京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

十輪寺

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

イメージ 26

イメージ 27

イメージ 28

西京区大原野小塩町にある十輪寺(じゅうりんじ)は、平安時代の六歌仙の一人で、「伊勢物語」の主人公としても知られる在原業平(ありわらのなりひら)が晩年に隠棲した地と伝えられることから、通称「業平寺(なりひらでら)」と呼ばれる観光寺院です。

しかし、阪急バスの小塩停留所の直ぐ前に位置するというアクセスの良さにもかかわらず、意外と訪れる人は少ない気がします。その理由としては、人気の善峯寺が西(約1.5キロ先)にあるために、ほとんどの観光客が十輪寺の前を素通りしてしまうことにあるようです。
また、十輪寺と善峯寺と合わせて訪問したい時も、どちらを先に訪問すべきか悩む人もいるようです。自動車の場合は、両寺共に駐車場があるために問題は無いのですが、路線バスの場合は、本数が少ないこともあって、先に終点の善峯寺に行く方が良いと感じます。そして、バスの本数が少ないので、善峯寺の後は歩いて十輪寺に行くのも良いと思います。
善峯寺からなだらかな坂道(京都府道二〇八号向日善峰線)を徒歩で十輪寺へと下るのは比較的楽ですが、十輪寺から善峯寺へと登るのは坂がなだらかに見える割に足にきます。
十輪寺を後にすると、最後は十輪寺前から、路線バスに乗ることが出来ます・・但し、秋の観光シーズンは、善峯寺の観光客で路線バスは満員状態です。しかし、一人や二人は押し込んで乗ることができるでしょう。本数が少ないので、置いていかれることは少ないと思われます。




さて、十輪寺は、山号を小塩山(おしおやま)という天台宗寺院で、本尊は伝教大師最澄作と伝わる木造延命地蔵菩薩座像です。
寺伝によると、平安時代初期の嘉祥三年(850)、第五十五代・文徳天皇が女御染殿后((そめどののきさき 藤原明子=ふじわらのめいし ふじわらのあきらけいこ)の安産祈願のために、比叡山延暦寺の恵亮(えりょう)和尚を開山に請じて創建し、伝教大師最澄作の延命地蔵菩薩像を安置したことに始まるとされます。そして、その結果、無事に皇子惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、後文徳天皇の勅願所となったということです。
その後は、藤原北家(花山院家)の帰依を受け、花山院家一統の菩提寺となり栄えましたが、応仁の乱の兵火によって堂宇は焼失し、江戸時代の寛文年間(1661〜73)に、左大臣藤原定好(ふじわらのさだよし 花山院定好 1599〜1673)によって再興され、三代後の右大臣藤原常雅(ふじわらのときまさ・つねまさ 花山院常雅 1700〜1771)によって堂宇が整備され現在に至ります。


創建当時の本堂は、応仁の乱によって焼失し、現在の本堂は江戸時代の寛延三年(1750)に再建されたものです。
寺の掲示板によると、この本堂は、密教本堂、神社拝殿、禅宗仏堂の三つの様式を混交した珍しい建物で、屋根は鳳輦形(ほうれんがた)という神輿(みこし)を模った珍しい形をしたもので、強い起り(むくり)破風を施しています。内部・天井の彫刻も神社様式と寺院形式が混在した独特の意匠が施されていて、内部彫刻では、沓脱ぎの柱内部正面の丸柱は、鳥居を型どっていて、丸柱上部の獅子は「あ・うん」を舌で表した独特な表情で作られています。
また、正面、四隅、側廻、梁中央部には、木鼻のような獏(ばく)の姿が彫り廻らされていて、梁側面には蓮華様を浮き彫りしています。透かし彫りの絵様蟇股を含め細部のこれらの彫刻は全体的に微妙な連携を保っているということです。また基壇は亀腹(建物の脚部などを固めて饅頭型に造ったもの)、礎石は自然石です。
全体として建築様式の多様さと、珍奇さ、独創性において類を見ないとして、国指定文化財になっています。また、鐘楼は、寛文六年(1666)十月頃の建立で、同じく文化財指定です。(梵鐘「不迷梵鐘(まよわずのかね)」も同年作です)



本堂には、文徳天皇の女御染殿后の安産祈願に霊験があったと伝わる伝教大師最澄作の本尊・延命地蔵菩薩像(腹帯地蔵)や、花山法皇が西国巡礼の際に背負っていたと伝えられる十一面観音菩薩像(草分観音(くさわけかんのん)、禅衣観音(おいずるかんのん))を安置しています。

延命地蔵菩薩座像は、等身大の木造坐像で、その腹部に巻かれた腹帯で染殿后が安産したことから、「腹帯地蔵尊」と呼ばれ、現在も子授けや安産を願う人たちの信仰を集めています。(尚、この地蔵尊は秘仏で、毎年一回八月二十三日が開帳日です。)
また、「草分観音(くさわけかんのん)」と呼ばれる小さな十一面観音菩薩像は、花山法皇が西国三十三番札所を再興した際に、巡礼を通して背負っていた観音菩薩像を十輪寺に納めたとものといわれ、「禅衣観音(おいずるかんのん)」とも呼ばれています。この像は、西国三十三番霊場詣でに向かう者は、最初に詣でなければならない観音菩薩とされ、法皇の手形を模ったという木製御手判も保管されています。

その他寺宝として、菩薩面(年代不詳、明治初期に重要美術品に指定。京都国立博物館寄託)、スリランカ釈迦仏(幸福の釈迦)等があり、江戸時代に描かれた王朝風襖絵は、明治の廃仏毀釈によって失われましたが、大阪在住の黒田正夕(くろだしょうせき)画伯によって三十二面の豪華な襖絵が復元されています。その他、原在勤作の袋戸棚襖絵「業平と二条后の舞」、「小松曳き」等があります。

また、庭園は、寛廷三年(1750)、右大臣藤原常雅(花山院常雅)が本堂を再興した時に作庭されたもので、高廊下と茶室、業平御殿と名づけられた三つの建物に囲まれた庭園です。
庭園の中央には、樹齢約二百年と伝わる枝垂桜、通称「なりひら桜」があり、見る位置によって人に様々な想いを感じさせることから「三方普感の庭(さんぽうふかん)の庭」とも呼ばれています。



さて、十輪寺といえば、平安時代初期の歌人として知られる在原業平(825〜880)ゆかりの史跡として知られます。
業平は、第五十一代・平城天皇の第一皇子・阿保親王の五男で、古くから「伊勢物語」の主人公と同一視されてきました。「伊勢物語」では、主人公の男(業平)と、二条后(にじょうのきさき 藤原高子 ふじわらのたかこ)や伊勢斎宮の恬子内親王(やすいこないしんのう 文徳天皇皇女)との恋物語が描かれていて、在原業平といえば情熱的な生涯を送った男の典型として後世伝説的に語られることになりました。
業平は、晩年にこの十輪寺に隠棲して、塩焼きの風流を楽しんだとも伝えられていて、この地が「小塩」という地名なのは、この故事に由来しているということです。
そして、境内裏山には、在原業平の墓と伝えられる小さな宝篋印塔(業平塔)があります。(尚、左京区の吉田山にある竹中稲荷神社にも、業平の墓とされる業平塚があります)

また、境内奥の高台には、業平が難波(大阪)の海から潮水を運ばせて塩を焼き、その風情を楽しんだという塩窯の跡があります。
直径五メートル程の窪地の中に石積みの窯跡があり、周囲はしめ縄が張り巡らされていますが、業平はかつての恋人だった二条后が近くの藤原氏の氏神・大原野神社(京の春日大社)に参詣した時に、この地で塩を焼いて紫の煙を立ち上らせて昔日の恋を偲びあったといわれています。

塩竃の側にある「業平朝臣塩竃之由来」によると、中世以降に業平信仰が生まれ「陰陽の神、歌舞の神(謡曲杜若より)」として信仰されるようになったことから、塩竃を清めて煙を上げてそれに当って良縁成就、心願成就、芸事上達等を願うようになったということで、今も恋愛結婚成就のご利益があるということです。
この現在の塩竃跡は、地形は原型のままということですが、塩竃自体は故事に因んで数十年前に復元されたものです。また、飛地境内には汐汲池(潮溜池)があります。
さらに、十輪寺と在原業平に因んだ謡曲として「小塩」があります・・都の人々が大原野の小塩の辺りに花見に出かけて、一人の老翁に姿を変えた業平の霊に出会います。老翁は舞を舞ったり、歌を詠じて昔を懐かしんだりした後、夜明けと共に消え去っていくという話です。

十輪寺では、業平を偲んで、毎年、五月二十八日の業平忌(業平は、元慶四年(880)五月二十八日に、五十六歳で死去しました)、十一月二十三日の塩がま清祭(きよめさい)には、三味線に似た三弦を用いた三弦法要が行われます。


最後に、十輪寺の本堂の前には、樹令八百年という大樟樹(おおくのき)があり、本尊が樟で作られているために、その分身として祀られています。伝説によると、地蔵菩薩の神力で一夜にして大樟樹にならしめたというので「願かけ樟」とも呼ばれる神木です。また、その左には「なりひらもみじ」もあり、境内は紅葉隠れた名所でもあります。

三鈷寺

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

今回は、西京区大原野石作町、観光地として知られる善峯寺の北にある三鈷寺(さんこじ)を採り上げます。
前回の金蔵寺は、街中から遠い隠れ里のお寺といった雰囲気でしたが、今回の三鈷寺(さんこじ)は、観光地として知られる善峯寺のすぐ北にあるにもかかわらず、意外とその行き方がわからないという人が多い「隠れ寺」です。一応観光寺院ですが、訪れる人は少ないので、人の多い善峯寺に疲れた時は、すぐ近にあるこの眺望の良いお寺で寛いでも良いかもしれません・・二人だけの時間を過ごすのにも良い感じですね。(新しい広い客殿は、休憩所としても利用できます)


三鈷寺(さんこじ)を訪れる人は、そのほとんどが善峯寺のついでと思われるので、善峯寺から三鈷寺(さんこじ)に行く方法について少し書いてみます・・・主に三つの道があります。
一つは、善峯寺山下のバス停留所の手前約百メートル右手に「西山本山三鈷寺」の石標があり、側に「阿智坂明神社」という善峰の小さな鎮守社があるので、この目印のある坂から山道を登るという方法です。この「阿智坂」と呼ばれる坂道は、石が転がっている自然道に近いもので、距離は約四百メートル、十数分程度で寺に到着します。しかし、短い距離で一気に山上に駆け登る道なので、かなりの傾斜角度があります・・・山に登るという覚悟が必要です。その後、道は折れ曲がって石段へと続き、三鈷寺の東門(門は無いですが、こちらが正門ということです。)に至ります。(山道の参道付近の写真を掲載しておきます。)
車の場合は、善峯寺の山上にある駐車場の入り口のさらに上、対向車があれば離合できないような細道が三鈷寺に通じていて、タクシーではこの道を通って観光客を運ぶようです。

一番楽でお勧めなのは、善峯寺の北門を抜けることです。(この北門、善峯寺境内の幸福地蔵の辺りから、桜・あじさい園を挟んで遠望できます。善峯寺のパンフをお持ちの方は境内案内図をご覧下さい。)この門から二分程道路を歩けば、すぐ三鈷寺の西門(高麗門)に至ります。
(善峯寺の北門は無人の場合が多く、その場合一旦外に出ると、境内に戻ることは出来ない仕組みになっているので、善峯寺の境内を楽しんだ後で三鈷寺に寄った方が良いでしょう。また、帰りは先程書いたような急な山道を下るということになりますが、登りに比べると比較にならないほど楽です。)



さて、三鈷寺は、山号を西山(せいざん)、または華台山(けたいさん)という西山宗(せいざんしゅう)の総本山です。中世には西山往生院、往生院本山とも称されて栄え、天台宗、浄土宗西山派、さらに天台宗を経て、昭和二十六年(1951)に四宗(天台・真言・律・浄土)兼学の西山宗本山として独立しました。本尊は佛眼曼荼羅(ぶつげんまんだら)で、洛西三十三所観音霊の第五番、西山国師遺跡霊場第十二番札所でもあります。

三鈷寺は元々、善峯寺山内に建てられた草庵(御堂)に始まるために、その歴史は善峯寺と重なる部分が多いです。寺伝によると、平安時代中期の承保元年(1074 京都市の駒札では長久三年(1042)となっています)、善峯寺の開山として知られる比叡山横川の源算(げんさん)上人が、善峯寺山内の北尾と呼ばれる尾根に隠居所として草庵を建て、往生院(北尾往生院)と号したのが三鈷寺の創建と伝えられます。
尚、平安時代後期の善峯寺の境内は、南尾、中尾、北尾という三つ山の尾根に分かれ、現在の善峯寺の本堂(観音堂)付近に南尾法華院、現在の奥の院薬師堂のある中尾に蓮華寿院、北尾に往生院があったとされ、北尾往生院があったのは、現在の三鈷寺よりさらに山中でした。


その後、往生院(北尾往生院)は、善峯寺の二祖・観性法橋(かんせい・かんしょうほうきょう)を経て、三祖・慈鎮(じちん 慈円)和尚から、建保元年(1213)に法然上人門下の四祖・西山上人証空(しょうくう 善慧房・善慧国師)に譲られました。西山上人は、当時荒廃していた往生院を復興して、浄土宗西山派の不断如法念仏道場として発展させて独立し、背後の山の頂上髢嶽(かもしかだけ)の三峰の形が仏具の三鈷に似ているところから寺名を三鈷寺と改めて、後嵯峨天皇から宣旨を賜って勅願所に列せられました。また、安貞2年(1228)ニ月には、中納言中宮大夫・藤原実基から領地の山城鷄冠井荘内の地を、三鈷寺(善峯寺徃生院)の不断念仏供料に提供されています。
西山上人は、宝治元年(1247)十一月二十六日に白河遣迎院(京都市東山区)で七十一歳で入滅し、遺体は三鈷寺山内で火葬にされました。上人に深く帰依していた蓮生(れんしょう 宇都宮頼綱)は上人の墓所として三鈷寺山内に多宝塔を建て、観念三昧院華台廟と称しました。

尚、蓮生は、俗名を宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)といい、鎌倉幕府の有力御家人でしたが、元久ニ年(1205)に北条氏に謀反の嫌疑を受けて出家し、実信房蓮生と号しました。蓮生は歌人としても優れ、京都の小倉山麓の二尊院の側に山荘を構えて、藤原定家と親交を深めます。そして、蓮生が定家に、山荘の障子に貼るための色紙の執筆を依頼したことをきっかけに、「小倉百人一首」が生まれることになりました。この蓮生も、華台廟に西山上人と共に祀られています。


その後、三鈷寺は、中世を通じて念仏道場として西山上人証空の法流を伝え、多くの寺領荘園を有して栄えました。当時は嵐山の二尊院に至る広大な寺域を持っていたということですが、応仁の乱(1467)の兵火によって山内は荒廃して多宝塔以下の堂宇を失いました。また、天文二十一年(1552)十〜十一月には、細川晴元と三好長慶の抗争により西岡近辺が放火され、三鈷寺や善峯寺などが焼失しています。
その後、江戸時代には常念仏再興の綸旨を授かって新たに寺領を得て復興されましたが、かつて栄えたよう時代のような旧観には復さなかったようです。そして、昭和二十六年(1951)、第五十二代・台龍上人が現在の寺観を整備して、天台宗を改めて西山宗として独立し、平成十四年(2002)春に平成の大修理が完了して現在に至ります。



三鈷寺の境内ですが、現在は、建物としては華台廟、本堂を中心に、庫裏や客殿等があるのみですが、多くの由緒有る寺宝を所有しています。
華台廟と本堂は軒続きで並び、建物の奥に張り出した華台廟には彩色された西山上人像が祀られています。また、本堂には諸仏が安置されています。二祖・観性法橋(かんせい・かんしょうほうきょう)筆とされる本尊の佛眼曼荼羅(ぶつげんまんだら)は、かつての三鈷寺の壮大な本堂に祀られたものですが、現在の本堂には納まりきれない大きさのため、京都国立博物館に寄託されていて、代わりに智証大師円珍作と伝わる全身が金色の珍しい不動明王像「金身不動明王」が本堂の中央に祀られています。

また、本堂右手には慈覚大師円仁作といわれる「抱止阿弥陀如来(だきとめあみだにょらい)」が祀られています。この像は、右手を胸に置き、左手を下方に下げた姿をしていて、先程書いた実信房蓮生が夢の中でこの阿弥陀如来の姿を見て、その姿を追って衣にすがり付いたところで夢から覚めたという伝説が伝えられます。その他、西山上人筆と伝わる「当麻曼荼羅」、同じく西山上人作という「十一面観音菩薩像」、「西山上人思惟像」、「西山上人思惟之御影」、西山上人筆「鎮勧用心」、「宇都宮頼綱画像」、三条称名院筆「宇都宮系図」等の寺宝を所蔵しています。


さて、三鈷寺の一番の人気は・・といってもこのお寺を知らない観光客は多いですが・・本堂前や客殿からの眺めです。
その眺望は、関西屈指といわれ、比叡山から東山三十六峰、京都市内、宇治、城陽、木津方面まで一望出来、江戸時代の「都名所図絵」では「二大仏七城俯瞰の地」と記されています。
(「二大仏七城俯瞰の地」ですが、「二大仏」とは、京都方広寺と奈良東大寺の大仏のことで、「七城」とは、二条城、伏見城、淀城、高槻城、大坂城等の京都内外の城を意味します。もちろん実際は大阪や奈良まで眺望出来る筈は無いのですが、それ程眺望が良いと例えられたようです。)
違いはあまり判らないと思いますが、本堂前(無料)と客殿(有料席)からの眺望写真を掲載しておきました。(最初の二枚が本堂前、残り三枚が客殿から、少し見える角度が違います)
特に東山に上る名月の眺めは関西随一とされ、中秋の名月を鑑賞する「観月の夕べ」も行われているようです・・・夜に懐中電灯を片手に急坂を登るというのはかなりハードですが。

また、境内では、桜やツツジ、紫陽花、桔梗、萩、紅葉等四季を通じて花を楽しめ、特に境内東にある大きなイチョウの木がお寺のシンボルとなっています。(今回はこのシンボルのイチョウの葉は落ちてしまった後でしたが、客殿裏にある別の大きなイチョウも含めて撮影しておきます)

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事