧になった美智子皇后陛下は、「大君の御幸祝ふと八瀬童子 踊りくれたり月若き夜に。」という歌を詠まれました。そして、平成十七年(2005)九月に境内の一の鳥居傍に、この美智子皇后の歌碑が建てられました。


最後に、前述した赦免地踊や御所谷参拝といった八瀬童子特有の行事の他に、八瀬天満宮の年中行事としては、初詣(元旦)、御弓始め(一月二十日)、朔幣式(灌縄式 二月二日)、初湯式(湯立て神事 二月二十五日)、春の彼岸神饌献進式(春分の日)、御屋根掃除(仮屋への遷座式 四月中旬)、 例祭(五月四〜六日 宵宮祭(四日)、本祭(五日)では、二基の神輿が御旅所へ渡御)、秋の彼岸神饌献進の式(秋分の日)、八瀬の南北端の三社への参拝(聖社(長谷出町北端の山中)・妙見社(妙見町中部山中)・住吉社(妙見町北部高野川沿い) 十一月十日)、御火焚祭(十一月十一日)、御影渡(十二月三十一日)等があります。

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八瀬天満宮その1

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今回は、左京区八瀬地域のシンボル的な神社、八瀬天満宮神社を採り上げます。

比叡山の西麓で大原の南に位置する八瀬は、「かま風呂」や、八瀬天満宮の境内社・秋元神社の秋の祭礼行事「赦免地踊(しゃめんじおどり)等で知られますが、観光ガイドでは大原への通過点として小さく扱われている地域です。確かに、「八瀬童子」の謎めいた伝承等が伝わる八瀬の里の魅力は、普通の観光名所廻りではわからないと思われます。しかし、少し地域の歴史を調べてみると、一見普通の山里でしかない八瀬の里が、地域の伝承を大切に守り続けている魅力ある場所だと気付かされます。
(以下、「八瀬童子 歴史と文化(宇野日出生著 思文閣出版)」参照・・・尚、この本は、信憑性の無い資料や想像に頼って書かれてきた多くの八瀬童子関係本の中で、八瀬に伝来する古文書と現地のフィールドワーク調査をもとした八瀬童子研究の良書です)



さて、左京区「八瀬(やせ)」は古くは山城国愛宕郡(おたぎぐん)小野郷に属して、八瀬荘と呼ばれ、京都から若狭へ向かう重要な幹線道路だった若狭街道(鯖街道)沿いに発展した山間集落でした。

「八瀬」という地名は、「山州名勝志」等によると、「矢背」とも記され、壬申の乱の際に、大海人皇子(天武天皇)が背に矢を受けて負傷し、この地の里人が「かま風呂」でその傷を治したという伝説に由来するとされますが、実際は、地域を縦断する高野川(流域名として八瀬川)がこの地域で急流となり、多くの瀬を作っていたことから八瀬の名が生まれたと考えられています(小字として「七瀬」「余瀬(四の瀬)」「美濃瀬(三の瀬)」等の地域名が残されています)また、八瀬の住民は、古くから「八瀬童子」と呼ばれましたが、平安時代以来、隣接する比叡山延暦寺と深い関係を持ってきました。(尚、童子とは、元々寺院内の実務労働を担った階層の人々を意味します・・・以下、八瀬村の人々については、「八瀬童子」の呼称で統一して書いてみます。 )


平安時代には、八瀬荘は、延暦寺東塔南谷にあった青蓮坊(天台宗三門跡の青蓮院の前身)の所領で、八瀬童子は山門に仕え、高僧の登山の道案内や警護を担い、他の雑役を特別に免除されてきたようです。
また、正徳六年(1716)成立の「八瀬記」は、源平の戦いの際に、御所の北東(丑寅)を警備して、弓矢の所持を認められたという伝承を記し、南北朝時代の建武三年(1336)正月、後醍醐天皇が攻め寄せた足利尊氏軍から逃れて、二万余騎の軍勢を従えて八瀬坂から比叡山に登った際には、八瀬童子が弓矢を持って天皇を守護したことを伝えています。

そして、後醍醐天皇はこの八瀬童子の功に報いるために、建武三年(1336)正月二十四日に、年貢以下公事課益の免除を認める綸旨を与えました。この絶大な重みのある天皇の綸旨こそ、現在まで八瀬童子を特別な存在としてきた源泉といえます。また、(後醍醐天皇からかどうかは不確実なようですが)、名誉ある称号として国名(くにな)を授与されたといわれ、この皇室との繋がりから、八瀬の住民は、現在まで後醍醐天皇及び歴代皇室への感謝と崇敬の念を持ち続けることになりました。

資料的にも、後醍醐天皇以降、明応元年(1492)の後土御門天皇、永正六年(1509)の後柏原天皇、そして、慶長八年(1603)の後陽成天皇から明治天皇に至る歴代天皇(名正天皇を除く)の諸益免除の特権を認める綸旨が現存し、また、武家政権下でも、織田信長が朱印状で八瀬童子の特権を追認しています。また、江戸時代の板倉勝重以下の歴代京都所司代下知状からも、八瀬童子が古来山門や皇室との深い関係を持ってきたことに配慮して特権を認めていることが確認できます。




さて、古来、八瀬では年寄り衆を中心とした合議制により厳格な村落自治組織を維持してきました。近隣との争いとしては、室町時代には北の大原村と、また、室町〜江戸初期には、山林をめぐって南の高野村と長期にわたる論争があったことが記録にあるようです。そして、江戸時代、八瀬童子にとって最大の事件が、比叡山延暦寺との争論でした。

宝永五年(1708)延暦寺は比叡山の領域を改変し、その結果、八瀬童子の自由な入山往来が制限されることになりました。当時の延暦寺座主は、後西天皇の皇子にあたる公弁法親王(こうべんほっしんのう)でした。法親王は日光山輪王寺門跡で、延暦寺の座主を兼任する仏教会の実力者で、時の将軍徳川綱吉に延暦寺の境界の改めを願い出たのです。
元々、比叡山裾の八瀬は、耕地面積が少なく、比叡山での柴薪の伐採に依存した生活を送っていたため、立ち入り禁止区域の拡大は、八瀬童子の生存権が脅かす事態ということになります。


八瀬童子は幕府に訴えることを決意し、宝永六年(1709)正月に京都町奉行に訴えますがその場で却下されます。そこで、四月二十三日に、童子八人が江戸へ訴訟に向かい、寺社奉行本多忠晴に訴えますが、散々叱責されてしまいます。それでも、八瀬童子は諦めず、老中秋元但馬守喬知(あきやまたしまのかみたかとも)が七月四日に焼失した御所の復興のために京へ行くことを知り、五名(三名は江戸に残留)が道中の駕籠に付きまとって嘆願しました。秋元は八瀬にも立ち寄って八瀬童子の出迎えを受けました。

秋元は、童子達に付きまとうのを止めさせ、江戸屋敷に文章を持参するようにと指示しました。そこで、八月四日、八瀬童子は江戸へ下りますが、秋元の屋敷には三度目でようやく入ることが出来る有様で、さらに、秋元の指示は、京都西町奉行の中根正包が江戸に来ているのでそちらに願い出るようにというものでした。そこで、その中根に、童子達は十二、三回も願い出ますが無視されます。翌七年(1710)四月、秋元は、京都所司代松平信庸が江戸に来るので、願い出るように童子に指示します。しかし、その松平にも、十三回にわたって嘆願しても無視され、勘定奉行萩原重秀への嘆願も徒労になりました。

こうして、一年以上の江戸での嘆願運動も効果なく、その間、八瀬村に残った者達は、一丸となって留守宅の家業を助け、仕送りを準備して頑張って耐えていました。(騒動解決まで合計二十一人が江戸との往来をしたということです。)


しかし、時代の変化が八瀬童子を救うことになります・・・
一つは、前年の宝永六年(1709)正月に将軍徳川綱吉が死去し、名君と呼ばれた六代将軍家宣が就任したことでした。家宣は前時代の悪評の高い諸政策を改善しようと努めていました。もう一つは、前関白太政大臣近衛基熙(このえもとひろ)が八瀬童子達の抱える問題に気付いたことでした。近衛家は禁裏御料を管理していて、八瀬には以前から禁裏御料六十三石が存在したため近衛家が管理していました。さらに、近衛家は八瀬の薪炭類を納品させ、かまぶろ愛用等の伝承もあるように、八瀬童子との関係は古くからあったようです。そして、新将軍家宣の妻は、近衛基熙の娘、照姫という関係にありました。

こうして、宝永七年(1710)七月、近衛基熙は江戸へ下り、この一件について幕府に働きかけました。そして、近衛基熙や将軍の側近新井白石の働きかけにより、宝永七年(1710)七月十二日に、幕府の裁許状が出されました。

内容は、八瀬童子が所持している歴代天皇の綸旨には、賦役免除については記されているが、山門(比叡山)境内に立ち入ることは許されていない。しかし、過去の経過を鑑みて、特別措置として、八瀬村にある私領、寺領を他所に移し、八瀬は幕府代官の支配地とし、年貢諸役一切を免除するというものでした。(尚、この時、将軍家宣は、漢文体の草案を将軍自らが筆を取って、八瀬童子が読みやすいように読み下し分に改めるという配慮をしています。)
こうして、八瀬村は、村高二百七十余石の内、従来からの禁裏御料六十三石以外の全ての年貢や賦役一切を免除されるという極めて特異な赦免地の村になりました。(尚、幕府直轄領となった当時の京都代官は小堀邦直でした。)八瀬童子は非常に喜びました・・そしてこの賦役年貢免除を記念して始まったが赦免地踊(しゃめんじおどり)になります(次回に書いてみます)




さて、明治時代になると、明治政府は全国民に納税を義務付け、八瀬村にも大きな転機が訪れます。早速、明治四年(1871)、京都府はこれまでの年貢諸役免除の歴史を承知しながらも八瀬村に租税上納を命じました。しかし、調査の結果、千二百八十五円の御下賜金を与えられたことから、八瀬村では、この現金を積み立てて、その利子運用益で年四百十七円の租税上納を捻出しようと考えます。しかし、一時金を基にした策のため何時まで続けられるかという不安がありました。

ここでまたも幸運が訪れます・・
明治十六年(1883)六月 右大臣公爵岩倉具視が宮内小輔香川敬三を従えて京都に来た際、八瀬童子と皇室との関係を調査しました。同年七月、岩倉は死去ましたが、岩倉の遺志を継いだ香川は十月に再び京都に来ました。
そして、八瀬村戸長を呼びつけて、歴史的な八瀬村の租税免除の次第を聞き、政府からの手当金(下賜金と利益金を加え二千円)と八瀬童子の地券(二百十二枚)を宮内省に提出することを提案し、代わりに、地租金全額を毎年下賜され、それを毎年京都府へ上納するという方策を指示したのでした。これは事実上、八瀬村が税の免除という特権を再び手に入れたことになります。

また、同時に、香川は八瀬童子が輿丁(主に皇居内の移動の際、輿を担ぐ仕事)として皇居に出仕する制度も考え出したようで、八瀬童子は、税金免除に加え、皇室への奉仕として輿丁を勤めることで、宮内省の職員として現金収入を得る道も保証されることになりました。(尚、明治には八瀬の女性も、掃除雑用を行う側近衆として皇后や皇太后に仕えています)

翌明治十七年(1884)一月、京都府知事北垣国道の認可が出て、八瀬童子は太平洋戦争の終結まで、租税免除が保証されました。恩恵を受けた八瀬童子は、資金の有効活用を図って八瀬村特別積立会を設立(昭和三年(1728)に八瀬童子会へ移行)、皇室への崇敬の念を確認し、伝来の古文書の保存等に努める等、皇室との特別な関係のある八瀬の文化と伝統の維持を図って今日に至ります。


こうして、八瀬童子は輿丁として、安政三年(1856)七月の新待賢門院(孝明天皇の母 正親町雅子)、明治十四年(1881)十月の桂宮淑子内親王(孝明天皇の異母妹)、明治二十四年(1891)十一月の久邇宮朝彦親王(中川宮)の各葬祭、明治三十年(1897)二月の英照皇太后の大葬、明治四十二年(1909)十二月の賀陽宮邦憲王(久邇宮朝彦親王王子)の葬祭、明治四十五年(1912)九月の明治天皇の大葬、昭和二年(1927)二月の大正天皇の大葬に奉仕し、当時、大葬や大礼の際に輦を担ぐ人として、八瀬童子はたいへん有名な存在でした。

しかし、大戦後の昭和六十四年(1989)一月の昭和天皇の大葬の際は、駕輿丁は皇宮警察が務め、八瀬童子は参列奉仕等各人の役割で参加することになりました。その後、平成二年(1990)の今上天皇の即位関連儀式や平成十二年(2000)の香淳皇后の大葬等にも八瀬童子が参加しているように、八瀬童子は、皇室がある限り今後も皇室への奉仕を続けていくと思われます。



次回に続きます・・・

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前回の続きです・・・


さて、有栖館は、敷地面積が約二千百五十平方メートル(約六百五十坪)、建物部分は約三百九十二平方メートル(約百十九坪)で、構造は木造瓦葺き平屋建てになります。旧宮邸、表門(青天門)、長屋門など幕末から大正にかけての公家屋敷や高級官僚官舎の様相を今に伝えています。

邸宅は、書院造りの屋敷で、中庭を囲む「玄関棟」「住居棟」「客間棟」の三つの棟で構成されています。客間棟の西側には、床の間と付書院を備えた二畳の「上段の間」のある十二畳半の座敷があり、この間の隣には、床下に音響効果を上げるために大きな甕を埋め、「能舞台」としても使用出来る十五畳の板張りの間が続いています。

烏丸通に面した表門は、銅板と真鍮板で葺かれた豪壮な趣を持つ平唐門です。
三井一族の総長三井高保が、明治四十五年〜大正元年(1912)に邸宅の表門として新築したもので、その後、別の場所に移築したものを京都地方裁判所が購入し、昭和二十七年(1952)に、京都地方裁判所長官舎表門として現在地に移築したものです。また、同年仲秋の名月の夜、当時の裁判所所長石田寿と親交のあった歌人吉井勇が、李白の詩から字をとって「青天門」と命名したといわれていて、左右の塀と共に大正時代の門建築の作例として高い価値を持っているとされます。(門札は、今年三月二十九日、青天門門札掲揚式で掲げられた、裏千家千玄室大宗匠の筆によるものです。)

また、下立売通沿いの白い漆喰塗りの長屋門は、向かって右手に居住の出来る部屋、左手に納屋等に利用されていたと思われる部屋を抱えています。長屋門の築年月は不明ですが、長屋門形式としては最上級の構えで、築地塀と共に所長官舎屋敷の外見を構成する要素として不可欠な建築といわれているということです。

さらに、邸内にある二本の大きな枝垂桜は、まるで一本の木のように広がった枝振りを見せ、塀を越えて烏丸通に大きく張り出しています。この枝垂桜は、昭和二十七年(1952)三月、日本画家・堂本印象の発案により、醍醐寺三宝院内にあった実生(みしょう)の桜を、当時の三宝院門跡・岡田戒玉の快諾を得て移植したもので、太閤秀吉が「醍醐の宴」を催した当時の桜の孫にあたるといわれています。


さて、庭園は、平成二十一年(2009)、造園業「植治」十一代目小川治兵衞氏が「平成の植治の庭」として作庭したものです。
小川治兵衞氏の有栖川庭園作庭記というパンフレットによると、作庭前の玄関前庭は、ロータリーの中央島は小山のような樹木で覆われ石灯篭や大岩も見えない状態で、砂利が敷かれたロータリー部分は芝生や雑草が繁茂する平野地状態だったということです。

元々、かつては、馬や馬車で出入りする場合は、長屋門から玄関に着いて、中央島・車馬回しを転回して長屋門西横の馬小屋に入っていました。また、一般には、客は正門(青天門)から出入りし、その場合は、客に直接車寄せ玄関が見えないように、中央島が目隠しの役割を果たしていました。
そこで、今回の作庭では、中央島に客土を行い、埋まっていた縁石を上げ石を補足し、また、繁茂していた木々を移植し、代わりにサツキや這柏槙、黒松を植栽しました。さらに、青天門の南側の楓島、北側の桜島に各々一株を植栽して客土と土地改良を行い、青天門を中心に左右対称となるようにサツキとツツジを植栽し、砂利部分の雑草を取り除き洗砂利を全体に撒きました。
全体として、新しい時代を先取りした有栖川家の玄関に相応しいように、明治という時代の偉人達の度量や公家の品格と空間をイメージして作庭したということです。また、青天門の両側の桜と楓の丘には、治兵衞氏自身が「立ち話ではなんですさかい」と命名した、かつては石橋だったベンチ代わりの景石が据えられました。


書院庭は、高床の縁側で横幅が広く奥行きが狭い平面庭のために、奥の土塀や見え隠れする外の建物が視界に入ってしまうので、出来るだけ目線を手前の庭でどこまで留められるかが作庭における主要なポイントになったようです。
元の庭は雑草で覆われていましたが、作庭された当時の公家の暮らしぶりが理解出来る庭で、配置されていた石類はどれも自然石ではなく加工された切石や廃材を苦心して再利用したものでした。材料不足から中途半端に終わっている個所が多かったようですが、大振りの飛び石が豪胆に配置されているなど、幕末から明治維新にかけての力強い歩みが感じられるものだったということです。

そこで、まず、庭の半分以上を独占していた萩を撤去移植し、庭全体の地面の高さを客土して二十五〜三十センチ上げ、以前から配置されていた石や飛び石はそのまま上に上げて配置し直しました。また、滝や振り蹲踞の未完成の部分を出来るだけ当時の手法で補足しました。以前から植栽されていた紫蘭、春蘭、藪蘭、熨斗目蘭、クチナシ、姫クチナシ、サツキ、流水を表す白川砂、キリシマ等を補植し、また、建物と庭の一体化として袖垣を東西に新たに設け、縁使いの蹲踞と振り蹲踞に水道を配管して水の流れを造り実際に使えるようにし、全体として明るく優しい庭園として生まれ変わったようです。

また、中庭には、昨年平安女学院が源氏物語千年紀として育てたフジバカマを十株玄関庭からこの中庭で育てるために、中庭に花壇庭を造りました。東征大総督として江戸城を無血開城させた、いわば日本における最後の武将ともいうべき有栖川熾仁親王をイメージして、桃の節句に因んでシダレモモ(垂桃)を中央に植樹し、また殿上人の花壇というところから、雲の上の人にかけて雲型壇を造ったということです。

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京都御苑の下立売御門の西、京都市上京区烏丸通下立売西入ル五町目町には、南側の平安女学院京都キャンパスと通りを挟んで古い公家屋敷の風情が残る建物があります・・これが平安女学院の教育施設「有栖館(ありすかん)」です。

この「有栖館(ありすかん)」は、江戸時代に京都御所の建礼門前に建てられていた有栖川宮邸の建物を母体としています。明治維新の後、有栖川宮旧邸は、明治六年(1873)から一時、京都裁判所の仮庁舎として使用された後、明治二十四年(1891)三月に現在地に移築され、平成十九年(2007)まで京都地方裁判所所長官舎として使用されていました。そして、平成二十年(2008)八月、隣接する平安女学院が大学の教育施設として所得して庭園等を整備し、今年(平成二十一年)の春から期間限定で特別公開されるようになりました。(今回は秋十一月一日〜八日の特別公開)

(尚、平安女学院といえば、赤レンガの聖アグネス教会(明治三十一年(1898)に、アメリカ人建築家ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーの設計によって建造された明治時代の教会で、京都市指定有形文化財に指定されています)も有名です・・数年前にブログパート1で京都御苑周辺の建物として少し写真を掲載した記憶があります)


さて、有栖川宮家は、寛永二年(1625)十月、第百七代・後陽成天皇の第七皇子・好仁親王(よしひとしんのう 1603〜38)によって創設されました。
当初は親王の祖母になる新上東門院の御所高松殿に由来して、高松宮と称しました。高松宮好仁親王には嗣子が無かったため、甥の良仁親王(ながひとしんのう 後水尾天皇の皇子で、後の後西天皇)に娘の明子女王を嫁がせて養嗣子とします。寛永十五年(1638)、好仁親王は三十六歳で薨去し、高松宮第二代を継承した良仁親王は、花町宮(はなまちのみや)と号しましたが、兄の第百十一代・後光明天皇が二十二歳で崩御すると、良仁親王は、同帝の養子になっていた弟の識仁親王(後の霊元天皇)が生後間もないことから、承応三年(1654)、識仁親王が成長し即位するまでの中継ぎとして即位します。(後西天皇)

そのため、寛文七年(1667)、天皇は自分の皇子・幸仁親王(ゆきひとしんのう 1656〜1699)に高松宮を継がせました。幸仁親王は寛文十二年(1672)に有栖川宮に改称し、元禄十二年(1699)薨去します。その後、王子の正仁親王(ただひとしんのう 1694〜1716)が有栖川宮を継承しますが、享保元年(1716)に嗣子の無いまま二十歳で早世し、霊元天皇第十七皇子の職仁親王(よりひとしんのう 1713〜1769)が有栖川宮を継承しました。以後、第六代・織仁親王(おりひとしんのう 七代・韶仁親王(つなひとしんのう 1785〜1845)、八代・幟仁親王(たかひとしんのう、1812〜86)と継承されます。


さて、有栖川宮家といえば、幕末から明治時代にかけて九代・熾仁親王(たるひとしんのう 1835〜95)や十代・威仁親王(たけひとしんのう 1862〜1913)が歴史の表舞台で活躍したことで知られます。特に、九代・熾仁親王は、明治新政府の総裁、東征大総督として江戸を無血開城させ、和宮の元婚約者でもあったことでも有名です。

熾仁親王は、天保六年(1835)二月に、第八代幟仁親王の第一王子として誕生し、幼名を歓宮(よしのみや)といいました。
嘉永二年(1849)二月に、四歳年上の第百二十一代・孝明天皇より、熾仁(たるひと)の名(諱)を賜って親王宣下を受けました。親王は、嘉永四年(1851)、十七歳の時、孝明天皇の命で、皇妹・和宮親子内親王(十一歳)と婚約しますが、万延元年(1860)、幕府と朝廷の関係強化を図る公武合体政策を進める幕府大老・井伊直弼が、朝廷に関白・九条尚忠を通じて和宮の将軍家降嫁を願い出ます。当初、孝明天皇は和宮が関東に行くのを嫌っている、また既に有栖川宮家と婚約していること等を理由に却下しますが、幕府はその後も重ねて奏請します。
悩んだ孝明天皇は、侍従・岩倉具視の意見を採り上げ、攘夷を実行することを条件に、和宮降嫁を認めるという勅書を出し、幕府がこれを受け入れたことから、和宮は十四代将軍・徳川家茂と結婚することになりました。そして、同年八月、九条関白が有栖川宮邸で父・幟仁親王と面談し、婚約の猶予(婚約辞退)が決定されました。こうして、兄帝に説得された和宮は、文久元年(1861)十月に江戸へ向かって出立しました。

さて、尊攘論者の熾仁親王は、この頃から、朝廷における親長州派の中心人物となっていきます。特に、八月十八日の政変の前後から、親王は、宮家家臣を通じて長州藩士達と度々接触して関係強化を図り、元治元年(1864)五月には、熾仁親王は父・幟仁親王と共に国事御用掛に任命されて朝政に参画しました。しかし、過激な尊王攘夷論を主張する親王は、公武合体派の中川宮朝彦親王らと対立し、幕府との融和を図る孝明天皇からも警戒されていきます。そして、文久三年(1863)の八月十八日の政変によって、尊攘派公家や長州藩が京都を追われ、禁門の変で長州軍が敗退すると、親長州派の熾仁親王も父・幟仁親王と共に国事御用掛を解任され謹慎・蟄居を命じられました。

その後、慶応三年(1867)に、明治天皇が即位すると、幟仁・熾仁親王父子は許されて謹慎を解かれました。また、この年、熾仁親王は徳川貞子(徳川斉昭十一女、慶喜の妹)と婚約しています。親王は、王政復古のクーデターにより新政府が樹立されると、最高職の総裁に就任じられ、慶応四年(1868)の幕府軍との開戦後は、討伐軍の総司令官である東征大総督となる事を自ら願い出て勅許を得ます。

西郷隆盛等を従えた親王率いる新政府軍は、東海道を幕府軍の抵抗を受けることなく進軍して、四月十一日に江戸の無血開城に成功しました。また、この進軍の際、長州藩の品川弥二郎の作詞、大村益次郎の作曲の日本初の軍歌といわれる「宮さん宮さん(トコトンヤレ節)」が歌われたことは有名です。「宮さん(=有栖川宮熾仁親王)宮さん、お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ・・・ (以下略)」

その後、熾仁親王は、明治三年(1870)に兵部卿に就任、この年、徳川貞子と結婚します。翌四年(1871)に福岡藩知事に就任しますが、明治五年(1872)福岡赴任中に、貞子が二十三歳で病死し、親王は明治六年(1873)、旧越後新発田藩主溝口家養女・薫子と再婚します。
明治九年(1876)に元老院議長に就任し、明治十年(1877)の西南戦争では征討総督として反乱を鎮圧し、その功によって西郷隆盛に次ぐ史上二人目の陸軍大将に任命されました。その後も皇族内野の重鎮として崇敬されて、各国を歴訪するなどし、明治二十七年(1894)の日清戦争の際には、陸海軍の総司令官に就任します。しかし、腸チフスを発病し、兵庫県神戸市垂水区の有栖川宮舞子別邸で静養し、明治二十九年(1896)一月十五日に六十一歳で薨去し、国葬が行われました。


その後、栖川宮家を継承したのは、異母弟にあたる威仁親王(たけひとしんのう、1862〜1913)です。威仁親王は、文久二年(1862)に、宮家八代・幟仁親王の第四王子として誕生し、幼名は稠宮(さわのみや) といいました。十二歳の時、明治天皇から海軍軍人となるように命じられ、明治七年(1874)に海軍兵学寮予科に入学します。明治九年(1876)に加賀前田家の前田慰子と婚約します。

兄の熾仁親王には未だ継嗣が無く、明治十一年(1878)、熾仁親王は、十六歳の稠宮(威仁親王)を養子として有栖川宮家の後継者にすることを明治天皇に願い出ます。こうして、同年八月、稠宮は威仁の名(諱)を賜って親王宣下を受け、兄熾仁親王と親子の儀式を取り交わしています。海軍士官の道を歩んだ親王は、明治十三年(1880)に少尉に任ぜられ、前田慰子と結婚しました。その後、明治十三年(1880)からイギリスのグリニッジ海軍大学校に三年間留学して明治十六年(1883)に帰国し、その後大佐に昇進。明治二十八年(1895)に、兄・熾仁親王の薨去によって有栖川宮家を継承します。明治三十七年には海軍大将に進級しますが、明治四十一年(1908)、父に倣って海軍軍人を目指していた長男の栽仁王(たねひとおう)が、二十歳で病死した衝撃もあって体調を崩し、その後は、兵庫県神戸市垂水区の宮家の舞子別邸で静養に入り、大正二年(1913)七月、五十二歳で薨去し、元帥府に列せられました。

威仁親王には、生後間もなく早世した績子女王(いさこじょうおう)、二十歳で独身のまま亡くなった栽仁王(たねひとおう)の他に、実枝子女王(みえこじょうおう 徳川実枝子)がありましたが、男系の後継者が絶えたことにより、有栖川宮家は皇室典範の定めによって断絶が確定しました。そして、大正十二年(1923)二月に熾仁親王妃董子、同年六月に威仁親王妃慰子が相次いで薨去したことにより、有栖川宮家は正式に絶家となりました。

尚、威仁親王の次女・実枝子女王は、明治四十一年(1908)公爵・徳川慶久(十五代将軍徳川慶喜の七男)に降嫁し、高松宮宣仁親王妃となった喜久子や徳川慶光らを産んでいます。そして、その後の有栖川宮家の祭祀は、喜久子が嫁いだ大正天皇の第三皇子・光宮宣仁親王に継承され、宣仁親王は有栖川宮の旧称である高松宮の宮号が与えられました。



さて、初代好仁親王の時代以降、有栖川宮家の邸宅は、現在の京都御所の北東、猿ヶ辻付近に位置していましたが、幟仁・熾仁親王父子が蟄居を命じられていた慶応元年(1865)に、御所の拡張用地として召し上げられ、代わりに、京都御所の建礼門前、御苑の中央近い地(現在、この地には「有栖川宮邸跡」の碑があります・・ブログパート1の京都御苑を参照)に移りました。

その後、明治五年(1872)に、幟仁親王が東京へ移ることになったため、宮家邸宅の土地家屋は京都府に引き渡され、明治六年(1873)から一時、京都裁判所の仮庁舎として使用された後、明治二十四年(1891)三月に民有地だった現在地を買い上げて移築され、平成十九年(2007)まで京都地方裁判所の一部、所長官舎として使用されました。そして、宿舎が移転したことに伴って、平成二十年(2008)八月、隣接する平安女学院が大学の教育施設として所得しました。
平安女学院では、今年(2009)から、茶道、華道、香道、着付けの授業や市民講座の開催、観光センターの設置など国際観光学部としての取り組みとともに、他の学術・文化分野を代表する機関や組織と連携しながら、広く学生・市民を対象とした京都文化と日本の伝統文化の研究・教育・情報発信を行う拠点として活用していくということです。

次回に続きます・・・


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